鈴木邦男さんが「会いたい人に会いにいく」対談シリーズでお送りします。
20年前の8月1日、永山則夫元死刑囚(*)の刑が執行されました。今回の対談相手は、事件当時全国を震撼させた連続殺人犯の永山と、獄中結婚した元妻の和美さん(ミミさん)との書簡集を編集された、嵯峨仁朗さんです。嵯峨さんは、長く永山裁判を取材してきた記者でもあります。今、改めて永山則夫が残したもの、裁判が問いかけたもの、などについて対談いただきました。
*永山則夫:19歳だった1968年、米軍基地で盗んだ拳銃を使い、東京、京都、函館、名古屋でガードマンやタクシー運転手ら4人を連続殺害し、翌年逮捕される。一審で死刑判決が出たが、二審では永山の劣悪な家庭環境での生い立ちや、犯行時の「成熟度」などが考慮され無期懲役に減刑。しかし最高裁で差し戻され、90年に死刑が確定。97年8月に刑が執行された。獄中では創作活動を続け、数多くの作品を残した。
永山則夫没後20年に
——今年2月に発刊された『死刑囚 永山則夫の花嫁 「奇跡」を生んだ461通の往復書簡』(柏艪舎)を興味深く読みました。まず、この本が出版にいたった経緯を嵯峨さんからお願いします。
嵯峨 私は20代の駆け出しの記者のころから、永山則夫の裁判をおっかけていまして、その関係で支援者の方々とも交流がありました。永山と元妻のミミさんとの往復書簡を、たまたま支援者のお一人から預かりまして、手紙の束が20年ぐらい私の押入れの中で眠っていたんです。
鈴木 たまたまとおっしゃったけれど、何故、嵯峨さんが預かることになったんですか?
嵯峨 永山の死刑執行後、その支援者の方から、永山とミミさんの往復書簡の束を見るのも置いておくのも辛いので、燃やそうかと思っている、という話を聞いたのです。
鈴木 えっ、それはもったいない。
嵯峨 はい、私もそう思って。これは歴史的にも意味がある資料だから、取っておいた方がいいんじゃないか、と進言したところ、それならあなたに一切を託すから、捨てるなり資料として使うなり、好きにしていいからと言われてしまい、それで預かることになったんです。書簡は、ちょっと小さめのスポーツバッグに全部入っていました。数えたところ全部で461通あり、一通り読みました。といっても、本にするには著作権の問題もあるだろうし、そもそも本にするということはあまり頭になく、いつか存在意義が出てくるだろうと、とりあえず保管していました。
鈴木 今回、20年ぶりに世に出たわけですよね。
嵯峨 本の版元の柏艪舎の社長の山本さんとは飲み友達でして、飲んでいる時に永山の話になったのです。そこで私もつい、書簡を持っているということを話したところ、是非読みたいと言う。それで手紙をお渡ししましたが、正直、山本さんたちはそんなに興味を持たないだろうと思ってました。分量も多いし、私自身、本にするイメージが湧いてこなかったですし。しかし後日、ミミさんの手紙がすごい、ミミさんという人が非常におもしろいから、是非、本にしたいとおっしゃる。
鈴木 そうだったんですね。山本さんのことは僕も良く知っていて、本もたくさん出していただいています。
嵯峨 それでも最初は、書籍にすることはお断りしました。はっきり言って、売れる本じゃないですからね。小規模ながらも北海道の地元で頑張っている出版社さんなので、在庫を抱えさせてしまうのではないかと考えたんです。だけど、山本さんはとても熱心でした。私も、担当編集者の可知さんから永山が死刑執行されて2017年で20年になると聞いたとき、これは何か残さないといけないと気持ちが動いたんです。永山は、事件やニュースの世界の中ではまだ生きているものの、一般にはもう忘れ去られています。没後20年という節目の年に、もう一度永山則夫について考える機会を作りたい。そのきっかけになるのであれば、形にしておきたいと考えるようになったんです。
鈴木 獄中で永山が書いた手紙や日記は、「宅下げ」(※獄中から外に出すこと)されて書籍化されているのも随分とありますよね。
嵯峨 永山が書き残したものは膨大な数にのぼりますが、いずれも宅下げされ、第三者に読まれるものだという前提があるので、自分の感情は抑制的に書いていました。人に手紙を出す時も、カーボンを使って書いて手元に控えを残し、自身で記録するということを几帳面にやっていましたね。
鈴木 永山は、自分の「思想」を残したいとずっと言ってましたからね。
嵯峨 ただこのミミさんとの手紙は、かなり「自分」が出ていると思います。いつか本になって発表されるかもしれない、という抑制的な気持ちよりも、ミミさんへの思いが、強く出てしまってますね(笑)。
鈴木 これまで永山自身が書いたものも含め、彼に関する本もいろいろと読んできましたが、今回の往復書簡では、永山則夫の別の面を見た気がして衝撃的でした。死刑制度の問題、獄中者の結婚や通信手段の問題など、改めて考えさせられることが多くありましたね。
永山の変化
鈴木 以前、永山の手記『無知の涙』を読んだ時にも思ったのですが、これを今読むとさらに、人はこんなにも集中して勉強することができるんだ、と思いました。彼が主張していたように、永山は「貧乏で劣悪な環境に育ち、学校にも行けなかったから、悪の道に走った」。そのことを、雄弁に証明していますよね。そういう意味では、もっともっと生きて発言して欲しかったなと思います。
嵯峨 『無知の涙』はベストセラーになりましたし、永山は他にも力のある論文を発表しています。さらにミミさんと結婚後、小説『木橋』を書き、新日本文学賞を受賞しました。小説まで書けるというのは、相当な高い教養をつけた証だと思います。
鈴木 永山は、獄中で勉強したのが初めての「学ぶ」経験だったんでしょう。人間って可能性があるんだなと思いますよね。ところで、嵯峨さんは、永山則夫と直接お会いになったことはあるのですか?
