鶴田敦子さんに聞いた(その2):教育全体に、「道徳」的価値観が持ち込まれつつある

教育全体に、「道徳」的価値観が持ち込まれつつある

2006年、第一次安倍政権下で行われた教育基本法の改訂。その内容は、教育への国家の介入の歯止めをなくし、「教育の目標」に道徳心や愛国心の養成を掲げるなど、日本の戦後教育そのものを否定するといってもよいものでした。そして2015年には、これまで教科外の「道徳の時間」として行われてきた道徳教育の「教科化」が決定。「いじめの防止」などがその理由として挙げられましたが、「愛国心」などを説いた戦前の「修身」教育の復活につながるのでは、との批判も多くあります。
その「道徳の教科化」が来春、全国の小学校でついに正式スタートします(中学校でも2019年度から開始)。教科化によって何が変わるのか、そこではどんな内容が教えられることになるのか、その問題点は──。教科書問題や国家の教育介入に警鐘を鳴らし続けてきた「子どもと教科書全国ネット」代表委員で、自身も長く家庭科教師として教壇に立った経験をもつ鶴田敦子さんにお聞きしました。(その1)はこちらから。

心の内面は、評価できない

──今回、道徳が正式な「教科」となることで、(その1)でうかがったような心の内面のことがすべて「評価」の対象になるわけですね。

鶴田 そう、それが「教科化」によるもう一つの大きな問題です。本来、道徳性というのは内面的なもので、「評価」になじむものではありません。文科省もそこは分かっているからか、点数評価ではなく文章評価でと言っていますが、どんな形の評価であっても「教科書に書いてあるような行動を取るのがよいこと」だという話になるのは変わりません。
 文科省は道徳教科化にあたって「一定の価値観を押しつけるようなことはしない」と言っていましたが、評価がある以上、どうやっても一定の価値観の方向に子どもたちを引っ張ることになります。それに、仮にマイナスの評価が付いたら、それはその子が「道徳的に問題がある」と言っていることになるわけで、子どもや保護者をひどく傷つけるのではないでしょうか。

──他教科の成績が悪いときとは、まったく違ったショックを受けそうですね。

鶴田 それに、いい評価を受けるための「答え」は、実は教科書の見出しに全部書いてあるんです。「あかるいあいさつ」「きそくただしいせいかつ」…。であれば当然、子どもはいい評価を取るために、それに沿って答えを書いたり、行動したりするでしょう。一生懸命「いい子」を演じさせて、わざわざ二面性のある子どもを育てるようなものだと思います。
 本当なら、「あかるいあいさつ」がなかなかできなくてふてくされている子も、泣いている子も、何かその理由があるはずで、教師ならそこを見なければいけない。それこそが教育です。なのに、そこを「評価」の目で見なくてはいけなくなるわけで…。子どもたちにしてみたら、先生からいい評価を受けるために、人に優しくしなきゃいけないし、大きい声であいさつしなきゃいけないし、決まりをきちんと守らなきゃいけないし、真面目に頑張っている姿勢を見せなきゃいけないし、本当に疲れると思います。
 道徳の教科化の背景には「いじめや不登校の増加」が挙げられていたはずですが、今だって「疲れている」といわれる子どもたちをさらに疲れさせて、それでいじめや不登校が減るとは、私にはどうしても思えないのです。

──聞いているだけで疲れてきそうです。

鶴田 ただ、実はこうした「内面への評価」は、道徳の教科化以前に、すでに一部行われているんです。

──そうなんですか? どういった形ででしょうか。

鶴田 25年ほど前に小中高のすべてで導入された「観点別評価」です。各教科を「技能」「知識・理解」など、4〜5つの観点から評価するもので、その観点の一つに「関心・意欲・態度」が含まれています。
 観点別評価が導入された背景には「知識偏重の教育ではだめだ」という考え方があって、それ自体は間違っていないのかもしれません。でも、実際には関心や意欲や態度を客観的に評価するなんて、不可能ですよね。それで結局、先生たちが評価の基準にしたのは「教科書を忘れない」「授業が始まる前に教科書を開いている」「授業中に積極的に手を挙げる」…。冗談みたいでしょう。
 もちろん、この子は意欲がある、あの子はあまりないといったことは、生徒と接していれば肌感覚である程度分かります。でも、ある生徒に「関心・意欲・態度」で低い評価を付けたとして、その理由を親に説明するためには、単なる「感覚」ではダメなんですよね。それで、何らかの指標をつくらざるを得なくなる。
 ある小学校では、国語の「関心・意欲・態度」を、図書館で借りた本の冊数で評価しているという噂が流れて、子どもたちが読みもしない本を借りに行くようになった、なんていう話も聞いたことがあります。

教育を受けることは「国民の義務」である!?

