第60回:ふくしまからの日記──南相馬「途絶えた文化や人の営みを、地域みんなが丁寧に紡ぎ直している」(渡辺一枝)

 南相馬市・小高の双葉屋旅館の小林友子さんに「一枝さん、今度一人で小高にいらっしゃい。案内したい所や会わせたい人がいるから」と言われていました。小高は心惹かれる地でしたから、すぐにお誘いに乗りました。上野から常磐線一本で行くか、それとも仙台まで新幹線を使い、仙台から常磐線にするか迷いましたが、往復ともに仙台経由で行ってきました。

4月30日

 4月30日、東京駅発12時44分の「はやぶさ57号」に乗車。東京駅ホームはどの番線も、乗車を待つ人の列が延びていた。日曜日の昼過ぎなのに、全車指定席の「はやぶさ」も空席は少なかった。といっても隣席は空いたままで、前後と通路を隔てた席は埋まっていた。7〜8割程度の乗客数のようだった。コロナの規制が解けて、人の移動が繁くなってきた。外国人旅行者の姿も多い。
 仙台まで行く時には大抵「はやぶさ」を使うので予め乗車券・特急券を買って座席は確保しておくが、福島までの時は自由席のある「やまびこ」を使うことが多い。座るのはいつも進行方向左の2人掛け座席の窓側「E」をとる。山が見えるからだ。大宮辺りまでは富士山、その先からは男体山に連なる山々、そして磐梯山や吾妻山などの山容を眺めて行く。上天気のこの日、持ってきた本を開いてはいるのだが車窓の景色に目を奪われて、読みかけの本にはなかなか気持ちが戻らない。
 仙台駅着14時17分、ぴたりと時刻表通りだった。常磐線原ノ町駅行きは14時40分だから、少し時間が空く。一度改札を出て駅構内を歩くと、ちょうどイベントで宮城県内の物産販売をしていた。山元町のイチゴを売っていたので、お土産用に購入。
 再び改札を通って6番線から常磐線に乗車した。海側のボックス席に座り、外を眺めながら行く。以前、まだ常磐線が全線再開される前に一度、仙台から原ノ町まで行ったことがあったが、鉄道が不通の部分は代替バスが運行されていて、それを利用したのだった。だから電車の窓から見る景色は、私には初めてのものだ。無人駅を過ぎる時は目を凝らして駅名を確かめる。館腰駅を過ぎると線路に沿った道沿いの幼稚園の2階屋上に、ゲル(モンゴル式テント、パオともいう)が建っていた。なぜそこにゲルがあるのだろうと、そのわけをいろいろ想像しながら、モンゴルの旅を懐かしく思い起こした。次の駅の岩沼では男子高校生が数人乗り込んできた。運動部に属する生徒たちなのだろう、みな坊主頭で日に焼けて、何やら楽しげに談笑していた。亘理駅を過ぎ次の駅で駅名表示板に「浜吉田」とあるのを見て、以前に代替バスに乗ったのはここからだったことを思い出した。
 新地駅を過ぎると窓の外には、前に今野寿美雄さんと車で浜街道を通った時に間近に見た「新地発電所」やLNG発電所の煙突が、遠くに見えた。相馬港、松川浦辺りを過ぎて日立木(にったき)駅のすぐ先には線路側に「日立木牧場」の看板を掲げた廃屋が見えた。屋根瓦が崩れた木造家屋の壁には「馬具注文お受けします」の看板が掲げられていたから、日立木牧場は、馬牧場だったのかもしれない。野馬追の里であることを思った。
 そして鹿島駅へ。「六角支援隊」の一員として仮設住宅を訪問していた時期は、いつもは拠点のビジネスホテル六角から大留隆雄さんの車で通ったが、極たまに大留さんが留守で他に六角支援隊の鈴木さんや荒川さんにも頼めない時は、原ノ町駅から電車に乗って鹿島駅で降り、ここから歩いて仮設住宅へ行ったのだった。

