第668回:「貧乏に苦しむか/貧乏を楽しむかしか選択肢がないことがおかしい」問題に、遂にひとつの回答がもたらされる。の巻(雨宮処凛)

 2月1日、安倍派「5人衆」を刑事告発する記者会見に参加したことは666回の原稿で書いた。

 裏金問題で大物議員たちが事情聴取を受けながらも、なぜか不起訴となり捜査は終結。このままうやむやになりそうなのはおかしいとなされた告発だ。

 ちなみに毎日新聞が2月17、8日に実施した調査によると、問題の議員を国税庁が調査すべきと答えた人は回答者の93%。確定申告の時期、「庶民には増税、政治家は脱税?」と怒りの声が高まっている。

 そんな状況を受け、岸田内閣の支持率も爆下がりしている。やはり毎日新聞の調査によると、内閣支持率は過去最低の14%。また不支持率は驚異の82%となったのだった。

 さて、そんな刑事告発の記者会見に参加してふと思ったことがある。

 ああ、こういう「正面突破」って久しぶりだな、と。

 そうして自分の最近を思い、数年前との変化を感じた。

 思えば「生きさせろ!」と声を上げ始めた20年近く前、私は「正面突破」ばかりしていたように思う。正面から、政治に向かって「貧困・格差の問題をなんとかしろ」と訴えていた。

 しかし、それらの声はことごとく無視され、当時20〜30代だった就職氷河期世代はいまや50代に突入しつつある。

 結局、声を上げてきたことは「無駄」でしかなかったのか?

 心が折れそうになることもあるが、そんな中、最近の私の「希望」のひとつは「だめ連」だ。

 1992年、当時の若者たちによって結成された、結婚や就職といった生き方から降りて「だめ」をこじらせないように生きるムーブメント。この「だめ連」が今、再評価され注目を集めているのである。1月には、だめ連24年ぶりの本となる『だめ連の 資本主義よりたのしく生きる』が出版された。

 この「失われた30年」の中、多くの人が自らの生き残りをかけ、人を蹴落とし、時に傷つけあいながらサバイブしてきた。そんな中、多くの人が心身に深いダメージを負っている。それなのに、どうしたことだろう? この30年、なるべく働かず、二度寝や遊びに費やしてきた「だめ連」が令和の今、もっとも幸福度が高そうなのである。

 そんなだめ連、私は20年ほど前から付き合いがあるのだが、だめ連を始めた神長恒一さんは50代なかばの今も最低限しか働かず、月収7万円くらいで実に機嫌よく生きている(神長さんともに「だめ連」を始めたぺぺ長谷川さんは残念ながら昨年、がんにより死去。最後まで遊んで暮らす交流人生だった)。ちなみにこの「だめ連」について、私はイミダスの連載にて「『失われた30年』、働かずに遊んでたら一周回ってトップランナーになっていた『だめ連』」という原稿を書いているのでこちらもぜひ。

 そんな「だめ連」について、10年前の私だったら諸手を挙げてここまで絶賛することはなかったのではないかと最近、ふと思った。なぜなら、「貧乏でも楽しく生きる」という彼らの実践は、「じゃあ貧乏なままでいいだろ」と、政治的に悪用される可能性があるからだ。

 しかし、反貧困の活動を始めて18年が経つ今、私たちの「解」は、「貧乏でも楽しく生きる」しかないのかもしれないという境地に達しつつある。

 以前は、「貧乏に苦しむ」か「貧乏を楽しむ」かしか選択肢がないことが問題だと主張していた。それ以外の、「お金持ちになる」とか「好きな仕事をする」「自分らしく生きる」とか、「望む人が結婚できて子育てできる」社会が健全だと言い続けてきた。

 だけど、この20年で日本はどんどん貧しくなっていった。私たちも20年分、年をとった。「このままじゃ結婚、出産、子育てなんか考えられない」と言ったところで「もう産めないだろ」と言われる年齢に気がつけばなっていた。自分からも社会全体からも選択肢が失われる中、気がつけば、要求水準はどんどん下がっていったように思う。それは良くないことだとわかってる。けれど、多くを望めば10年前、20年前とは比べものにならないほど恐ろしいバッシングが待っていることも知っている。

