東京新聞の頑張り
東京新聞に「こちら特報部」という見開き2ページの特集記事があって、毎日掲載されている。普通ならば、特集面であっても土日くらいは休むものだが、東京新聞の「こちら特報部」は、雨が降ろうが槍が降ろうが休まない。毎日毎日、様々な問題を取り上げて真相追及&究明的な記事を作る。「特報部員」は何人いるのか知らないけれど、その努力と粘り強さには頭が下がる。
このページだけでも、東京新聞の存在価値があるといっていい。ぼくはそう思っている。むろん、東京新聞の他のセクションの記者たちもこのページには協力しているはずだから、特報部だけの頑張りではないだろうけれど、ぼくはこのページが好き。
時折「いやそれはぼくの考えとはちょっと違うなあ…」という記事もあるけれど、それはまあ仕方がない。すべてに同意なんて、そのほうが気持ち悪い。
12月1日の「こちら特報部」は、クルド人排斥差別についての記事だった。ぼくは賛同しながら読んだ。
先週、ぼくも自分のコラムで、差別やヘイトについて少し書いた。その中で「クルド人排斥ヘイト」について触れた。次のように書いた。
ぼくは不思議でしょうがない。
なぜ自分の地元でもなく、具体的な迷惑行為を受けているわけでもない遠い場所まで出かけて、死ね、出ていけ、ゴキブリ……などと、特定の属性の人たちへの憎悪を煽るのだろうか?(略)
この疑問は、今もどうしても消えない。自分には何の関係のないところまでのこのこ出かけて行って、なぜヘイトスピーチをまき散らし、「汚語」を連発するのか。その心根がぼくには理解しがたいのだ。
言葉を造ってしまった
ところで、この「汚語」という言葉は、辞書には載っていない。この言葉を使う作家やジャーナリストの文章も見たことがない。
実は、これはぼくの造語なのだ。最近、この言葉をぼくはけっこう使用している。だから、ぼくのPCでは「おご」と打つと即座に「汚語」に変換される。それくらい多用するようになってしまった。つまり、最近はSNS上で「汚語」がまき散らされているということでもある。
むろん、使いたくて使っているわけではない。汚い言葉を吐く連中が多いために、なんとなくぼくの中で出来てしまった言葉なのである。
アメリカ映画を観ていると、かなり頻繁に「汚語」が使用される。いわゆる「4文字言葉」や「asshole」「shit」といった類いの俗語である。子どもがそういう言葉をつかうたびに、お母さんから「そんな汚い言葉を使うんじゃありません」と怒られちゃう……というようなパターンが多い。
そこからの類推で、ぼくはレイシスト(人種差別主義者)やヘイター(憎悪表現者)らがまき散らす言葉を「汚語」と書くようになったのだ。しかし、これだけ「汚語」がSNS上を汚すとなると、それを連発する人たちを「汚人」とでも呼ばなきゃならなくなるかもしれないなあ。
ぼくの新造語辞書に、またひとつ「汚人」という言葉が増えてしまう……。
レイシストやヘイターらが増えて、それを批判するためのぼくの文章に、必然的に「汚語」という単語が増えてしまったというわけだ。
「汚語」を連発する連中は、極めてゲスなヤツラである。
しかし問題はこんなゲスどもが駆使するSNSが、残念ながら一定の効果を持ち始めたことにある。ごく一般的な生活者であるはずの人たちが、なぜかヘイトスピーチに感化され喝采し始める状況が起きている。そこが極めて問題なのだ。
「どっちもどっち」ではない!
