第120回:「今日がスタートライン」~1万人が集う県民平和大集会(三上智恵)

 「まだまだ集まると思いますよ、みなさんまだゾロゾロとこっちに向かって歩いていましたから。久しぶりにこういう光景を見て、わくわくします」

 舞台横に到着した玉城デニー知事は顔を紅潮させた。満面の笑みの知事を見るのは、久しぶりのような気がする。

 「子どもたちの未来が戦争の未来であってはなりません! 不安な未来であってはなりません! ぐすーよー、負きてぃないびらんど(みなさん、負けてはなりませんよ)。みんなで一緒になれば必ず、その頑張る気持ちが一つにつながります!」

 そして手のひらサイズの魚の形をした赤いシートにニャロメの絵とサインを書いたものを紹介した。「スイミーバイ」という取り組みで、絵本の「スイミー」をヒントに小さな魚をたくさん貼り付けて、沖縄で最もおいしい魚の一つ「ミーバイ」(ハタの仲間)の巨大な絵を完成させようというものだ。これは、平和を願う沖縄の一人ひとりは小さいけれど、集まれば大きな魚になって、私たちを飲み込むような戦雲を晴らすことも出来るだろうという抵抗のアートである。確かに、横暴な日本政府ザメとかアメリカシャチも、大きなスイミーバイを作ることができれば、蹴散らせるはずなのだ。

 この企画の面白さは、県民集会に来られない人もメッセージを書いた魚を送ることでどこからでも参加でき、完成した絵の中に爪痕を残せるということ。中には魚ではなく葉っぱに書いたものや、お願いしていた規格外の魚もあったが、予定調和にはない個性も楽しい。会場では青空の下、子どもたちがその場で魚の絵をかいていたり、親子で貼り付けていたり、横に10メートルもある巨大なスイミーバイの絵が出来上がっていく過程は見ていて飽きなかった。

 11月23日に開かれた「県民平和大集会」は、「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」が主催したものだ。この会が正式に発足したのは9月だが、その準備委員会は昨年から動き出し、2月26日の県庁前集会では約1600人、5月21日の北谷集会では約2000人をそれぞれ集めて開催してきた。米軍の基地負担に抵抗することに焦点を合わせた組織や大きな県民大会はいくつもの実績があるが、与那国島・宮古島・奄美大島などで進められてきた新たな自衛隊基地建設とミサイル防衛網の構築については、なかなか沖縄県民の中でも危機意識の共有が進まなかった。
 
 この撮影日記を以前から読んでくださっている方には説明はいらないだろうが、私は南西諸島の島々に新たに自衛隊の基地ができていくことを許したら再びここが戦場になると確信して、2015年から島々を訪ね、撮影して映画を作り、講演で訴え、本も書いた。しかし報道も低調のまま、全国はおろか沖縄県内でも、もっと言えば反戦平和活動をしている人達にさえ、危機を叫ぶ声が届かず、自分の非力さを思い知る日々だった。

 非力さと言えば、このマガジン9での連載を始めたのは2014年の夏、辺野古ゲート前の座り込み開始と同時で、当時は毎週短くても報告と動画を上げてきたのだが、3年もすると更新頻度が2週に1回だったり、月1回になってしまったり、逡巡・失速・奮起・脱力を繰り返して今に至る。特に2017年以降は、基地のない、戦争とは無縁の平和な島を作るために貢献しよう、という自分の仕事がなんの役にも立っていないように思える瞬間が増えてきた。テレビ報道から鞍替えした「映画」だが、決して映画作家になるのが目的ではない。だから取材の手も休めず、あらゆることをしてきたつもりだが、どれもが空回りしているようで苦しかった。

 年明けの1月に、この連載の2017年以降の文章をまとめた本を出すことになったのだが、この7年の自分の文章は、初期のころと全く違って、憂いや迷いに満ちている。沖縄報道生活30年目の節目に出す本が、こんなに敗北感漂うものでよいのか? と全体をまとめて読み返して苦笑する。特に、去年の今ごろ与那国島に行った時のカッコ悪いリポート(第113回)。自分の中ではどん底だった。今更こんな取材に来たって、手遅れだ。踏んばってきた人たちを何一つ楽にしてあげることも出来ないのに、痛みを紹介するのが仕事か? と自問自答し窒息寸前だった。

