第307回:自由を我らに(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

ニッポンの定位置

 「国境なき記者団」という国際組織がある。
 国境を超えて活躍するジャーナリストたちの非政府組織(NGO)で、フランスで結成され世界に拡がった。報道の自由を掲げ、政府や権力によって弾圧され拘束されたジャーナリストたちを援助するために闘う組織である。
 その「国境なき記者団」が、5月3日に「2024年・報道の自由度ランキング」を発表した。そこで、「日本の報道の自由度」の惨憺たる現状が明らかにされた。
 調査対象は180の国と地域だが、その中で日本は70位とのこと。昨年は68位だったから、2ランク落としたことになる。悲しいことに、G7の中では最下位が日本の定位置になってしまった。
 かつて、2010年には日本の自由度ランキングは11位であった。これ以降、日本はランクを落とし続けている。2013年には53位にまで急降下。そして2016年には過去最低の72位にまで落ち込んだ。その後、推移はあれど日本のランキングはほぼ70位前後に低迷したままである。

長期政権下の“悪夢”

 もう少し詳しく見てみる。
 2003年~2008年には、日本の順位は20位台から50位台を推移してきたが、2009年に民主党の鳩山由紀夫政権が誕生すると、2010年のランクは、これまでで最高位の11位にまで上昇した。一部の政権幹部の記者会見が、フリーランス記者や海外メディアにも開放されたことも一因と言われた。
 ところが、菅直人内閣の2011年3月11日、東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故という異常事態の中で、報道自体が大混乱に陥った。
 原発事故に関する東京電力の報道規制のデタラメや、いわゆる「原子力ムラ」によって形成された政官財学のメディア対応の閉鎖性があらわになったのだ。とくに原発の安全性を絶対的に確保しなければならない官庁、すなわち「原子力安全・保安院」(現在の原子力規制委員会)の事故対応のひどさは想像を絶するものだった。
 さらに記者クラブ制によるフリーランス記者や外国メディア排除などの姿勢が、海外メディア、ジャーナリストの集団である「国境なき記者団」には、著しい報道の阻害要因に見えたといえる。
 政府によって情報が一方的にコントロールされ、それをそのまま報道するという「発表ジャーナリズム」が、原発事故以降、一段と強まったといわれた。
 民主党が政権を失い、自民党が安倍晋三氏のもとで政権復帰したのは2012年12月。ここから「日本の報道の自由度」の“悪夢の時代”が始まる。翌13年には一気に53位にまで急降下した。
 安倍晋三長期政権の時代に入ると、それは加速する。菅義偉氏や高市早苗氏が、テレビ局の命運を左右する管轄の総務大臣になり、「停波」をちらつかせながらテレビ報道に介入するようになると、テレビ報道はまさに「忖度報道」に陥っていった。
 さらに“鉄壁のガースー”と呼ばれた菅義偉官房長官時代は、記者会見がまるで儀式化し「発表ジャーナリズム」の天下になってしまった。望月衣塑子東京新聞記者のみが目立ち、食い下がる望月記者を冷笑する男性記者たちの舌打ちと、パチパチとキイボードをたたく音のみが会見室に響く寒々とした光景が広がった。

メディアの立場は?

 そして、今年の70位。日本の報道の自由度は回復の兆しを見せない。
 では、当のマスメディアはこのニュースをどう伝えたのか? テレビニュースには、ほとんど期待できないが、政府の脅しは受けないはずの(「停波」は新聞には及ばない)朝日新聞(5月5日付)は、次のように書いている。

報道の自由度 日本は70位

 国際NGO「国境なき記者団」(本部パリ)は3日、2024年の「報道の自由度ランキング」を発表した。調査対象の180カ国・地域のうち日本は70位(前年68位)となり、主要7カ国(G7)の中で依然、最下位だった。
 同NGOは日本の状況について、「伝統の重みや経済的利益、政治的圧力、男女の不平等が、反権力としてのジャーナリストの役割を頻繁に妨げている」と批判。2012年の第2次安倍政権の発足以降にジャーナリストに対する不信感が広がったとする一方、記者クラブ制度がメディアの自己検閲や外国人ジャーナリストらの差別につながっているとした。(略)
 G7では、米国が55位(前年45位)で、日本に次いで低い順位だった。

 この記事を読んで、ぼくは首を傾げた。このような「国境なき記者団」の指摘に、朝日新聞自体が当事者としてどう応えるかということが、まったくスルーされている。つまり、批判されている対象の1社であるはずの朝日新聞が、まるで他人事のように書き流しているのだ。だがこれは朝日新聞にとどまらず、他紙も同様なのが大問題なのだ。
 とくに、記者クラブ制度が問題視されていることに、朝日はなんの反応も示していない。もし、このような批判に真摯に対応(岸田首相みたいで嫌な表現だが)するならば、せめて「この記者会見制度については議論しなければならない」とかなんとか、書きようがあるはずだ。実際に「社内ですでに議論を始めている」のならともかく、何の言及もないということは、「記者クラブ制度」に関しては、何の疑問も持っていないということだろう。他の報道各社も同じだ。

「自由の女神」こそ…

 「メディアは反権力であるべき」と、ぼくは思っている。それが保守政権だろうがリベラル政権であろうが、おかしなところを批判して政治を正していくのがメディアの役割でなければならない。
 ぼくは何度も書いているが、他人の文章などを引用する場合を除いて「マスゴミ」という言葉は一切使わない。少なくとも、一応は事実関係を調べ数人の眼を通し、校閲等のチェックを経て記事化しているものは、SNS上に溢れる真偽不明の文章よりは信頼に値すると思っているからだ。むろん、妄信するつもりはさらさらない。だからぼくは、4紙の新聞を購読している。読み比べれば、とにかく事実関係は把握できる。
 だが、「マスゴミ」という言葉を使う人たちの気分も分からないわけではない。
 報道機関の社長ら幹部が、定期的に首相や政権幹部たちとレストランや高級料亭で酒食をともにしているのだから、読者や視聴者に「これじゃ、記事内容だって上の顔色を窺いながら書くしかなくなるな」と思われても仕方ない。
 ぼくは仕事柄、新聞社や放送局の“社員ジャーナリスト”に知り合いも多い。とても優秀で気概を持った記者たちを何人も知っている。だが彼らの意思や取材活動を邪魔しているのは、実はこんな幹部たちなのだ。
 必死になって権力の闇を暴く事実を入手しても「それ、ちょっと記事化するのは待て」と言われるのではないか、という疑心暗鬼が忖度につながる。実際に、そんなやり取りが日常的にあることは、ぼくも知っている。
 それでも必死で頑張っている「真のジャーナリストたち」を、ぼくは応援したい。そんな人たちがみんな、新聞社やテレビ局を辞めてしまったら、それこそ「報道の自由度」は70位どころか、100位以下にまで転落するだろう。
 いい記事に出会ったら、ぼくはSNSでエールを送る。それがせめてもの、ぼくのできる応援である。

 ドラクロアの有名な『民衆を導く自由の女神』は誰でも知っている名画だ。そして、『自由を我等に』というルネ・クレール監督のフランス映画があった。ぼくは、マスメディアはやはり、「自由の女神」でなければならないと思っている。その女神がいてこそ「自由を我等に」が成立するのだ。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。