小高駅着

 16時08分、終点の原ノ町駅到着。ここで19分待って、16時27分原ノ町駅発のいわき駅行きに乗った。原ノ町で同じ車両に乗った人は大きな買い物包みを持った30代くらいのカップルと60代くらいのカップルの二組だった。若い方の2人組は次の磐城太田駅で降り、もう一組は私と同じく小高駅で降りた。磐城太田は周辺に商店は皆無だし、小高は小さなスーパーや魚屋、金物屋、カフェなどあるが、日常の買い物は小高だけでは足りないだろう。
 小高駅に16時38分着、電車から降りるには自分でドアを開けなければいけない。ドアの前で立っていても、自動的にドアが開いたりはしない。ドア付近のボタンを押すと、開くのだ。無人駅なので、改札口に設置された箱の中に乗車券を入れて出た。

「おれ伝」の矢印が示すのは

 中筋純さんや今野さんたちは、まだ「おれ伝(おれたちの伝承館)」にいるはずだからと、双葉屋旅館に行く前に、まず「おれ伝」に行った。「おれたちの伝承館」というのは、2020年に福島県が双葉町に開設した、原発被害の実相を伝えない「東日本大震災・原発災害伝承館」の向こうを張って、さまざまなアーティストたちがそれぞれの表現手段を使って原発事故を伝える作品を展示する美術館だ。2023年の開館を目指して、元は水道設備会社の倉庫だった建物の清掃と改修をしている最中なのだ。作業している仲間たちへの慰問に、仙台駅で買ったイチゴを届けようというわけだ。
 「おれ伝」に着いたら、阿部尊美さんが1階のコンクリート床に水を流して掃き清めていた。井上貴さんや小原直史さん、他の人たちもそれぞれ作業中だった。2階ロフトでは今野さんと相原あやさんがホイストクレーンの上に居た。今野さんの「東行き発車」「西行き発車」の声で移動しながら、あやさんが屋根勾配下の桟に掃除機をかけて除染していた。
 純さんの「一枝さん、これ見て」の声で庭に出ると、純さんは庭に板を埋め込んで設えた矢印を示した。庭は土を剥いで除染した後に砂利を敷いて土中の放射能を遮蔽してあったが、低い板囲いの矢印の中は砂利ではなく土が敷かれていた。砂利を剥いでもう一度土を剥いで、新たにきれいな土を入れてあり、そこには植物を植えるという。矢印が指す方角に、東京電力福島第一原子力発電所がある。
 すごいなぁ、純さんの発想! 「おれ伝」の建つこの場所、この倉庫だった建物、それら全てが原発災害を伝えるものだが、それをこうして総合的なアートを展示する場に替えて、原発災害を伝える美術館にしてしまう。そればかりか、こうして開館に向けてのみんなの作業自体をまた、記録映像として作品にしてしまう(YouTubeで「おれ伝50(フィフティ)」を見てください。このタイトルからしても、あの美談に仕立てられた映画『Fukushima50』をもじっている)。連日のように、北から南から多くの人たちがボランティア作業に駆けつけて、力や技術や知恵や物を持ち寄って「おれたちの伝承館」開館に向けで心を合わせている。「もやい結び」のように集まっている仲間たちだ。私は、7月のオープンの日を、心から待ち望んでいる。

もやい仲間のレジデンス

 「おれ伝」現場から双葉屋旅館へは、「一枝さん、送っていくよ。俺も風呂に入りにいくから」と言う今野さんの車で着いた。食堂で寛いでいると、井上さんや阿部さん、あやさんらもやってきた。おれ伝の仲間たちはここでお風呂を使わせてもらって、宿舎に戻って行った。友子さんが「ビールでも飲んでいく?」と声をかけたが、「いや、車だから」と、風呂上がりにさっぱりとした顔で、みんなは帰っていった。
 おれ伝の近くに「おれ伝」用の宿泊棟を一軒、借りている。みんなはそこを「レジデンス」と呼んでいる。「おれ伝」があの場所に開設できるのも、レジデンス借用も、友子さんの力によるところがとても大きい。レジデンスは「おれ伝」開館前はこうしてボランティア作業に集まった仲間たちの宿泊場所であるし、開館後はスタッフはもちろんのこと招聘したアーティストの宿舎にもなる。3・11後、住民がいなくなって荒れていたこの家を宿泊できるように徹底して除染し、きれいに掃除して障子を張り替え台所用具を整えるなどの作業も、集まってきた「もやい仲間」たちがボランティアでしてきたのだった。
 私は前回来た時にレジデンスを見せてもらったが、広くて使いやすそうな台所、バスルーム、トイレ、畳敷の部屋が3部屋あり、男部屋、女部屋、食堂としているようだった。レジデンスも「おれ伝」本館も、元原発作業員で放射線管理を専門にしてきた白髭幸雄さんの指示を仰ぎながら、除染は徹底してやっている。