 多くを望めないのは、「望んで頑張った人」ほど傷ついてきたのを見てきたこともあるかもしれない。

 ずーっと非正規で、ウツになった人。なんとか正社員になろう、階級上昇をしようと頑張りすぎて心身を壊した人。それだけじゃない。格差や貧困問題をなんとかしようと活動に力を入れすぎて、バーンアウトした人もいる。

 その一方、「なんとかなった」人は、結局実家が太かったりと、「個人の努力」と無関係なところでなんとかなっている印象だ。

 そんな現実がある中で、今、私の中で「だめ連」が再び輝きを放ち始めているのである。

 この「だめ連」再評価の機運の中、いろんな人が「時代がやっとだめ連に追いついた」と口を揃える。その言葉に心から共感する一方で、結局、回答は「だめ連しかなかったか」という思いもある。

 先に「貧乏に苦しむか、貧乏を楽しむかという選択肢しかなかった」と書いた。が、私たちには「金持ちになる」以外に、「社会を変える」という選択肢もあった。が、そのハードルはあまりにも高かった。もちろん、社会を変えるべくしてやってきたすべてのことに意味があり、意義がある。積み上げてきたものもたくさんある。

 しかし、声を上げても状況は変わらないどころか悪化し続けてきたのが私にとってのこの20年だ。

 不安定層は増え、賃金は下がり続け、ロスジェネはどんどん年をとって取り返しがつかなくなっていく。

 そんな中、「こんなひどい政治を変えよう」だけでなく、「こんなひどい政治に見切りをつけて自分たちで勝手にやろう」という「だめ連」や「素人の乱」(高円寺近辺の愉快な貧乏人による謎の集まり。よくデモなどをする)のようなムーブメントがあったからこそ、続けてこられたとも言える。

 というか、そういうものと二本立てでやってないと、徒労感と無力感でどうにかなりそうだったというのが正直なところだ。

 そこで今、「資本主義より楽しく生きる」方法を30年前から模索・実践してきた「だめ連」の出番となったわけである。

 この状況は、資本主義が限界を迎えていることも大いに関係あるだろう。

 この道を行っても、超一部の人しか幸せになれず、格差・貧困はより深刻になり、大部分は何をどうしても一昔前の「人並み」の生活すら手に入れられないことが証明されつつある今。その上、この道をこのまま進むと気候変動で地球も本気でヤバい状態だ。だからこそ、さまざまな国で「資本主義から降りる」ようなムーブメントが起きている。中国で2020年頃から台頭した「寝そべり族」(競争から降りて最低限しか働かないムーブメント)などはその代表だ。

 ということで、そんなだめ連と寝そべり族をはじめとして、アジアの貧乏人が連帯するような動きが昨年、「NO LIMIT 高円寺番外地」として開催されたわけだが、このような動きこそが、「各国の政治がろくでもないから自分たちで勝手にやろう」の最たるものである。正面突破で政治に声を上げることも重要だが、この20年、ひどい法案などが出てくるたびにそれに振り回されながら声を上げるというのはどこか受動的な気もしていた。もちろん、それも大切なことだしこれからも続けていくが、「もう自分たちで勝手にやるぞ」という空間も大切にしたいのだ。

 さて、最後に書いておきたいのは、そんなだめ連は、さまざまなやり方で社会変革も目指し、実践しているということだ。

 ということで、最近、日本のGDPがドイツに抜かれ、世界4位になったことが報じられた。

 一度は頂点を極めた経済大国。その衰退の中での生存運動はどのように変化していくのか。今後、「貧乏を楽しむ」以外の選択肢が出てくる時は果たしてあるのか。

 ぜひ、注目していてほしい。

 3月10日(日)16時より、「だめ連」の神長恒一さんと都内でトークイベントをします。この辺りのことも話すと思うのでぜひ。
 配信もあります。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。