 しかし考えてみると、30年近く見てきた沖縄の平和運動の現場にも、あらゆる変化があった。もうだめか、と思うと新たな波が起こって盛りかえす。これで勝てるだろう、と安心すると奈落の底に突き落とされる展開が待っている。「一喜一憂しない」と百戦錬磨のおばあたちは口癖のように言う。そうありたいが、私はジェットコースターのように一喜一憂して現場にいた。2005年に辺野古沖合のやぐらが全部撤去されたとき。2014年にオール沖縄体制が構築され翁長知事が誕生したとき。こんな日が来るのか、と感涙した瞬間にピークがあったとしたら、この数年は長い低迷期なのだと思う。元気がないのは私一人ではないだろう。

 でも、そんな中でもがきながらも私が望んでいた大きな夢がひとつ実現できたのが、23日の大会だった。与那国島、石垣島、宮古島、奄美大島、馬毛島問題を抱える種子島。人口も少ない小さな島の声が、いま最も聞かれるべきSOSの声が、万を超える大勢の心ある人たちに直接届けられる場が、そこにあったことだ。「どうか聞いてほしい!」という人たちに、「ぜひ聞かせてよ!」という大衆が待つ「場」を作ること。これができなければ嘘だ。各離島や地域の声を、身を乗り出して聞く。そういう場が作れないはずがない、そう強く思っていた。

 紆余曲折はあったけれど、沖縄の暮らしが危機にあるという認識を共有し、離島や、ミサイル防衛の要になる基地拡張が進む勝連分屯地を抱えるうるま市、弾薬庫が置かれる沖縄市も、一緒になって現状にブレーキをかけ戦争を防いでいこうと確認しあう。そのスタート地点にようやく立つことができたのは、とても凄いことだと思う。さらに日米安全保障体制や自衛隊そのものについては容認の立場をとってきた玉城デニー知事が参加したことは大きい。それはつまり、イデオロギーや国防に対する認識がさまざま違っていても「南の島々でミサイルを構える抑止論は私たちの生存を危うくするものだ」という点は、もはや県民共通の危機感だという立場をはっきり打ち出した、大きな転換点になったということだ。

 自衛隊の是非ではなく、防衛政策を云々するのは僭越という立場に逃げるでもなく、「私たちの島を戦場に見立てた部隊配置や訓練などは一切やめて欲しい!」という命を守る根本的なスタンスを明確にする。県民の命を守る知事としては当然だと思うが、オール沖縄の合意事項の中で自衛隊に対するスタンスはグレーゾーンであったために、県知事としては長く身動きができない状況があった。これでようやく、米軍と一体となって自衛隊が南西諸島で軍拡を進めている現状を憂う、という立場から「戦争はだめです」と沖縄県知事が言いやすくなったのだ。これはとても大きな前進だ。

 大会を準備する側としては、当然県知事の出席は高いハードルだ。だからこそ、数万人という県民大会を実現させて参加しやすい空気を醸成していく力が問われていたと思う。今年は沖縄県内の若手の市町村議員たちが活発な動きをし、みんなで知事を支えようと声を上げた。それは就任当時から国と対峙し続ける玉城知事にとって、とても心強い新しいうねりとなった。そして今回の県民集会も、市民主導であり、何よりも若い人たちの創意工夫がかつてなく息づいている集会で、家族連れがたくさん参加するような新しい希望を感じるムーブメントとして、知事も賛同・参加しやすかったのだと思う。政党の動員や労組の組織といったものに頼らない分、数万人規模という目標の参加者数にはなかなか届かなかったが、政党や労組といったカラーがないうえに「若い人たちが頑張っている集会だから応援しよう」とハードルが下がった。若い人たちの頑張りには感謝したいと思う。