haccobaで女子会

 友子さん手料理の夕食を美味しくいただいた後で「女子会」と称して、友子さんと近くにできたお店「haccoba(発酵場)」に行った。もやい仲間のあやさんと阿部さんも、さっき二人がお風呂に来た時に誘っておいた。haccobaに着くと、もうあやさんと阿部さんは席についていた。ここは「酒づくりが免許制になった明治時代以前の、自由な酒造りこそが発酵文化の源流である」という趣旨で、「クラフトビールのカルチャーで日本酒を捉え直す」として、日本酒の発酵過程でビールのホップを加えて新しい酒造りをしている店だ。埼玉出身の佐藤太亮さんといわき出身の妻みずきさんが、2021年2月に小高に開いた酒蔵で、パブは金・土・日のみ予約制、ショップは月曜定休で営業している。
 ドリンクメニューはどれもとても洒落た名前だった。後の祭りではあるが、写真に撮るか書き写せば良かったと思う。私はほとんど飲めないのだが、あやさんたちは注文した物を飲み比べたりしながら、品評していた。こんな時には飲めたら良いのになと、いつも私は思う。
 オーナーの佐藤さんに、「なぜ小高で?」と問うてみた。「原発事故後の一時避難で人口がほとんどゼロになった小高だが、ここは途絶えた文化や人の営みを、地域みんなが丁寧に紡ぎ直しているフロンティアな地域だと感じたから」と答えが返った。

明かり灯る家々

 「あ、大変、もう10時になっちゃう。やっちゃんを待たせちゃってる。私たちお先に失礼しますけど、みなさんゆっくりしていって」と友子さんが言って、友子さんと私はhaccobaを出て、9時過ぎに伺う予定だった谷地茂一さんの家に急いだ。
 小高には何度も来ていたが、これまで夜の街中を歩いたことはなかった。だがこの夜、家々に明かりが灯っているのを見て、こんなにも戻って暮らしている人たちがいるという事に驚き、心打たれた。もちろん被災前から比べたら住民の数は4分の1程度なのかもしれないが、こうして明かりが灯るのを見れば、人々の息吹が感じられる。いまだに放射線量の高いところも多々あり、若い人や子どもが住むことには不安を感じるが、「小高は生きている」と思えて嬉しいことだった。

