福島原発事故から7年目となった、さる3月9日〜11日、旅行会社「たびせん・つなぐ」が主催した「池田香代子さんと行く 鎮魂と新たなとりくみを応援する福島の旅」に参加しました。以下は断片的な感想です。
***
フレコンバッグと太陽光パネル。かつては日本一美しいと言われた福島県浜通りの農村地帯は、この二種の“異物”に覆い尽くされていた。2年前に訪れたときには黒いフレコンバッグがむき出しで積み重ねられ、いかにもおどろおどろしい光景だったのだが、ひと通り除染が終わった今は緑色のシートがかけられ、一見すると放射能汚染物質の山とは気づきにくい。いずれは中間貯蔵施設に移されるというが、いつになるのか見通しは立っていないという。
汚染土を詰め込んだフレコンバッグを積み重ねた“フレコン山”があちこちに。
その「フレコン山」をしのぐ勢いで増えているのが太陽光パネルの光の波である。福島県は再生可能エネルギーの推進を復興事業の柱に位置づけ、2040年までには県内のエネルギー需要のすべてを再生可能エネルギーでまかなう計画だという。津波や放射能汚染のため農地として使えなくなった土地をなんとか生かしたい、復興のシンボルにしたいと住民自身が起業し運営を始めているところもある。一方で県外の大手企業が参入し、土地の賃料をめぐって住民の間に格差や軋轢が生まれているところもあるという。
フレコンバッグが負の象徴なら、太陽光パネルは未来への希望の象徴、と言っていいものか、懐かしい日本の田園風景はもうもどらないのか、複雑な気持ちになる。
昨年3月、一部を除いて避難解除になった飯舘村にも足を伸ばした。解除から1年で現在の住民は600余人、帰還率は11パーセントほど。バスの車窓を流れるのは枯れ葉色一色の山林、人気のない田畑と点在する民家ばかり。そんな風景の中に忽然と現れたのが、2016年夏にオープンした飯舘村交流センター「ふれ愛館」だ。延べ床面積1500平米、300人収容のホール、キッチンスタジオ、大小の会議室を備えた立派な建物で、新築特有の木の香りに満ちている。そこで村の復興の先頭に立つ農家の菅野宗夫さんに話を聞いた。
飯舘村のモニタリングポスト。
父が開墾した土地で牛を飼い、野菜を作って暮らしてきた菅野さんは、震災3ヶ月後には「ふくしま再生の会」を立ち上げ、独自の除染や放射線測定に取り組んできた根っからの土の人。営農再開へ向けて、全国の研究者、専門家、ボランティアらとともに奮闘している。「人の命、暮らしは自然とともにある。それを壊したら人は生きていけない。福島だけの問題ではないんです。ですから皆さんには支援でなく、共感、協働してもらいたい」と菅野さん。
南相馬市では「元気すぎる被災者」として変人扱いされたというエピソードを持つ三浦広志さんに2年ぶりに再会した。三浦さんは『福島のおコメは安全ですが、食べてくれなくて結構です。』という刺激的なタイトルの本(かたやまいずみ著/かもがわ出版刊)で知られる農民活動家だ。福島産の米の放射線量をすべて測定する全袋検査をいち早く実施し、県産食材の安心安全をアピールする一方、不安を持つ消費者にも理解を示す。
「安全なコメが売れないのは消費者が無理解だからではない。食べてもらえるまで待つ。その間の損失は原因を作った国と東電に賠償してもらう」と、ニコニコしている。食べてくれなくて結構と開き直っているわけでなく、風評被害と嘆くでもなく、「悪いのは国と東電」という原則からぶれず、敵に立ち向かう。その交渉術は、ときに忖度なしの直球、ときにはしたたかな変化球と緩急自在。楽観的で現実主義、熱血漢だけど冷静なバランス感覚も持ち合わせている希有な人だ。「これからは太陽光だけでなく風力発電もやる、ヤギも飼いたい」など夢はいっぱい、ますますエネルギッシュで圧倒された。
福島県産の米は袋ごとにすべて放射線量が測定され、検査済みシールが貼られている。
3日間の駆け足の旅だったが、2年前には感じられなかった復興の兆しらしきものは確かにあった。ふるさとに帰り農業再開に奮闘する人々にも出会った。その姿には頭が下がるし、応援したいと素直に思う。だが一方で帰れない・帰らない人々は切り捨てられ、取り残され、ますます異端視されるのではないだろうか。ピカピカの交流センターや校舎を見るにつけ、その影に埋もれてしまいそうな人々のことが気になった。
県外の都会に住む私たちには何ができるのだろう。とかく都会の反原発の人々は、「原発は危ない」ことを証明するために、放射能汚染を過大評価し、復興を過小評価しがちだ。そんなイメージ化された「フクシマ」でなく、ありのままの福島を自分の目で見て考える。「寄り添う」という言葉はこそばゆいので、「忘れない」でいようと思う。
(田端薫)
かつての農地は太陽光パネルに覆い尽くされている。