──問題は「道徳の教科化」だけではないんですね。

鶴田 さらに言えば、今年3月に公示された新学習指導要領では、「育成を目指す資質・能力」の柱として、「知識及び技能」「思考力・判断力・表現力」とともに「学びに向かう力、人間性」が掲げられています。そして、この三つの柱に沿って各教科の目標が定められており、たとえば社会科なら「国を愛する」、家庭科なら「家族の協力」といった、学問とはいえない道徳的な内容が多く含まれるようになりました。
 また、新学習指導要領と同時に公示された新保育所保育指針や幼稚園教育要領では、「国旗や国歌に親しむ」という内容が盛り込まれたことが注目されましたが、もう一つ重要なのが「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」という10項目が掲げられていること。ここにも「健康な心と体」「協働性」「道徳性・規範意識の芽生え」など、小学校以降の道徳教育と共通する価値観が盛り込まれています。
 そうしたところを見ていると、就学前の幼児教育も含めて、「教育」全体に道徳的価値観が持ち込まれようとしていると感じますね。

──そうだとしたら、その意図はどこにあるのでしょうか?

鶴田 近年、日本に広がってきている新自由主義と、復古主義的な日本型の道徳教育は「セット」だからだと思います。
 というのは、さまざまな規制を取り払う新自由主義のもとでは、必ず格差が生まれ、経済的弱者が生まれてきます。そして、経済的に追い込まれた状況では、人は絶対に荒れるものです。そのときに、人々の不満を政府に向けないためには、「貧乏なのは社会が悪いんじゃなくて、私の努力が足りないんだ」と思わせなくてはならないわけです。

──先にお話しいただいた、道徳の教科書の中にも出てくる考え方ですね。

鶴田 いわば、新自由主義による社会のほころびを補うものとして、そうした教育が必要になるわけです。政府は今、教育目標の一つとして「生きる力」という言葉を掲げていて、学習指導要領にもその言葉が添えられていますが、この「生きる力」というのはつまり、社会がどう変化しようとも、自分で問題を解決して生きていく力。仮に会社を首になっても、自分で頑張って職を探してなんとかする力、ということなんだと思います。

──社会を変えるのではなく、自分のことを自分でなんとかする力…。

鶴田 日本で新自由主義的な政策が本格化したのは、1980年代後半の中曽根内閣のときですが、そこから10年あまり経った1999年、小渕内閣のもとで行われた「21世紀日本の構想」懇談会という有識者懇談会があります。その報告書に、こんな文章があるんです。

 国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。(略)共通の言葉や文字を持たない国民に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。 義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。
「21世紀日本の未来」懇談会最終報告書・第5章「日本人の未来」より引用)

 つまり、最低限度の読み書きや計算を身に付けさせて国民をおとなしくさせ、治安を維持するために教育が必要なんだということ。「義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務である」とも書いています。
 さらにこの後には、一方で優秀な人材を育てることは国家にとっても大きな利益があるから、そちらの教育もしなければならない、といったことが書かれています。つまり、教育にはエリート育成と治安維持の二面性があるということを、驚くほど露骨に書いている。国の「教育」というものに対するとらえ方を、非常によく表していると思います。

──そうした考え方が、今の教育行政にもつながっているのでしょうか。

鶴田 この報告書が出た翌年の2000年には、小渕内閣・森内閣のもとで設置された首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が、「教育を変える17条の宣言」を出し、〈教育の原点は家庭であることを自覚する〉〈学校は道徳を教えることをためらわない〉〈奉仕活動を全員が行うようにする〉などと宣言しています。
 そして2006年には、この教育改革国民会議でも話し合われた、教育基本法の改定が現実のものとなります。そこでも、第2条にある「目標」に、〈豊かな情操と道徳心を培う〉〈公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する〉〈伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と 郷土を愛する〉などの文言が盛り込まれました。さらに、第10条に「家庭教育」の条項が新設されたことが、今問題になっている「家庭教育支援法」が出てくる土壌ともなっています。

──脈々と、つながっているんですね…。

鶴田 道徳の教科化が決定されたときには、懸念を示す人が多かった一方、賛成・歓迎する保護者も少なくありませんでした。ただ、ここに至るまでの流れが、どういった価値観のもとで進められてきているものなのかは、多くの人が知っておくべきことではないかと思います。

(構成/仲藤里美・写真/マガジン9編集部)

つるた・あつこ
20年にわたって中学校・高等学校の家庭科教員を務めた後、山形大学・群馬大学・聖心女子大学で勤務。元日本家庭科教育学会会長(2007年度〜2010年度)、現在、子どもと教科書全国ネット代表委員。近著に『徹底批判!!「私たちの道徳」でゆがめられる子どもたち』(2014年)、『大問題!子ども不在の新学習指導要領 学校が人間を育てる場でなくなる?!』(2016年)、『原発・放射線をとことん考える!いのちとくらしを守る15の授業レシピ』(2016年)などがある(いずれも共著・合同出版)。

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