谷地茂一さん

 谷地さんには初めてお会いするけれど、友子さんから「魚屋さんの」と聞いて「あ、あの魚屋さんの」と思った。2016年7月12日に避難指示解除になった小高で、いち早く7月15日に営業を再開した魚屋さんだった。友子さんは「やっちゃんは小高の生き字引みたいな人で、いろんなことを知っているから話を聞くと良いわよ」と言った。
 遅い時刻にお邪魔した失礼を詫びると、一向に気になさらない風に「いやいや、まぁどうぞ」と招き入れてくださった。そして「今まで名刺なんか持ってなかったけど、今度作ったの」と言って出された名刺の表は大きな半身のカツオのイラスト入りで、そこにルビ入りで「谷地茂一」の名前と携帯番号が白地に紺青色で印刷されていた。裏面は同じく白地に紺青で店名の「谷地魚店」と固定電話番号、住所が書かれ、店名の上には小さくカツオのイラストがある斬新なデザインの名刺だった。
 谷地さんは問わず語りに話し出した。
 「小高の人間は、一言で言えばお人好しなんです。でもまた小高の中でも、神社(小高神社のこと)から向こうとこっちは少し違う。合併で変哲もない本町、東町なんて地名になっちゃったけど、向こうは上町で下手のこっちは田んぼだったから田町って言ってた。神社には城があったから上町に住んでた人は武士だった人たち。こっちは戦後、戊辰戦争か大東亜戦争なのか、戦後に住み着いた人が多い。それと天明の飢饉で新潟から来た人たち。越後屋なんて店の名前にもある。保険の集金の人が言ってたけど上町に集金に行くと、今そこでお茶飲んでても『飲んでけ』とは言わない。こっちは今、仕事の最中の時行っても『お茶入れるから上がれ』って」
 そんな風に語り出し、被災後の避難生活や、移動販売車を持っていたので仮設住宅に入居していた時から移動販売を始め、お得意さんだった人から「小高に戻ったら、またあんたの店に買いに行くよ」という声を聞き、絶対に戻って店を再開しようと思ったことを聞かせてくれた。
 「帰還して再開後、取材を受けることが多かったが、NHKは『復興のため』に戻ったと言わせたがった。それと『絆』という言葉が好きで使いたがった。3月12日に小高を離れる時は、すぐに戻って店を始めるつもりだったのに、(実際に店を再開できたときには)あれから5年4ヶ月も経っていた。俺は、『復興のため』なんて思っていない。ここは風の通りが良くて、昼寝すると気持ちが良いんだ。それが良くてここに戻って来たんで、復興のためなんて思っていない」
 被災前のさりげない日常がどれほど大切なものであったかを語り、けれどもメディアはそれを知ろうとせずに、復興を言い立てようとする様を語ってくれた。
 だが、谷地さんは心地よい風が通る部屋での昼寝を思い描いて戻って来たのだが、震災後の今は、風が違うと言う。風の音も違うし東からの風も冷たすぎると言う。友子さんも、海辺の林や建物など遮るものが無くなって、風当たりが以前よりも強くなったと言った。
 「これを書いてもらってます」と言って谷地さんが見せてくれたのは宿帳だった。ボランティアや取材、被災地を知りたいなどと訪ねて来て泊まるところがないと言う人がいると、宿泊代はタダで泊めてあげていると言う。魚を買って貰ってそれを刺身にして供し、ご飯や他のお菜もつけて出すそうだ。「友子さんの商売邪魔してるけど、震災前には未知だった人が、刺身買ってくれて酒飲んで、何回も来てくれると、俺も幸せだ」と言う谷地さんに、友子さんは「そうやって来てくれるんだから、ありがたいよね」と、谷地さんの無料宿泊所提供をいっこう気にはせず、却ってそれが小高にとって有意義なことだと言う。
 「俺はね、震災後は自分の性格が変わったと思う。感謝していれば疲れないことを知った。移動販売する時だって女房が反対したらできなかったし、この店だって女房が反対だって言ったら再開できなかった。黙ってやらせてくれるばかりか、本当にこの人が働いてくれるから、うんと助けられている。それは大きな幸せだ。それでこの間、国民年金おろしてきて女房にプレゼントしたの」と言って、次の間に続く襖を開けて見せてくれたのが、それはそれは大きく立派な鉢植えの胡蝶蘭だった。素晴らしいプレゼントに見惚れている私に、谷地さんは言葉を続けた。
 「前進するっていっても目標なんか無くて、目の前の仕事ひとつひとつこなしていくのが前進だ」。友子さんも言葉を継いで、「誰々が困ってるって言ったら、一つひとつ聞いてやってあげることだもんね」と言い、小高に新規に移住して来た人たちを友子さんや谷地さんたち以前からの住民がどう支えていくかが話題になっていった。
 「俺に質問あったら、なんでも聞いて」と言う谷地さんに私は、「お話を聞かせていただくことで、私は自分が何を知らなかったのかを知っていきます。それでお聞きしたいことも出て来ますが、今日はもう遅いので、また今度ゆっくりお邪魔させてください」と言って、友子さんと一緒に谷地さんのお宅を辞した。時計の針は11時を指していた。

