第69回:南相馬・おれたちの伝承館「被害を伝えるばかりではなく、過酷事故をもたらす者たちへの抗いの力を表している」(渡辺一枝)

 7月12・13日の一泊二日で、南相馬市の小高へ行ってきました。12日は中筋純さんたちがつくり上げた「おれたちの伝承館(おれ伝)」開館日で、開館のその日にぜひ、行きたかったのです。それが第一の目的、それともう一つの目的は前回の小高訪問時に話を聞かせて頂いた魚屋さんの谷地茂一さんを再訪したかったのです。

「おれたちの伝承館」開館

 友人のMさんを誘って、仙台経由で小高へ。Mさんは新幹線の車窓から見える山々を期待していたけれど、残念ながら曇り空で山は見えなかった。
 小高、双葉屋旅館に荷物を置いてから「おれたちの伝承館」に着いたのは午後2時40分くらいだったか。開館時刻は3時と聞いていた。「おれ伝」の前には、もう大勢が集まっていた。純さんはじめ、知った人たちに挨拶をして、開館の刻を待つ。
 閉じた入口シャッターの前に今野寿美雄さんが進み出て、カウントダウン。「10、9、…3、2、1」で、今度は純さんが進み出てシャッターに貼ってあった「工事休止中」のシートを剥がし、シャッターを開けた。入口突き当たりの壁には大判の夜ノ森の桜並木の写真が貼られ、その前に蛇腹折の立ち入り禁止柵が設置されてある。この設えだけで既に、「この先で見えるものは、おれたちが伝えていきたい核災害を受けた地の姿なのだ」と伝えているように思った。
 今野さんが「まず最初に友子さんから」と声をかけ、双葉屋旅館の女将の友子さんの名を挙げ、友子さんと、この建物を提供してくださった浅野さんが建物の中に入った。続けて私も入館したが、もうその時点で、アーティストたちが作品に託した思いが館内に充満しているようで、私はその空気に圧倒された。
 美術展などに行くと、大抵いつもはじっくりと作品に対峙しながら作者の思いを心に刻みつけていく。二人展では双方の作品から作者たちの会話、心の交感を想い浮かべ私の思いをそこに重ねる。ちょうど今東京都写真美術館で開催中の本橋成一さんとロベール・ドアノー、日本とフランスの2人の写真家の二人展「交差する物語」を観た時が、そうだった。
 グループ展では、全作品からグループの特徴を感じ取って、その中にあって気になる作家の作品に見入り、グループの中での作家の立ち位置にも思いを馳せる。個展、2人展、グループ展に限らずどんな時にも、会場に合わせての作品の展示法、たとえば順序や配置の仕方などが、その展覧会の魅力に大いに作用すると思う。特に2人展やグループ展では、展示方法により展覧会の印象が決まってくるのではないだろうか。
 「おれ伝」、開館の日に館内に足を踏み入れた瞬間私は、「やっぱり純さんって、天才!」と思った。倉庫だった建物を純さんが初めて見た時にまず思い浮かんだのが、8mの天井高の吹き抜け空間に山内若菜さんの天井画を飾りたいということだったそうだ。他にも多くのアーティストが作品を展示するから、もし個展、2人展、グループ展のようにジャンル分けするなら、この空間はグループ展ということになるのかもしれない。でも、そんなジャンル分けは「おれ伝」では全く意味をなさないのだった。もう、この会場の建物そのもの、室内はもちろんのこと外観も含めて、また建物外の敷地内全てを含めて、大きな、とても大きな一つの作品だった。純さん一人が決めたことでなく出品するアーティストや関わる人たちの思いも十分入っているだろうが、例えばこのコーナーには誰々の作品をなどと、全体をイメージして仕切っていったのは純さんだと思う。
 ゲートの向こうの夜ノ森の桜並木道に誘われて館内を進んだ。白骨化した牛の立体像は和紙で造られている。小林桐美さんの作品だ。浮かんだ肋骨、ガックリ垂れ下がった頭部、棚の柱には飢えて齧った跡が残っている。これは、小高の半杭牧場の餓死した牛を模している。