嵯峨 何度か面会して会っています。
鈴木 どんな雰囲気でしたか?
嵯峨 最初会った時は、大学の准教授のような雰囲気だった。どこか研究者然としていて、おだやかに話されます。教授でなくて、准教授というのがポイントです。
鈴木 激昂されたりということは、なかったんですか?
嵯峨 支援者や弁護士らとはげしい論争をした記録は残っていますが、私とはありませんでしたね。ただ私がミミさんとの離婚を、いわばスクープのような形で記事にしたことがあります。面会の際に了解は得ていて、その時は淡々として見えたのですが、後から手紙がきて、何のために書くのかをちゃんと考えてほしい、面白半分だったら許しませんよ、という内容が書かれていました。おだやかな文面ではありましたが、これはかなりプレッシャーを感じました。
だから今回、この本を出す時も、「何のために本を出すのか」をきちんと考えないといけないと思いましたね。
獄中での恋愛結婚
——嵯峨さんが預かった461通の手紙は、『無知の涙』に感銘を受けたミミさんがアメリカから永山に手紙を書いて来日、結婚。そして一審の死刑判決が破棄され、無期懲役に減刑された高裁判決が出たところまでのものですよね。
嵯峨 彼にとって一番いい時期、一番やさしい心に満たされていた時期といえます。二人の愛がどれだけ盛り上がっていたか。そしてその愛が、判決まで変えてしまったとも言えるわけです。この本では、その二人の心の力が伝わればと少しでも多く手紙を収録したんです。
鈴木 喧嘩しているところもありますね。
嵯峨 素直な恋愛をしている男女の姿ですね。もっとメロメロの愛の言葉のもありますけど、あまりにそればかりだと甘ったるい感じになるので、割愛させてもらいました(笑)。
鈴木 今回の本で、初めて知ったことでちょっと衝撃的だったのですが、獄中結婚した二人は、子どもをもちたいと言っていますね。世界には受刑者とその配偶者が個室で数時間過ごせるという措置が認められている国もあるそうですが、日本では、まず獄中にいる人は、遮蔽板越しにしか会話もできないわけで、手も握れないわけですから、無理ですよね。でも二人は、人工授精の可能性はないかと弁護士に真剣に相談しています。
嵯峨 人工授精は認められず、前例もないことから実現はしなかったようです。
鈴木 仮にそういうことができたとしたら、永山の精神は安定するかもしれないけど、子どもはどうなるんだと私は考えました。日本でも獄中結婚する人は結構いるんですが、運動家や暴力団関係者は、連絡を取りやすくするために結婚する。ただの書類上のことです。しかし永山とミミさんは、愛情ゆえの結婚だったから、二人の子どもを望んだ。たしかに永山の子どもなら、優秀かもしれないけど…。「罪の子」というハンデを背負わせられて、生まれてくるわけですよね。連合赤軍が山中にこもっていた時に、そこで生まれた子どもがいて、本人たちもまわりもそのことを知らず育ちましたが、永山たちの場合はそうはいかなかったでしょう。
嵯峨 う〜ん、そういう視点まで私の意識が及んだことはなかったです…今、改めて難しい問いかけだなと思います。でもミミさんだったら、育てられたとも思います。ミミさんならマイナスのスタートにはしないでしょう。自らいろんなものを捨てて、アメリカから日本に来て、死刑囚と結婚した人なわけですが、負のものを与えられたとは思っていないわけですから。
鈴木 なるほど、そうか。
嵯峨 永山が結婚した時は、まだ未決囚だったので多少の自由はありました。二人は、1日15分から30分ほどの面会が許されていましたが、恋する男女にとっては、丸一日一緒にいても足りないぐらいなので、それを埋めるために手紙を書き、それでも足りない場合は、夜中に電報を打っていた。そんな濃密なやりとりが続いていました。
鈴木 ただ私の率直な感想として、永山はミミさんと出会ったことで、『無知の涙』を書いた頃から比べると、文体なども変わりましたよね。これは思想家としては、ちょっともったいなかったのではないか、と感じました。あのまま、もっともっと思索を深めていけば、例えば「准教授」から「教授」になれたのではないか。日常的なところで留まったようにも思えたのですが…。
嵯峨 仮に学者が、大学の研究室の中だけにこもり、本だけ読んでいたとして、それで優秀な学者になれるのかどうか。やはり、どれだけ社会というものを知って、人の論を育てていけるかが重要なのではないでしょうか。永山は、獄中にありながらも、ミミさんとの経験が持てたからこそ『木橋』という小説が書けた、とも言えるのではないか、と思います。
(後半につづきます)
構成/塚田壽子 写真/マガジン9編集部