5月1日

人が、人を惹き寄せる小高

 翌朝、いつものように朝食前の散歩に出た。6時前だが、もうすっかり明けていて、道が東に向かうと眩しくて、両手を額にかざす。桃内駅の方に向かって常磐線に沿う道を行く。カジカの声が聞こえる。そして鶯の鳴き声も。なんて気持ちの良い朝だろう! 路肩には濃い紫のキランソウ、薄紫のカキドオシ、黄色い花はもっと幾種類も。ニガナ、クサノオウ、キジムシロ、タンポポ、菜の花、オニタビラコ。アカバナユウゲショウのピンクの花や、オレンジ色のナガミヒナゲシは、もう長い実(種)をつけているものもある。タネがこぼれたのかそれとも蒔いたのか、マーガレットの白い花も路肩に咲いていた。
 まだ人々が働き出す前の時間だからか、車もほとんど通らない道をカジカや鶯の声を聞きながら歩いた。桃内駅まではまだずっと距離がありそうなので回れ右をして、花を積みながら引き返した。空き地の向こう側に「おれ伝」が見えた。ちょうどこれからまた作業を始めるらしく、入り口のシャッターを誰かが開けているところだった。少し道を戻って向こうの通りに回って「おれ伝」に寄ってみんなに挨拶をした。ついでに純さんに頼んで隣の空き地の溝に咲いている黄花菖蒲を一本切ってもらい、自分で摘んだ花と一緒にした花束を抱えて、私は双葉屋さんに戻った。
 歩きながら思った。「おれ伝」が当初に建設を予定していた浪江に、ではなくこの小高に根付くことって、そうなる必然があったのかもしれないと。
 2011年8月から福島に通ってきた私だが、なぜか小高には強く心惹かれてきた。埴谷雄高や島尾敏雄、鈴木安蔵に所縁の地であることは心にあったけれど、避難指示解除されてから実際に小高に通い始めてみたら、まず、人に惹かれた。双葉屋旅館女将の友子さん、「おだかぷらっとほーむ」の廣畑裕子さん、裕子さんのお姉さんで介護事業サービス「彩りの丘」の大井千加子さん、同慶寺の田中徳雲さん、また故藤島昌治さん、仮設住宅で何度も会って話を聞いてきたハルさんやヨシ子さんや他の人たち。それらの人たちの人柄に魅せられた。だから、初めはボランティアで通っていた「スタジオ・サードアイ」のすぎた和人さんが、いつの間にか小高に住み着いてしまったことにも頷けた。
 小高という地は、人が惹き寄せられるように集まる地だと思う。もちろん前述した人たちの生き方や日頃の活動が、小高という地をこうした特別の場にしているのだろう。それは、昨夜遅くに訪問した谷地さんの話からも感じたことだ。人が、人を惹き寄せるのだ。

希来(きら)の杜

 爽やかな5月の始まりの日、最初に訪ねるのは「希来の杜」。そもそも今回の小高訪問は、双葉屋さんに前回泊まった時に、友子さんの夫の岳紀さんが「うちの畑、菜の花が満開だよ」と、スマホの写真を見せてくれたことからだった。写真に写っている光景を見たいと言った私に、友子さんが「今度一人でいらっしゃい。案内したい所や会わせたい人がいるから」と誘われたことがきっかけだった。友子さん夫婦が手がけている「希来の杜」も、話を聞いているだけで、訪ねたいと思っていながら行ったこともなかった。朝食後に、岳紀さんの運転で出発した。
 東日本大震災とそれに続く原発事故によって、南相馬には耕作されない圃場が広がった。そうした圃場の再生を願って有志たちがNPO法人「南相馬農地再生協議会」を立ち上げ「菜の花プロジェクト」として菜種栽培を広げた。併せて搾油事業に取り組んできた。しかし、被災から10年経過した時に、菜の花プロジェクトで行われて来た搾油施設用地からの撤退を余儀なくされた。
 小林夫妻は、「南相馬で育んできた搾油事業の火を消せない」と考え、新たな搾油所を開設しようと、菜の花プロジェクトで使われていた搾油機を引き継いだ。そして小高の片草地区に宅地、山林、畑地、雑種地合わせて3000坪の用地を確保し、菜種栽培と片草搾油所を開設して、そこを「希来の杜」と名付けた。
 菜の花はもうほとんど種になっていたが、畑の先に「希来の杜」と立て看板があり、一軒の家が在った。元はどこか都会の人がセカンドハウスに、あるいは退職後の悠々自適生活にと定めて建てたらしくまだ年月を経ていないしっかりした造りの平屋家屋だった。友子さんが鍵を開けてくれ、一緒に入ってみた。バリアフリーで台所もとても使いやすそうだった。家具調度品も幾つか残っていて意匠を凝らしたものもあったが、持ち主は不要だからと置いて行ったそうだ。友子さんは、「ここにも泊まれるからお客さんに使ってもらってもいいと思って」と言う。
 離れた場所に新たに造った建物は事務棟で、1階が搾油所で2階が事務所だ。搾油機はまだ稼働しておらず、実際の業務開始はこれからで、今は事務所の内部を設えているところだった。2階の窓からの眺めは、目の先ずっと向こうまで畑地が続き、空が広い。辺り中に、良い気配が漂っているのを感じた。
 外に出ると友子さんが「まだ蕨がいっぱい採れるよ」と言いながら、事務棟の裏の林の中に入っていく。蕨採りの目になっている友子さんにはとても敵わないが、私も十数本を摘んだ。友子さんはもっとずっと多くを摘み、その蕨は私へのお土産として持たせてくれた。
 ずっと向こうの林まで遮るものの無い畑地を眺めながら、友子さんが言った。「ここをね、ソーラーパネルで埋め尽くさせたくないからね。小高の景色を、残していきたいからね」。その友子さんの心意気が、小高の人を繋ぎ、小高に人を繋ぐと思った。

