第298回:不良番長「五人衆」(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 中島貞夫監督が好きだった。
 学生の頃、いわゆる二番館へよく通った。二番館とは、封切り映画ではなく、やや古くなった映画を安い料金で見せてくれる、学生には嬉しい映画館のことである。しかも、だいたいが2本立て、ちょっと得した気分になる。そういう映画館が東京だけではなく、日本にはけっこうあったのだ。いまから50年以上も前のことだけれど。
 『893愚連隊』という映画が中島監督のデビュー作だ。これがかなり評判になっていたから、二番館落ちしたのを待って(つまり低料金になるのを待って)、ぼくは見に行ったのだ。中島監督を好きになったのは、この映画がきっかけだった。
 893、つまり「ヤクザ」と読ませる。チンピラたちが本物ヤクザに挑むという、無軌道な愚連隊(今でいう半グレ)を描いてとても面白かった。荒木一郎のとぼけた顔が思い出される。

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 でもここでは『893愚連隊』について触れようってわけじゃない。それを見に行った際に一緒に上映されていた映画を、ふと思い出したのだ。むろん、『893』がメインだから、ぼくにとってはお添え物の映画だった。『不良番長』という。
 これは、それなりに人気があったとみえて、けっこうたくさん『不良番長シリーズ』として製作されたらしい。らしい、というのは、別にぼくがこのシリーズを見たかったわけじゃないからだ。二番館で東映映画を見に行くとなぜか、このシリーズがくっついて上映されていたのだ。当時、学生たちに圧倒的な人気を博した高倉健の「侠客もの」「博徒もの」にも「不良番長」併映というケースが多かったように思う。
 で、なぜ『不良番長』なのかというと、その映画で流れる主題歌(?)が、妙に耳に残っているからだ。主演の梅宮辰夫が歌っていたはずだ。
 メロディは鼻歌で出てくるが、歌詞はうろ覚え。多分、1番から5番くらいまである歌詞で、なんだかごっちゃになっている気もするが、そこはまあ、ご勘弁を。

 ♬ ひとりふたりと数えて五人
 誰がよんだか 五人衆
 よしておくれよ ご意見無用
 不良番長 俺のこと

 何を言いたいのかといえば、この「五人衆」ってのがキイワードなんだ。
 新聞やテレビのニュースでやたら「5人衆」が出てくるので、ついこのメロディが頭の中に湧き出たというわけだ。
 不良番長たちなら漫画や映画の中でケンカやバクチに明け暮れたっていいだろう。けれど、政治家たちが「5人衆」などと呼ばれるのはいただけない。
 映画の中の不良たちはもちろんワルなのだが、それなりの意地や正義感もあって、もっと大きなワルに挑戦し懲らしめたりする。観客たちの留飲を下げて、そこが人気のあった理由だろう。
 だが、いまの自民党の政治家たちはどうか。意地も正義感も見当たらない。
 安倍派はまさに
 ♬ひとりふたりと数えて五人 誰がよんだか五人衆~ である。
 萩生田光一、高木毅、世耕弘成、松野博一、西村康稔の「5人衆」。誰がこういう呼び方を始めたのか知らないが、まさにワルとしての名称にぴったりだ。
 映画の内容はよく憶えていないけれど、まあ、公序良俗にふさわしい生き方であったはずがない。そんな“ワル”の臭いを、安倍派幹部に「5人衆」などと名付けた人は嗅ぎ取っていたに違いない。この5人はヤバイぞ、と感じたのだろう。

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 やくざ映画を見れば、けっこう政治の世界を彷彿とさせる場面が出てくる。
 組組織には「幹部会」なるものがあって、シノギだのアガリだの上納金だのを巡って、幹部同士があーだこーだといがみ合う。「汚い金」の分配をめぐっての足の引っ張り合いはもちろん、時には裏切り、後ろからバッサリなんてことも起こり得る。内部抗争はたいてい金がきっかけだ。
 深作欣二監督の『仁義なき戦い』は、抗争(殺し合い)をリアルに描いて、大人気シリーズになった。ぼくは大好きで、シリーズすべてを見ている(『新仁義なき戦い』はあまりかわないが)。
 中でも山守組親分の金子信雄の小狡さは、見事なものだった。そんな親分の下で、組の幹部たちや対立する組の思惑も入り乱れて繰り広げられる「仁義なき戦い」。敗戦後間もなくの若者たちの鬱屈ぶりを表現した傑作だった。
 いまの安倍派の体たらくを見ていれば、あのやくざ映画の現代版、矮小版ではないかという気がしてくる。幹部5人衆が、互いに足の引っ張り合い。その上、ヤバいことはすべて子分(秘書)になすりつけて、自分は知らん顔。
 映画の中では、自分が犯した罪を、子分を身代わりにして警察に差し出す。「出所したら悪いようにはせんけんね、我慢せいよ」とかなんとか言いくるめて自首させる。会計責任者とやらだけが立件されて、当の議員は難を逃れる現在の安倍派幹部の連中のやり口は、こんな映画のシーンと同じじゃないか。
 「弾丸は、まだ残っとるがよ」と、自ら信じる“正義”を貫こうとする広能昌三(菅原文太)と、とにかく金に執着する山守親分(金子信雄)の対比を見れば、政治派閥の浅ましさがそのまま写し出されているようだ。

※   ※   ※

 だが、いま菅原文太はいない。
 山守親分も、とうにいなくなってしまった。
 あとは、ドングリの背比べ。まことに情けない。
 もっと情けないのは、やくざ映画と同類に見られる政治家たち。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。