 歩を進めると小さな貝が入った小箱がずらりと並び、「貝からのつぶやき」とタイトルがあった。小箱の中の貝は野口久美子さんが小高の村上海岸で拾ったものだという。被災前の夏には海水浴客で賑わった海岸だ。餓死した牛も、陽光に晒されて白くなった貝殻たちも、放射能が降った地、この小高を象徴していた。
 それらと対面する壁にはジャスミン(金原寿浩)さんの壁いっぱいの大きな木炭画「更地」。解体された家や伐採された樹木を覆い隠すように更地の大地が広がっていた。広大な更地の町になってしまった浪江、墨色一色の木炭画が無念の思いを訴えかける。
 相対するその2つの壁面の中央が「おれ伝」の真ん中・中心で、天井画までの吹き抜けだ。安藤栄作さんが斧で削った大きな木彫作品、「鳳凰」が天を指すように屹立している。
 その流れを受け止めるように若菜さんの天井画「命煌めき」があった。純さん曰く「この天井画を吊り上げた瞬間、この館の心臓が動き出した」。ああ、本当にそう思う。「おれ伝」のこの館は、展示された各作家さんたちの作品全てが互いに呼応しあっていのちの通う有機体のように思える。
 片平仁さんのコンピューターグラフィック、加茂昂さんの排泄物を堆肥化した画材で描いた絵、鈴木邦弘さんのおじさんと犬のイラスト画や堀川さん家の楓の木、阿部尊美さんの写真、大塚久さんの漫画、すぎた和人さんのかつての村上海岸の風景などなど、みんなみんなこの中で息づいている。何が欠けても有機体として何か不足があるようで、それぞれが互いに呼応しあっている。
 館内だけではない、敷地の東端ステージの背景になっている坂内直美さんの壁画「朝焼けの太平洋」は、向こうの海原から昇る朝の光が海面に反射してキラキラと眩しく光る。大海原が、息する「おれ伝」を抱いているようだ。
 嬉しかったのは入り口すぐのところと2階ロフトに飾られた青田惠子さんの布絵。小高から大津市に避難した惠子さんは、帰れない故郷の思い出を布絵に託した。惠子さんが故郷小高に戻ってきたようで、布絵の中の子供の声が聞こえてくるようだった。
 展示された各作家たちの作品は、それ一点でも、たとえば個展や二人展、グループ展などで深く訴える力を持っていると思うが、今「おれ伝」に在って、互いに響き合う力を発揮しているのではないだろうか。ここ「おれ伝」だからこそ出せる力を。
 それぞれの作品の前に立てば、原発事故がもたらした被害の実相がリアルに伝わってくる。アートの力は、作品を前にした私たちに、その原因になった現実を想い浮かべさせる。例えば白骨化した和紙の牛の前で息を呑む。こんなに酷い現実があったのだと。木炭画の更地の前に立てば、そこで営まれてきた暮らし、積み上げられてきた歴史も、育んできた周囲との繋がりも、思い出さえも消されてしまった現実に憤り無念さを噛み締める。
 感性が研ぎ澄まされて、原発事故の惨さが我が事として胸に迫ってくる。それだけなら辛さに打ちのめされるようになるのだが、この館全体が醸し出す生命感が、「負けるもんか!」という気分を奮い立たせてくれる。そう感じた時に私は、思い至ったのだった。「おれ伝」は、原発事故の被害を伝えるばかりではなく、過酷事故をもたらす者たちへの抗いの力を表しているのだと。
 「おれたちの伝承館」が、2023年7月12日に小高に開館したことが、私にはとても嬉しい。

谷地茂一さん・美智子さん

 谷地さんを前回訪ねたのは4月30日、双葉屋旅館の友子さんに連れて行ってもらった。夜遅くの訪問だったのでゆっくりお話を伺えず、それで改めて話を聞かせていただきたくて訪問した。今回はお連れ合いの美智子さんも同席して下さった。
 茂一さんは、避難後の仮設住宅住まいの頃を話してくれた。