真っ赤なツツジの垣根

 次に向かったのは、南鳩原の石川さんの家だった。前の晩から友子さんが「真っ赤なツツジの垣根の家があるの」と見事さを伝えようとしてくれていたけれど、それを聞いても私には想像できずにいた。
 田園風景の中を行くと、進行方向にその家が見えてきた。路面からほんの数mほどの緩い傾斜の小高い場所に家があった。友子さんと私は敷地の前で車から降り、岳紀さんはそのまま敷地内に車を移動させた。
 門などは構えていないが、敷地への入り口には、私が背伸びをして両手を上げたよりもなお高い、円筒形の花壇が設えてあった。ペチュニアを植えた鉢が円筒をぐるりと囲んでいて、そんな花鉢の輪が3段になって円筒を飾っているのだ。友子さんも私も「素敵だねぇ」「こんな作り方があるのねぇ」と感心して見入った。
 家の前に立って友子さんが「こんにちは」と声をかけると程なく白髪の男性が現れ、柔らかな笑顔で「いらっしゃい」と応えた。友子さんと石川さんが近況を報告し合うのを聞いていて、76歳の石川さんは今は独り住まいと知ったが、以前は家族と共に友人たちを招いて集うことも度々あったであろうことが、離れに造られた茶室や庭の井戸辺に置かれたさまざまな品から窺えた。それらに私が見入っていると「こんにちは。お庭を拝見させてください」と言って二人連れがやって来た。どうぞの声を聞いて二人は庭と、そこから続く小高い山を巡りに行った。私も後に続いた。山の自生の樹木と、作り過ぎずに自然な風情の植生で、気持ちの良い庭だった。
 屋敷を出て表のツツジの生垣に、改めて見入った。敷地入り口の方へ少し鍵の手になっているが、そこからは道路に面して真っ赤なツツジがびっしりと花をつけた厚い壁になって敷地のはずれまでずっと続いていた。ツツジの赤い生垣は私が顎を少し上げてその上辺に目が届く高さなのだが、足元には挿し木で育てたらしい苗木も十数本植えられて、それも赤い花をつけていた。友子さんが「これが垣根くらいに大きくなるには何年くらいかかりますか」と聞くと、石川さんは造作もない口調で「50年」と答えた。それを聞いて友子さんと私は、ほぼ同時に「50年!」と、鸚鵡返しに声が出たのだった。
 家の前の田んぼと、その向こうに広がる空を見ながら石川さんが言った。「小高の花火の日にはな、行政区の人らをみんな呼んでな、こっから花火見物したもんだ。終わると庭に上がって飲んだり食べたりな。今はみんな居なくなっちまったな」。石川さんの言葉から私は、被災前の南鳩原の様子を想い浮かべたのだった。

