第224回:罪と罰と愛 〜永山則夫没後20年に考える〜 ゲスト:嵯峨仁朗さん(その2)生きて償う重さ(鈴木邦男)

鈴木邦男さんが「会いたい人に会いにいく」対談シリーズでお送りします。
20年前の8月1日、永山則夫元死刑囚(*)の刑が執行されました。今回の対談相手は、事件当時全国を震撼させた連続殺人犯の永山と、獄中結婚した元妻の和美さん(ミミさん)との書簡集『死刑囚 永山則夫の花嫁 「奇跡」を生んだ461通の往復書簡』(柏艪舎)を編集された、嵯峨仁朗さんです。嵯峨さんは、長く永山裁判を取材してきた記者でもあります。今、改めて永山則夫が残したもの、裁判が問いかけたもの、などについて対談いただきました。

*永山則夫:19歳だった1968年、米軍基地で盗んだ拳銃を使い、東京、京都、函館、名古屋でガードマンやタクシー運転手ら4人を連続殺害し、翌年逮捕される。一審で死刑判決が出たが、二審では永山の劣悪な家庭環境での生い立ちや、犯行時の「成熟度」などが考慮され無期懲役に減刑。しかし最高裁で差し戻され、90年に死刑が確定。97年8月に刑が執行された。獄中では創作活動を続け、数多くの作品を残した。

差し戻された無期懲役

——1969年〜1990年に行われた永山則夫の裁判は、永山が20歳から41歳のときまで続く、非常に長い裁判でした。永山によって弁護士の解任も繰り返されました。

嵯峨 一審の裁判だけで10年かかっています。この時は、裁判中に大声を出し、「荒れる法廷」でした。ミミさんと知り合ってからの二審の裁判ではそういうことはなかったようですが。それだけでも、永山が変化したことがよくわかります。

鈴木 しかし一度は安定に向かった気持ちが、結局はひどく揺さぶられてしまうでしょ。一審の東京地裁で死刑判決が出た後、控訴審の東京高裁では無期懲役に減刑になります。死んで償えと言われたのが、今度は生きて償えと言われた。この時、ミミさんと一緒に生きていいんだと思ったわけでしょ。しかし最高裁で棄却され差し戻し裁判になり、最終的には死刑が確定する。これは残酷ですよね。

嵯峨 最高裁で高裁への差し戻し判決が出た後、担当の大谷恭子弁護士が永山に面会に行った時には、「生きたいと思わせてから殺すのがお前らのやり方か」「なぜ生きろと言った」と冷たく言い放たれたと言います。これは重い言葉です。しかしこの言葉を一番重く受け止めたのは、ミミさんではなかったか、と思います。ミミさんは、彼と一緒に生きて償うことを望み、実際に高裁では無期になった。でも結果的には死刑になってしまった。彼をこんなにまで苦しめてしまったのは、私のせいではないか。自分がいなければ、一審の死刑判決がそのまま確定したのであれば、「一度生きろと言っておいてから、また死ねと言う」、そういう残酷なことにはならなかったのではないかと、彼女自身もまた苦しみました。

鈴木 たしかにミミさんと出会ったことで、永山に変化が訪れ、減刑されたのかもしれない。しかしその後、再度死刑になったのは、4人も殺した凶悪犯が生きて社会に復帰することを決して許さない、という世論に押されて裁判所が差し戻したのでしょう。

嵯峨 裁判所の判断には、一番には遺族感情、国民感情というものがあるのは確かですね。

鈴木 今でも、一般には死刑存置を望む声が圧倒的に多いですよね。それだけに当時、生きて償えという判決を出したのはすごかったなと思う。裁判官が永山を見て、人は環境によって変われる、勉強もできるようになる、ということを認めたということでもあったんでしょう。いろんな意味で、永山則夫が残したものは、「テキスト」になると思いました。