 「仮設住宅にいた時に一番嬉しかった支援物資は、銀座の天ぷら屋さんが活きた車海老を持ってきて、天ぷらの揚げたてを供してくれたこと。プリップリの身で、あれは美味しかったねぇ。ここらじゃ車海老は入らないからね」。茂一さんが言うと美智子さんも「殻剥くの手伝ったんだけど、綺麗にくるっと剥けるのよね。『奥さん上手だね』って、天ぷら屋さんに褒められたけど、活きた車海老だったからね。だってうちの店に入ってくるのはブラックタイガーやバナベイエビであんなに綺麗に殻が剥けないのよね」。それを聞いて私は改めて、南北に長い日本列島で福島県の浜通りの自然の条件や特性などに思いを馳せる。そうか、この辺りでは車海老は獲れないのだと思い知る。
 お二人の話を聞きながら私は、仮設住宅の生活を思い起こしていた。谷地さん夫婦が入居していた仮設住宅を訪ねたことはなかったが、同じ鹿島区に在った別の仮設住宅に通っていた時に、炊き出しのラーメンやスペイン料理のパエリヤが供される場面には何度か出会ったことがある。仮設住宅の人たちには、炊き出しは本当に喜ばれていた。それが活きた車海老で、その場で揚げたての天ぷらと海老のだし汁を供されたら、その味はもちろんのこと、天ぷら屋さんの心意気が、どんなにか嬉しかっただろう。
 ただ、支援物資はありがたいものばかりではなく、どうかと思うような酷い物もあったと言う。これは私にも体験があり、穴の空いたスニーカーや着古したTシャツ、小さなサイズの豪華なドレスなどなどの例を出し合って、谷地さん夫婦と3人で話が盛り上がった。
 また、こんな話も聞いた。南相馬市は小高区がほぼ10キロ圏内、原町区の大半は20キロ圏内、鹿島区は一部を除いて20キロ圏外だ。仮設住宅にはこれら3地区からの住民が避難してきていたが、小高区・原町区からの避難者には水が配られたが、鹿島区からの人たちには配られなかったという。同心円で避難指示が出されたことの問題点が浮き彫りになるような話だ。こんなことが避難者同士を分断させる一因にもなっただろう。これは賠償金や補償金支給やその額についても言えることだ。
 茂一さんは仮設住宅に住まいながら移動販売を始めたが、それで商売して儲かるということではなく、品を届けた先の一人住まいの高齢者の相手をして話を聞いてあげる、商売というよりいわばボランティア活動のようだったと言う。そう聞いた時私は、移動販売車で行く時には美智子さんも一緒だったのか尋ねた。仮設住宅に避難してから美智子さんは、近くの介護施設「田園」で働くようになっていたから、一緒に移動販売に行くことはなかったという。介護施設で働くようになったきっかけは、親戚が入所していたのでお見舞いに行った時に、掃除を手伝ったことからだったそうだ。
 2016年7月12日に小高が避難指示解除になった3日後、7月15日に、谷地さん夫婦は店を再開した。それは、避難してから5年4ヶ月後のことだった。開店の日には幼稚園児2人が店に来て、それをNHKが取材し放映されたという。その日を誇らしそうに思い返しながら、それまでの日を語ってくれた。
 茂一さんと美智子さんは避難した時からずっと、「小高に帰りたい、帰ってまたあそこで店を再開したい」と思い続けていた。メディアから取材を受けた時も、いつもそう話していた。戻って再開するためには、店舗兼住居を解体して建て直す必要があった。解体申請の許可がなかなか下りず、避難指示が解除されるまでに建て直しが叶うかどうか、非常に危ぶまれていた。しかしいつも取材を受けた時には「帰りたい」と言っていたのが環境省の耳にも届いたのか、許可が下りた。だが今度は、「建て直す時には頼むよ」と言って引き受けてもらっていた業者が、他の仕事にかかってしまっていた。それでも解体許可が下りたことを伝えると、そっちの仕事を中断して谷地さんの店の改築に取りかかってくれたという。そうして迎えた指示解除3日後の開店だったのだ。2人が再開の日を誇らしげに語るのは、そうしたご苦労があってのことだった。