帰って来た人

 しばらく行って岳紀さんが車を止めると、友子さんは「ここでお茶を飲んで行きましょう」と言って車を降りた。小高区の小屋木地区だった。友子さんに続いて行くと向こうに、まだ建って間もないような瀟洒な造りの家があり、そこに誘う小道の入り口に「KAON」と小さな看板が立っていた。小道の両側には、自然に種が溢れたものなのか、そこここにパンジーが咲いていた。家の壁にも「KAONCOFFEE」の表札があって、田園の中のカフェという感じだった。
 明るく落ち着いた室内には先客の女性が2人居て、彼女らのテーブルにはトーストセットがあった。友子さんは「私もトーストセットを頼もう、ここはパンもジャムも自家製で、とっても美味しいの」と言った。私はメニューを見て、コーヒーはマンデリンを、そしてかぼちゃのプリンを注文した。
 オーナーの佐藤有(たもつ)さん・とし子さん夫妻は避難指示解除後、避難先の宮城県から小屋木に戻り、2019年4月に自家焙煎の「香音珈琲」をオープンした。被災前には、有さんは宮城県角田市の会社員で、ホームセンターのプランナーだった。とし子さんは英会話教室の「ECCジュニア」のホームティーチャーだったが、個人事業主として仕事をしていたので事業再開補助制度を使って喫茶店を開店したのだった。
 小屋木は大きな行政区で、震災前は100世帯くらいあって地域の活動も活発だったが、指示解除後に戻ってきたのは30世帯くらいで、人が減ってしまった。「みんな居なくなって寂しいから喫茶店でもやる?」と言ったとし子さんに、コーヒーが好きだった有さんも賛成して始めたのだという。計画プランに1年ほどかけて、自家焙煎の珈琲店「香音」が出来た。
 焙煎機を置くカウンターの中には、壁の棚にカップや皿が並び、客席に向いた側にはコーヒーのサイフォンなどが並ぶ。奥の調理場でパンを焼きケーキや料理を作る。
 客席から眺める外の景色は、空が広く向こうに木立が見え、ゆったりと寛げる心地よい空間だった。私たちが入った時に女性二人の先客がいたが、その後からも男性が一人入ってきて、香音は住民が減ってしまったこの地で、人が集まる場所になっていた。営業日は金・土・日・月ということだから、この日が月曜日だったことが幸いだった。注文したマンデリンのカップを手に取った時の香り、口に入れた時の幸福感。有さんの入れてくれたコーヒーの美味しかったこと! とし子さんの作ったかぼちゃプリンのほど良い甘さと口の中で溶ける感触に、思わず「おいしい〜」と声が漏れてしまった。