罪の責任は、社会にもあるか

嵯峨 高裁(船田三雄裁判長)判決では次のようにも言っています。「本件のごとき少年の犯行については、社会福祉の貧困も被告人とともにその責任を分かち合わなければならない」。決して犯罪の責任というものは必ずしも犯罪者一人に帰すべきではないと、この判決はいっているのです。
 本のエピローグで書きましたが、支援者らによって「永山こども基金」が発足し、今も永山の著作の印税などでペルーの貧困層の子どもたちに奨学金を送って支えています。その支援を受けたペルーの子ども達が来日した際のシンポジウムがあり、私もそこに参加しました。その時、意地悪な質問をするのが新聞記者の仕事だろうと考えて、17、18歳の彼女たちにこう聞きました。「みなさんを支えている永山さんは、4人の罪もない人を殺している。突然愛する人を奪われた遺族の悲しみは変わらない。こういう事実についてみなさんはどう思うか」と。

鈴木 すごいことを聞きますね。

嵯峨 彼女たちは、こう答えています。「彼は小さい時から一緒に考えてくれる人、一緒に学べる場を持っていなかった。彼が私たちと同じ運動と出会っていれば罪を犯していなかったのではないか」「この罪は永山さんだけの罪ではありません。日本という社会の構造の中で生じたことであって、社会全体の責任でもあると思います」と。これは、奇しくも船田判決と同じことを言っているんです。それを聞いていた弁護士の大谷さんも、減刑理由と一緒だといって、思わず涙ぐんでました。

鈴木 貧乏が犯罪に走らせるということもあるが、貧乏だって頑張って生きている人もいるじゃないか、という反論もありますね。

嵯峨 永山と同じ地元の人たち、あの時期、同級生はみんな同じように貧しかった。でも永山みたいに犯罪に走ってはないじゃないか、という人もいます。それから、永山の一つ上のお兄さんも、同じような境遇でしたが、彼は会社勤めをしています。そのお兄さんは、自分はちゃんと生きているのだから、則夫には罪を償ってほしいと言っていました。

鈴木 今の時代なら、より厳しく「自己責任」を問われますね。環境や社会のせいにするな、と言われる。

嵯峨 でも、やっぱりそれは違うと思う。永山も実際に環境が変われば、本を書きましたし、人間らしい生き方もできたのです。出会いと機会さえあれば、人は変われるということは、ミミさんとの手紙のやりとり、結婚後の態度にも表れています。

悪人は死ぬまで悪人なのか

鈴木 永山のように極限の中で追い詰められて勉強をして、そしてものすごい集中力で能力を開花させた人は、他にもいるでしょう。そういう人たちを、死刑囚だから、独房に入れて、遮断して、殺してしまってお終い…ということでいいのでしょうか。

嵯峨 永山は、いろんな人から相談の手紙を受け取っていました。そしてそれに対して、とても丁寧に返事を書いていた。ミミさんから聞きましたが、女子高生からの人生相談にのってあげていたそうです。他の獄中者の相談にものっていたそうで、死刑事件の被告という人に励ましの手紙を送ったり。永山に支えられた人はけっこういるようです。

鈴木 一度は徹底して悪の道に走ってしまった人間こそが、そうならないためには何をすべきか、どういう環境が必要かということを、一番に社会に対して語ることができるんじゃないかな。

嵯峨 永山も自分の犯した罪を他の人が犯さないためにはどういうことが必要なのか、それを真剣に考え、自らそれを「思想」と呼び、もし社会に出ることができたら、それを伝えたいと言ってましたね。

鈴木 アメリカでは、大学の授業で死刑囚に会いに行って話を聞いたりできるそうです。今だったら、ネットとかテレビがあるんだから、刑務所発信でやったらいいのに、と思いますが。

嵯峨 中学とか高校に死刑囚の人が行って話をするというのはいい機会になると思うけれど、日本の場合はものすごくハードルが高いですね。

鈴木 今の日本社会には、そういう視点がないですよね。罪を犯した人たちに対して、こいつはまた同じことをやるかもしれないから、生かしておいてはダメだという風潮が強いでしょう。一度罪を犯した人間は将来、社会に対して犯罪をするはずだと。日本の公安もそうですね。右翼や左翼の活動をやめた人間をも、いつかまた罪を犯すはずだと執拗に追いかけている。