 もっとたくさんの話を聞かせてくれた茂一さんだが、途中でふと席を立って、半切サイズの風景写真を持ってきて見せてくれた。のどかな春の空気が感じられる美しい写真だった。その1枚だけではなく白いボール紙の箱には何枚もの写真が入っていて、美智子さんが次々に箱から出して披露してくださる。どの写真も、もしカレンダー会社が見たら使いたくなるのではないかと思える写真だった。山の端に白く輝く満月が上り、水面にその月が映っている写真を見せながら、美智子さんが、「これ撮った時は、湖を通り過ぎて山の向こうから月が上がってくるのが見えて、『お父さん、ちょっと戻ろう、今戻ったら良いのが撮れるから』と言って、湖まで戻って撮ったの」と言った。茂一さんは30代の頃から地元の写真同好会に入っているそうだ。趣味は写真と洋画鑑賞と絵を描くことだと言う。それを聞いて納得した。見せてもらった写真の構図が素晴らしいのは、絵心があるからなのだと。他にも意外な趣味として御詠歌の詠唱があり、これも地元にグループがあるそうだ。檀家となっている寺の施餓鬼の日には、毎年、茂一さんが音頭取り役になって仲間たちと詠唱するそうだ。朗々とした声で、一節詠じてくださった。
 ふと、美智子さんに「お昼はどうするの?」と問われ、ああ、もうそんな時間になっていたと思い、長くお邪魔してしまったことを詫びながら外の店を探して食べると伝えると、次にどこかへ行く約束があるのかと聞かれた。無いと答えたら「冷やし中華作るからここで一緒に食べましょう」と言ってくださり、それに甘えた。美智子さんが台所に立つと茂一さんが「カツオを切ってやっか?」といい、私たちが遠慮するのを尻目にサッサと店に下りてしまった。
 テーブルには美智子さん手製の冷やし中華、新鮮なカツオの刺身が盛られた大皿の縁にはたっぷりとおろしニンニクが添えられていた。思いがけない展開にカツオ好きの友人の顔が脳裏に浮かびながら、そっと箸をのばしていただいた。冷やし中華も頂いてせっかくのカツオの刺身は2切れで、もうお腹はいっぱい。「ごめんなさい、せっかく切ってくださったのに、もう入りません」と謝ったが、茂一さんは気にも止めず「そうかい、美味かったろう」と笑っていた。
 食後のお茶を頂きながら、小高の現状を話してもらった。茂一さんはひとつの行政区の区長をしているという。震災前の小高には住民が2836人いたが、今は830人。この行政区も130世帯が住んでいたのが今は60世帯で、人口は100人以下だという。この前来た時、夜間に小高のこの行政区である駅周辺を歩いて、明かりがついた家々があることを見て、「ああ、随分人が戻ってきているのだな」と感じたのだが、実際には半数以上の人が戻らない、戻れないままなのだと思い知った。人口が減った中で、行政区の区長としての役目はなかなか厳しい面もあるようだ。被災前には当たり前にできていたことが、今はそうはいかないことが多いと言う。だが、「頭下げるのはタダだから、頭下げて色々頼んでやっている」と、屈託なく言う茂一さんだった。
 避難民生活を味わって、性格が変わったと言う。前はむかっ腹が立っていたようなことも、感謝して受け止めるようになったと言う。それを聞いて、この前来た時に美智子さんへの感謝の思いを表そうと贈った大きな胡蝶蘭を見せてくれたことを私が言うと、美智子さんは「手入れが大変なのよ」と言いながら、もうすっかり花が終わったその鉢を見せてくれた。
 それでも、来年また花を咲かせるにはどうしたら良いのか教えてもらって、大切に世話をしている。そればかりか、茂一さんがまた新たに求めてきた花色の少し珍しい別の胡蝶蘭を、美智子さんは世話している。なんだか夫婦の役割分担がはっきりしているけれど、とても素敵なご夫婦だなと、鉢植えの胡蝶蘭を見ながら私は思った。
 お暇の挨拶をすると茂一さんは、「またこれ書いて」と言って宿帳を差し出した。書き終えた私たちに、「またいつでも遊びに来てください。外からの刺激が嬉しいですよ」と言う谷地茂一さんだった。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。