移ってきた人

 常磐線の桃内駅にほど近い耳谷地区の用水路の流れに沿って、木の香りが漂ってきそうな木造に瓦屋根の家屋があった。南に大きく開いた素通しガラスの掃き出し窓は、ウッドデッキに続いている。そこが、前の晩に訪ねた谷地さんの名刺を作った西山里佳さんのデザイン事務所のある「粒々」だった。
 ドアを開けて入るとセメント敷きの広い土間があり、土間をコの字に囲んで一段高い板敷きの場がある。土間の左右の板敷きの場はどちらも広く、片方にはパソコンの置かれたデスクが並び、もう片側の方には大きなテーブルが置かれて奥はキッチンに続いている。左右の板敷きをつなぐ廊下のような部分の壁には本棚が設えてあって、興味深く手に取りたいような本が並んでいた。
 富岡町出身の西山さんは高校卒業後上京して、グラフィックデザインの仕事をしていた。3・11後もしばらく東京で仕事を続けたが、デザインの一部だけではなく、企画やコンセプト作りなども含めて丸ごとの仕事がしたい、震災後の福島にはその可能性があると感じて福島に戻った。いわき市でデザインの仕事をしていた2018年、南相馬市に拠点があるネクストコモンズラボ(NCL)を知った。自治体と連携しながら起業家支援を行なっている団体で、今の社会を変えるのではなく、新しく「社会を作る」ことをコンセプトにしていた。西山さんはそこに共感して、小高に拠点があったNCL南相馬に入った。そこで企業型地域おこし協力隊の募集活動や拠点の整備、移住してきた人たちの住居の手配などをしてきた。
 事業を進めるには、人材募集や事業を説明するパンフレット、イベントなど開催のチラシ、拠点の空間デザインなど、デザインの仕事は必ずあるのに、地方ではデザインやデザイナーは可視化されていないと感じた西山さんはNCLを辞めて、自らが起業する側になった。丸ごとの仕事を手がける「marutto株式会社」を立ち上げた。「デザインやクリエイティブを身近に」を事業のテーマに掲げて、地域や企業の困りごとなどを丸ごと解決することを目指している。昨夜訪ねた谷地さんは、そんな西山さんを応援したくて、名刺作りを頼んだのだ。そこで働く若いデザイナーが描いたカツオのイラストは、谷地さんから何度もダメ出しを受けた末に見事に出来上がった名刺だった。
 西山さんはさらに、震災前から空き家になっていた平屋の一軒家を改築し、2021年5月に“表現からつながる家”「粒粒」をオープンした。ここは普段は「marutto株式会社」の仕事場だが、イベントの際にはその仕事場を開放して、大人から子供までが楽しめるワークショップなどを開いている。
 ウッドデッキのベンチに腰掛けると、目の先にずっと田んぼが広がっている。友子さんはここでも、「この景色をソーラーパネルで埋めさせない」と、決意を口にした。

まるで陸の孤島のようだ

 小高までの往路については冒頭に書いたが、帰りは小高よりいわき寄りの2つ先の浪江駅まで小林夫妻に送って貰って、「特急ひたち」で仙台に行き新幹線で帰京した。それにしても、東京―小高は遠かった。東京駅から仙台駅までの所要時間は1時間33分だったが、仙台駅から小高駅までは、待ち合わせ時間も含めて1時間58分、これはもう2時間と言って良いだろう。単純に距離を比較すれば、東京―仙台間は走行距離で351.8km、小高―仙台間は83.8km。もちろん新幹線と在来線各駅停車の速度の差が大きいけれど、私にはそれだけではなくて小高という場所が、なんだか蔑ろにされているように思えている。小高が陸の孤島のようにさえも思える。
 時刻表を見ると常磐線は「品川―上野―水戸―いわき」と、「いわき―仙台」ではページが異なっている。そして「いわき―仙台」のページを見ると、「いわき―仙台」と繋がってはいないのだ。「いわき」からも「仙台」からも間の「原ノ町」が終点・起点になっている。
 だから、仙台から小高に行くには、原ノ町で降りて原ノ町始発のいわき行きに乗り換えなければならない。仙台駅―小高駅を一本で結べば、小高の人にとってはどんなに便利だろうか。なぜ、同じ常磐線なのに「仙台―いわき」は、間に「原ノ町駅」を終点・起点にするのか。それは、常磐線での管区が違うからなのだという。浪江駅以南はいわき管区で、原ノ町以北は仙台管区、小高も仙台管区に含まれるらしいが原ノ町は駅構内が広いので列車を停車させておく場所が確保できるが、小高はそれができないからだと聞いたことがある。
 小高駅は特急が停まらず、いわきへ行くにも仙台に行くにも各駅停車を利用するしかない。「いわき―仙台」間で特急の停まる駅は、仙台、相馬、原ノ町、浪江、双葉、大野、富岡、広野、いわきだ。双葉駅、大野駅など、常日頃利用する乗降客はほとんどいないのではないか。それに比べて小高駅は、朝夕の利用者はとても多い。高校生が利用しているからだ。
 そこに住む人やそこに日々の用事がある人のことは考えに入れられず、鉄道会社の都合や面子、企業への経済効果ばかりが幅を利かせているように思えてならない。

 いつもの福島行は、小高に用事がある時でさえ、今野寿美雄さんのお世話になっての移動だけれど、今回はこうして身をもって小高の「遠さ」を知った。そこで暮らす人たちに会って、「小高の息吹」を感じた。私には実り多い晩春の小高行だった。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。