森友問題の改ざんされた14文書を読むと、改ざんされた分量の多さにまず圧倒されます。と同時に、改ざん前原本に書かれていた「特例処理」にかかわる記載からは、この案件があまりにも「特殊」「異様」、そして「違反」であることが、誰の目にも明らかなように書かれていることに気がつきます。弁護士であり元財務省官僚の山口真由氏が「公文書でこのような子細な経緯や関係性の記述はあまり見たことがない」と語っているように、ここには書いた人の何らかの「意図」が感じられるほどです。
そもそもこの事件、第一報は朝日新聞の特ダネですが、明るみに出たのは内部告発であるとしか考えられない。となると、推測の域を出ない話になってしまいますが、あの子細な記述を残した意味は、近畿財務局の現場でこの問題に対峙していた職員たちの「悲痛な叫び」、もしくは「あとは歴史に判断させる」ための記録なのか。それとも公務員としての「抵抗」だったのか…、と考えてしまいます。私が今、前川喜平氏と寺脇研氏の対談本『これからの日本、これからの教育』を読んでいるからそう思いたくなるだけかもしれませんが。
安倍首相を再び首相に返り咲きさせた、日本会議に代表されるような国家主義的な考えを持つ人たちからの行政や政治への影響力は、安倍首相が権力を掌握すればするほど、全国各地で大きくなっていったことは自明のことです。そうした戦後の民主主義教育に真っ向から反するこのような事態に対して、それは間違っていると考える人たちも役所の中にもちろんいるでしょう。「全体の奉仕者」であり「日本国憲法を遵守する」存在としての公務員。その矜持を持ち行動する人たちが少なからずいる…。だからなんとか、森友学園のような「教育勅語」を暗唱するような間違った思想に基づく小学校の開校は、ギリギリのところで止まったのではないか、とも思ってしまうのです。
だからといって、公務員による公文書の改ざんや様々な偽証が正当化されるわけではなく、これは明らかな犯罪であり刑事事件として裁かれるべきで、逮捕者も必ず出ることでしょう。
しかし事件が起きてしまった背景の根本も、同時に見ておくべきではないか、と思うのです。今回は、国家主義的な思想を持つ政治家が長期政権となった時の弊害があまりにもわかりやすい形で露呈した、というのがこの一件ではないか、と思います。弊害の一つは、昭恵夫人もまた「権力」になっていたことです。これはもう、安倍首相が直接指示した・していないとか、関与した・していないとかの問題ではないでしょう。先週のコラムで南部義典さんが指摘したように、安倍内閣は総辞職をして、新しい内閣を作り直すしか道はありません。
(水島さつき)