前述したが、12月1日の「こちら特報部」は、クルド人排斥問題を取り上げている。記事は重要だが長文なので、それを全部引用するわけにもいかないから、とりあえず、見出しだけでもあげておこう。それで記事の雰囲気はつかめるはずだ。
クルド排斥デモ禁止直後、騒然 埼玉/蕨・川口
仮処分区域で別団体が集結 区域外で禁止当事者が街宣
「ゲリラヘイト」司法の隙突く
市民の「カウンター」が抑止力
包括的な規制 行政は後ろ向き
刺激的動画、ネットデマ「いつか憎悪犯罪に」
悪賢い連中はどこにでもいる。法の網をくぐる、という言葉がある。法の抜け穴…などという言い方もある。
先週のこのコラムでも触れたように、さいたま地裁が11月21日に、クルド人団体「日本クルド文化協会」の周辺600メートルでのデモを禁ずる仮処分を決定した。ところがその決定の隙間をかいくぐって、ヘイトデモを決行しようとした連中がいたのだ。その顛末をルポしたのが、前出の「こちら特報部」の記事である。
この記事は「汚人」どもの所業を、きちんと現場取材を交えて書いている。それを読むと、いかに人種差別主義者や憎悪表現者、歴史修正(改竄)主義者などが、法の網をかいくぐってデモやヘイトスピーチ集会を決行しようとしたかが分かる。そして、それを阻止したのが市民のカウンターたちだったということも。
この記事の末尾に、いつも「デスクメモ」という極小コラムがついている。今回の「デスクメモ」には、ぼくも同感したので、引用しておこう。
今回の騒動の様子は、YouTubeの東京新聞チャンネルで公開される。クルド人に向けられた「悪意」と、抗議する人々、両者の間に立つ警察官。飛び交う怒号に近づきがたい雰囲気はある。だが、「どっちもどっち」ではないのだ。騒ぎの背景にあるものを見定めたい。
新聞やテレビなどマスメディアは「中立公正」でなければならない、というような論調が存在する。
ある一方を批判すると、即座に「偏っている」「中立じゃない」という批判が殺到する。その批判を恐れて、いつの頃からか、新聞は「両論併記」を免罪符とするようになった。Aという事象に対して、必ずと言っていいほどBの立場の論を並べて載せる。ある政策についての批判にたいして、まるで決まりごとのように擁護論も併記する。これが、新聞の堕落に通じている。
「マスゴミ」って言うな!
ジャーナリズムとは、本来、権力批判こそがその役割だったはず。ところが今や、権力といかに近しいかを競うような気配さえ感じる。
テレビは権力側が認可権を握っている。だから権力批判に及び腰になる。両論併記どころか政府支持論者ばかりが目立つ。だが新聞は、別に政府に認可権を握られているわけではない。自社の立場を鮮明にすることになにも逡巡する必要はない…はずだった。ところがいつからか、テレビと変わらないほどの弱腰になってしまった。
なぜか?
新聞が今、もっとも恐れるのはSNS上の炎上である。それを如実に表しているのが、最近の選挙である。わけの分からない情報(ほとんどフェイクとしか思えないもの)が、SNS上を席巻する。それに異を唱えると「マスゴミ」という罵声が大量発生する。それに怯えて、選挙戦が始まると、なぜか極端な「両論併記記事」ばかりが紙面(画面)を飾る(汚す)ことになる。結果、おかしな結末が待っている。
かつて「マスコミは第4権力」といわれた。それほどの影響力を持った時代もあったのだ。だがいまや、SNSがマスコミにとって代わった。
そのSNS上に溢れるたったひとつの言葉が、新聞やテレビを萎縮させている。「マスゴミ」という言葉が……。これに「既得権益」という言葉がかぶされば、もう怖いものなし。つまり「マスゴミは既得権益の側」だというのが、SNS上のジャーナリズム批判の決まり文句になったのだ。
前から何度も書いているが、ぼくは、他人の文章を引用するとき以外には「マスゴミ」という言葉を使わない。
むろん、しっかりした立場を堅持している記者たちは、そんな言葉にひるむことはないだろう。ただぼくでさえ、デモなどの現場で「マスゴミ帰れ!」などと罵られて顔を歪める若い記者に遭遇したことはある。いわゆるリベラル派でさえ、報道内容への不満から、思わずそんな言葉を吐いてしまうことがある。
そんな言葉を浴びせられないようにと現場の記者が萎縮してしまったら、ジャーナリズムは死ぬ。管理職などが炎上を恐れて記事の取り扱いを忖度するようになっているのは、少なからず事実らしい。
何度も書いているけれど、ぼくはそれでもマスメディア、とくに新聞の必要性は今こそ重要だと思っている。SNSがこれだけ「汚語」の巣になり「汚人」が跋扈する世界になり果てているのであれば、新聞などによる正確な事実確認(ファクトチェック)に基づいた記事の提供の需要が、以前よりももっと高まっているのだ。
新聞は、逆にもっとSNS上に撃って出るべきだと思う。
新聞社などがツイッター(X)に出す記事は、ほとんど「有料」だ。だから出だしは読めても、途中で「以下は有料記事です」となって尻切れトンボ、結論が分からない。そうではなく、簡略化して結論までとりあえず分かるような小文を無料で出すべきだ。その上で「詳細は本紙で」という注釈をつければ、もっと詳しく知りたい人は本紙を購入するだろうし、そうでなくとも事象の結果だけは掌握できる。いずれそれが収益につながるはずだ。
新聞が、なぜその程度の仕掛けを作らないのか、ぼくは不思議でしょうがない。
言葉は人を殺す。ジャーナリズムも殺されかけている。
だから「マスゴミ」などという言葉を使ってはならない。