第304回:排除の国で……(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

散歩で見かけたイヤなもの

 けっこうヘビィな風邪をひいてしまい、しばらく自宅で寝っ転がっていた。なにしろ、39度以上にまで熱が上がったのだから、食欲もない。好きな酒も受け付けず。眠ると、凄まじい寝汗をかいて、夜中にパジャマを取り替えざるを得なくなる。
 でもなんとか、3日くらいで熱もひき、食事も普通に摂れるようになった。なかなかつらい日々だった。
 5日目、ようやく散歩へ出かけられるほどに回復。それに天気も回復、3月31日は汗ばむほどの陽気になった。これなら遅れていた桜も咲き始めているだろうと、近所の桜並木へ出かけた。味の素スタジアム通りである。
 ここの桜の回廊はなかなか見事、知られざる桜の名所になっている。でも残念ながら、この日はほとんど咲いていなかった。
 今年はどうも、桜も機嫌が悪い。何に腹を立てているのかな?
 そしたら、ぼくのほうが腹を立ててしまいそうなものを見つけた。いわゆる「排除ベンチ」である。
 この辺りにはよく散歩に来るけれど、これまで気が付かなかった。設置場所がすごい。「調布福祉園」という施設の入り口の真ん前なのだ。まさかこんな場所にこんな“イヤなもの”があるとは想像もしていないのだから、気づかなかったのも無理はない。
 


 ここは重度障害のある方たちの介護施設、指定障害者支援施設だ。ここを利用する方たちは、いつどこで発作を起こし歩行困難になるかもしれない。そうなった時には、当然だが休む場所が必要になる。そんな施設の目の前にあるベンチが、なんと、横になることを拒む仕様の「排除ベンチ」だったのだ。ぼくは腹が立つというよりも、呆れて言葉も出なかった。
 ここは調布市である。多分、ここの道路管理は調布市の仕事だろう。調布市の担当職員はいったい何を考えてこんな場所に、こんなものを設置したのか。それを、市長は知っているのだろうか。

新宿区長、写真付きの言い訳

 同じようなことで炎上してしまった例が、つい最近起きていた。
 東京新宿区のある公園に、まったく悪意しか感じられないような「ベンチ」が設置されていた。まさに究極の「排除ベンチ」、ぼくはむしろ「悪意ベンチ」と呼ぶべきと思う。その写真がSNSにあがり、炎上した。
 ベンチそのものが半円形で、背もたれはない。見てのとおり、とても落ち着いて座れるような形状をしていない。ゆったりと座ることを拒むのなら、最初からこんなベンチなど置かなければいい。たいていの人はそう思う。
 幼児なら裏側へ引っくり返って落ちてしまうだろうし、むろん高齢者にとってだって危険極まりない。当然ながら、これには批判が殺到した。いくらなんでもひどすぎますよ! そうですよね。
 ところがこの騒ぎに油を注いだのが、吉住健一新宿区長さん。なんと、自ら出かけてこのベンチにニコニコと座り、写真付きでツイート(X)したのだ。

@吉住健一(新宿区長)3月28日
 この記事のベンチは約30年前から近隣住民の要望を受けてこの形状になっています
 ホームレス対策などではなく住宅地における夜間の騒音の防止です
 地元からの苦情はありません
 ちなみに身長174センチのオッサンが座るとこんな感じです
 ゆったりと本も読め、お茶やカップも置けます

 写真を見てお分かりのように、大の大人ならきちんと腰掛け、ボトルやカップも置けるだろう。しかし、そのボトルやカップだってちょっと触れれば転がってしまう。ゴロンと転がり落ちそうで、怖くって赤ん坊のおしめも替えられない。
 これ、ホームレス排除以外の目的があったとしたら、それを説明すべきだ。ムリヤリ言い訳を考えるから、こんな無様なリクツしか出てこない。
 どう考えても、行政がホームレスを締め出そうとして造り設置した「悪意のベンチ」であることは間違いない。批判されたなら、その内容をきちんと精査して、間違いであったなら謝罪して撤去するのが、当たり前の行政の在り方だ。それを、役所は間違わないという「行政の無謬性」にしがみつこうとするから、こんな無惨なほどカッコ悪い言い訳を考えざるを得なくなる。それを、身をもって演じてみせた吉住区長さんは、ある意味では突き抜けたヒール(悪役)である。
 ホームレス等の困窮者、高齢者、障害者など、社会的弱者の「排除」を目的とした設置物。それを指摘されても居直るばかり。なぜそんなに謝罪することがイヤなのだろう?
 むしろ、潔く過ちを認めて謝罪し、設置したものを撤去し、普通のベンチに替えたほうがよっぽどカッコいいと、ぼくは思う。ベンチの撤去と新設など、大した金額でもないだろうし、それで人気が上がるなら区長さんとしてもいい結果ではないのか? なぜ、そう思えないのだろう?