 何の組織もなく、有志だけで立ち上がった運営委員会が手作りで準備してきただけに、例えば舞台が小さいとか、舞台上の横断幕が手書きでサイズもかわいらしかったことからも、資金や人材不足の状況が想像できる。ここまで来るのに大変な苦労があったと思う。危機感と正義感だけで集まってきた利害関係も何もない人々の集合体というのは、一般論だが、すがすがしくもあるが脆くもある。自分の正義と相手の正義、自分のやり方と相手のやり方、どちらが尊重されるかをめぐって人間はいとも簡単に深く傷つくものである。特に、世代間ギャップを乗り越えるためには、年長者も辛抱強く溝を埋める努力を要求されただろうが、年功序列の気風が抜けない日本社会の中では若い人たちのほうがより忍耐強さを求められたと想像する。それらを一つひとつ乗り超えた上で、この集会は実現した。

 また、離島が先に自衛隊ミサイル問題の当事者になったために、沖縄本島の危機感がなかなか追いつかなかったことは冒頭に書いたが、こういう場を作れなかったことを反省しながらも、遅きに失するというお叱りも覚悟で、島々で頑張ってきた方々とつながり直していく道のりは、これもまた容易ではなかったと思う。だからこそ、それぞれの島の最前線にいる人々の言葉を、同じ場所に集った1万人の人たちがネットも介さずにじかに聞くという場が作れたことが、奇跡のように感じられた。私一人が聞いて伝えるよりも、1万人の耳で聞き、1万人の頭で考えたほうがどれほど良いか。与那国島の狩野史江さんや、石垣島の内原英聡さんの言葉が会場を埋めた人々の上に染み込んでいくさまを見て、念願が叶ったと思った。

 「与那国島が自分たちの島でいて自分たちの島ではなくなっていくことが、悔しいです」

 与那国島で住民投票の前からずっと島の軍事化に反対してきた史江さんの言葉は重かった。

 〈わたしたちの与那国島を捨てることはできない。守っていこう!〉という気持ちで、「与那国島の明るい未来を守るイソバの会」のTシャツに書かれた「ばんた どぅなんちま かてぃらりぬん」という言葉。しかし今、与那国島は全島避難地域に指定され、武力攻撃予測事態になったら一斉避難を実施するとして町主催の住民説明会まで開催された。「国境の島の安心のため」という理屈で真っ先に自衛隊が入ってきた島が、なぜ真っ先に避難すべき危険な島になったのか。島民にしてみれば驚くし、悔しいし、悲しみはどれほどだろう。10年以上前から、「自衛隊を入れて軍事化を許したら島を出ていくことになるかもしれない、それでもいいのか?」「命を守るためには出ていけというのか?」「島を捨てられるわけがないだろう!」という葛藤があったことが、このTシャツの言葉からも見てとれる。このエピソード一つとっても、10年前に私たちがもっと事の重大性を共有していたら、この軍事要塞化の波にもっと抵抗できたかもしれないと悔やまれる。

 だから、わたしたちは遅きに失したのを認め、反省し、「まだ自分の問題じゃない」という病気を克服して自分の問題にする、共有する、同じ場で集う、会いに行く、そういう行動を、県内だけでなく全国でどんどん増やしていかなければならない。今回は他府県から駆け付けてくれた人たちも多く、またこの日、全国11カ所同時開催で島々を戦場にするな! という危機感を共有できたことは画期的だった。コロナが当たり前にしてしまった、同じ空間にいない人との交流。あの伝わりにくさを克服し、地域での交流を取り戻す大きなきっかけにこの集会がなっていたら幸いだと思う。

 「ようやくここまでたどり着いた、今日がその第一歩です!」。県民集会ではそんな前向きなコメントが飛び交っていた。私は今、次回作の映画公開に向けて7年分の取材映像をまとめる作業を連日徹夜でやっているから余計に、「えー、今までのが全部助走だったなんて眩暈がするわ」と苦笑するが、「これからですよ。ここからが本番」という言葉は、現場で頑張るおばあたちから何度も聞かされてきたものと同じだ。

 今日がスタートライン。この言葉が持つキリっとした希望を含む緊張感に身を任せてみようという気持ちになった。会場の熱気に、あれやこれやでうつむいていた姿勢が自然に整っていく。そんな県民集会の空気を少しでもお伝えしたいので、ぜひ動画を見て欲しい。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)