——日本では今、確定死刑囚は、身元引受人以外は面会もできないことになっています。社会との接点は完全に奪われます。

鈴木 日本でもかつては「悪党が改心して善人になることもある」という考えは、普通に共有されていたと思うのです。例えば将棋のルールは、敵の駒を自分の陣地に入れて味方にして闘う。これは他の国にはない、ずばらしい日本の文化だと教わったんです。でも今は、漫画でもゲームでも、悪党はすぐに殺すしかない。悪党はずっと悪党のまま、また悪いことをするに違いないから殺しておくしかない、という考えが広がっているように思います。

死刑の基準

鈴木 1994年に、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件という少年が暴走して何人も殺す事件があり、加害者のうち3人が死刑判決を受けました。そのうち2人に僕は面会していますが、一人は、「捕まってよかった」という。「あのとき逃げていたら、まるで獣だった。獄中でいろんなことを教えてもらい、人間らしく生きられた。死刑宣告されてよかった」と。人間はこんなにも変われるのかと驚きましたが、そういう心境にさせて、死刑執行するんです。どんなに人が変わっても、反省しても、2人殺したらもう死刑なんだと。そういうふうに決まってしまっていますね。

——そこにはいわゆる「永山基準」(*)と呼ばれる死刑の基準もあるわけですが…。永山の高裁判決がそのまま確定していたら、その後、日本の死刑制度は大きく変わっていたでしょうか。

*「永山基準」
永山裁判の最高裁第一次上告審(1983年)で示された9つの要素(犯罪の性質、犯行の動機、犯行態様、被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状)は、しばしばその後の死刑判決の度に引用されてきた。

嵯峨 無期懲役の判決を出した東京高裁の裁判官は基本的な疑問として、18歳未満の少年には極刑は科さないとしている少年法の精神からすれば、永山は犯行時19歳だったとはいえ、その育った環境からすれば精神的成熟度は実施的には18歳未満と同じ状態だったのではないか、と。未熟だった人間はその後大きく変わっていくのに、極刑が本当にやむを得ないことなのか、と。そういう視点、問題意識をもった裁判官が控訴審で登場する。そして、その控訴審を前に永山はミミさんと出会い、結婚し大きく変わっていく。それらが重なったのが、一つの奇跡といえば奇跡でした。永山を無期懲役とした高裁判決、4人を殺しても死刑にならないという判決に、事実上の死刑制度廃止判決ではないかと危機感を持った司法関係者もいたでしょう。

鈴木 ただ遺族感情の問題はあったでしょうね。原田正治さんという実の弟を殺された被害者遺族の方がおられて、私も何度かお話を聞いたことがあります。彼は加害者との面会を重ねるうちに、加害者を許したわけではないけれど、死刑制度そのものに疑問を持つようになり、死刑反対運動をするようになった。すると家族や親戚からは孤立してしまい、地元にも居づらくなり、今はお一人で暮らしているそうです。

嵯峨 それはとても難しい問題ですね。殺人事件の遺族たちが求めているのは、反省と償いですが、「生きて償ってくれてありがとう」とはなかなかなりません。高裁の判決は、生きて一生かけて償いなさいというものでした。その判決が出た時に、本来なら永山もミミさんも喜んでもいいと思うけれど、そういったそぶりは二人ともまったくありませんでした。むしろ、ミミさんは遺族の人たちとも直接会ってますから、かえって重いものを背負ってしまったようでした。遺族の人たちに対して、どう生きるべきなのかと。死んで償うよりも、生きて償う方が難しいことかもしれません。

「愛」や「正義」のために「殺人」をする

鈴木 これまで何人かの死刑囚の方とお会いしていますが、中でも印象的だったのは、山中湖連続殺人事件で死刑判決を受けた、元警官の澤地和夫さん。裁判も何度も傍聴したし、面会も行った。彼は警察時代も面倒見が良く、部下たちからとても慕われていた人だったから、新宿で居酒屋を開く時も、みんな保証人になったり金を貸したりしてくれた。しかし商売がうまくいかなくなって借金を抱えるようになり、思い余って金のために二人殺しました。
 僕が「人を殺す前に、借金とりから逃げるとか、破産宣告するとかしなかったんですか」と言ったら、「自分を慕ってくれた部下を裏切るような悪いことできません」という。だからお金を持っていそうな人を殺したというので、驚いてしまいました。部下に迷惑がかからないようにと、殺人を犯す。ちょっと考えられない思考回路だけれど、部下への「愛」のために関係のない人を殺してしまった。「善人」だからこそ人殺しをした。今いわれる「愛国心」にもそんな風潮を感じますね。

嵯峨 「愛国心」ですか?