“ペラ釈”世耕さんの場合

 過ちを認め、正式に謝罪し、新しい方針を打ち出したほうが、ズルズルと前言にしがみついて傷口を広げるよりは、ずっとましではないかしら、ねえ世耕弘成さん。と、ぼくはここで世耕さんを思い出したのですよ。
 3月14日の「参院政倫審」でのペラペラ釈明もすごかったが、突然3月29日に「実は2022年3月に、安倍晋三元首相らと派閥幹部会を開いていたとの記録が出てきました」と認めたのだ。あれほど「そんな会合は記憶にも記録にも残っていません」と“ペラ釈”(ぼくの造語で「ペラペラ釈明」の短縮形です)を繰り返していたのに、どこからか事実が漏れるのを察知したらしく、バレる前の“ペラ釈”らしい。
 それでもなお世耕氏、内容を変えない方針らしくて、「キックバックについては、その場ではまったく議論しておりません」と言う。これまで、そんな記憶はないといっていたのに、急に「議論はしていない」という記憶だけが甦ったのだ。もう、この人の言うことは、一言たりとも信じられない。
 ウソをつけば、それを糊塗するために、次のウソが必要になる。へたな言い訳も、真実を隠そうとするとヘリクツをでっちあげるしかなくなる。あの新宿区長さんのように、説明によって切り抜けようとしても、その説明自体がおかしなヘリクツなのだから、よけい窮地に陥ってしまう。
 その世耕さん、どうもかなり厳しい“処分”が下されそうだとの観測しきり。そうなると、世耕さん自身が「排除される側」に回ることになる。さてその時、彼はいったいどんなヘリクツを繰り出すのか、妙に気になるのである。

権力が振るう「排除の論理」

 もっとひどい例もある。大阪府の吉村洋文知事である。
 この人、「モーニングショー」(テレビ朝日)を見ていて、玉川徹さんの万博批判がよほど頭に来たのだろう、3月23日の「維新タウンミーティング」とやらで、なんと「玉川さん出禁」を言い出したのだ。こういうことだ。
 「いま、批判するのはいいけど、入れさせんとこと思うて。入れさせてくれ、見たい、言うて来ても、もうモーニングショーは禁止や。玉川徹禁止って言うたろかな思う」
 こんなアホ発言、いくら吉本の本場の大阪だとしても許されていいわけがない。主催者側の人間が、特定の番組や人間を出禁にするとは言語道断、思想もへったくれもありゃしない、ムチャクチャな権力の不当行使だ。当然、吉村氏に批判が殺到した。すると彼はなんと言い訳したか?
 「僕自身に出禁にする権限がほんとうにあれば、これは問題だと思うけど、そんな権限はまったくないので、出禁なんかあり得ない。できないという前提の上で発言ですから」
 つまり、あれはジョーク、単なる冗談だった…ということでごまかしたいらしい。だが吉村氏は大阪府知事であり、日本維新の会という政党の共同代表という公的な立場にある人間である。大阪万博の主催者側(理事)でもある。そういう立場の人間が、特定の番組や人に対して「出禁」と言ったのだ。ジョークとして見逃すわけにはいかない。
 この人も、簡単に謝罪・撤回ができない人なのだ。
 「あれは口が滑りました。私には特定のメディアや人を『出禁』にする権限などありません。謝罪して撤回します」と言えば、火事もボヤで済んだのだ。それを、謝りたくないものだから、よけいな言い訳を重ねて自らドツボに落ちる。
 まあ、政治家にはよくあるパターンだ。
 けれど、よくあるからこそ、この国が危なくなっているのだ。
 こういう人たちは徹底的に糾弾して、一旦は政治の表舞台から消えてもらうしか、この国の再生はない、と思うのです。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。