鈴木 例えば従軍慰安婦問題についてスクープを書いた新聞記者を失職に追い込んだり、家族の写真までSNSに載せたりして、みんなで吊るし上げに近いことをやっている。犯罪ですが、そうは思わない。みんないいことをしていると思ってるんでしょう。自分たちは愛国心を持ってやってる、正義だと。

嵯峨 最近の一番の蔑みの言葉は、「反日」ですからね。SNS上には「売国奴」という言葉が溢れていますね。

鈴木 だから「愛国心」という言葉はもう、禁句にしたらいいのにと思いますよ。そして右翼の人は、ほとんどみんな死刑制度に賛成です。自分が悪いことをしたのだから死刑は当然と。僕みたいに死刑反対なんて言ったら、「非国民」と言われますよ。でもそれで結構です。愛国者だという人、何百人と見てきたけれど、それで他人を平気で貶めたりする人もけっこういますからね。国家のことは知らないと言いながら人に優しくしている人、そっちの方がいい人でしょう。

嵯峨 なぜ、鈴木さんは死刑制度廃止という立場をとるようになったんですか? 

鈴木 司法大臣として死刑制度を廃止したフランスの法律家、バダンテール氏が来日した際の講演で、「日本はかつて、世界で最も先駆けて、死刑を廃止した国です。平安時代には、350年間死刑がなかった」と言ってたんです。平安時代には、死刑にするとその霊が祟って、大災害や飢饉が起きると信じられていたので「島流し」にしていた。それは迷信に基づいた死刑廃止だったわけですが、武士の世の中になると死刑は復活し、それが現在まで続いているんです。バダンテール氏は、こう続けていました。「でも、そんな先進的な死刑廃止国だった日本が、今は死刑存置国になっています。先進国の中では、アメリカと日本だけ。このままでは『死刑のある最後の国』になるかもしれません。これでいいのでしょうか?」と。
 恥ずかしい話ですよね。それで、僕の「愛国心」に火がついたというわけです(笑)。

嵯峨 なるほど(笑)。死刑制度について言えば、私自身は永山の事件と裁判から学ぶ教訓として、一足飛びに死刑廃止という結論に急ぐことには抵抗というか、逡巡を感じます。もちろん、それは大変に重要な視点です。ただ、罰の部分よりも前のこと、事件が起きる前段をどうするかの議論も重要ではないか、と。つまり、貧困問題であり、教育問題であり、社会福祉をどうするのか。「死刑囚の妻」だったミミさんは、死刑廃止論者かといえば、そうではないかもしれない。ミミさんは、5つの命が亡くなっているという事実──言うまでもなくそれは、被害者4人の方の命と永山の命ですが──それをどう考えればいいのか、同じことを繰り返さないためにはどうするべきかということをずっと言ってきました。私たちもそのことは、考え続けていかなくてはならないのだろうと思っています。

鈴木 そうですね。「死刑」に賛成か反対かを激論するのではなく、個人のケースをじっくり考えてみたいです。その点でこの本は、とてもよく考えさせられました。永山事件については、沢山の本を読みましたが、これが一番、衝撃的でしたね。人間はこんなに変われるのかと。そのことを痛感しました。又、「変わった人」を社会から隔離し、消していくだけでいいのか。いろんなことを考えました。貴重な機会を作ってもらい、ありがとうございました。

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【対談を終えて】
●重大犯罪の加害者や被害者家族に自ら会いに行き、耳を傾ける鈴木さん。罪、苦しみ、悲しみを少なからず抱える人間という存在を慈しみ、愛する心がその原動力ではと感じました。著名なる「愛国者」はまた、大いなる「愛『人』者」と、勝手に解釈した次第です。(嵯峨仁朗)

構成/塚田壽子 写真/マガジン9編集部

嵯峨仁朗(さが・じろう)1960年、秋田県生まれ。東京タイムスで遊軍、都政などを担当。1992年、同紙休刊後、北海道新聞に入社。本社社会部、東京支社社会部、編集委員などを経て、現在編集局生活部長。

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鈴木邦男
すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」