マガ9沖縄アーカイブス(1)山城博治さんに聞いた(マガジン9編集部)

 辺野古新基地建設への反対を掲げて「オール沖縄」で闘ってきた翁長雄志沖縄県知事の急逝を受け、9月末に知事選挙が行われることになりました。この結果は、辺野古の基地建設の行く末を左右するのみならず、日本全体の今後にも大きな影響を与えることになりそうです。
 マガジン9ではこれまでにも度々、「沖縄」をめぐるインタビューやコラムを掲載してきました。今、人々が語ってきたことを読み返しながら、「なぜここまで多くの人が『新基地建設』に反対するのか」「沖縄は何に対して怒っているのか」「なぜ政府は、これほどまでに基地建設を強行しようとするのか」を、改めて考えたいと思います。知事選挙まで「沖縄アーカイブス」をこのコーナーで、順次紹介していきます。

 沖縄アーカイブス、第一弾は普天間基地や辺野古、高江での抗議運動をリードしてきた山城博治さんへのインタビュー。お話の端々ににじみ出る暖かくて誠実な人柄と、「基地のない沖縄」への熱い思いが印象的でした。その後の不屈の活躍ぶりや、政府による不当な逮捕・拘留の経緯は、三上智恵さんのコラムにもたびたび登場しています。
 お話をうかがう前年には、普天間基地へのオスプレイ配備に反対する市民が、基地ゲートを4日間にわたって封鎖するという出来事があり(くわしくはこちらの本など)、インタビューもそれについてお聞きするところから始まりました。そのオスプレイが、まもなく東京・横田基地にも配備されるという現実に、この5年あまりの政治がどういう方向を向いて進んできたのかを改めて思い知らされる気がします。同時に、それを許してきたのは、基地をめぐる「本土」と沖縄との温度差、沖縄を翻弄する「国策のアメとムチ」など、5年前も今も変わらない現状を放置してきた私たち自身ではないかとの思いも強くしました。
 インタビューの最後には、「辺野古の埋め立て申請書」の話が出てきます。この後、当時の仲井眞知事は埋め立てを承認、それに対して県民の怒りが爆発したことが、「オール沖縄」での翁長知事の誕生につながりました。翁長知事は生前、埋め立て承認の撤回を表明しており、沖縄県はその遺志を継いで、今月31日に撤回を実行する、と伝えられています。

2013年4月24日掲載
山城博治さんに聞いた
国策の「アメとムチ」に翻弄されてきた沖縄

沖縄を無視して「頭越し」に進む基地政策

——昨年、沖縄では宜野湾市にある普天間米軍基地へのオスプレイ配備に対する大きな反対運動が巻き起こりました。実際に配備が強行された9月には、反対する市民によって4日間にわたり普天間基地が封鎖され、山城さんも「沖縄平和運動センター」事務局長としてそれを主導されたとお聞きしています。
 沖縄県外で「オスプレイ」の名前が広く知られるようになったのはそのころからだと思いますが、県内ではもっと以前から反対の声があがっていたのでしょうか?

山城 「オスプレイという危険な輸送機が沖縄に来る」という話自体は、ずいぶん前から言われていました。2007年に、本島北部の東村高江で米軍ヘリパッド工事が開始され、工事阻止の座り込みなどが始まるのですが、そのときにはすでにこれは単なるヘリパッドではなくてオスプレイパッドなんだ、という指摘がされていましたね。
 ただ、そのときはまだ報道もなかったし、オスプレイというものがどういうものなのかも、よくは知られていなかった。それもあって、実際に反対の声が集まりはじめたのは2011年ごろから。反対運動に火が付いたのは2012年の夏ごろだったと思います。

――配備を前にした2012年の9月9日には、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会が開かれ、10万人以上が集まりましたね。

山城 正直なところ、県内には「たとえ10万人が集まろうと、20万人集まろうと、どうせオスプレイが来るという決定は覆されないだろう」という声もあったんです。作家の目取真俊さんも、「2007年にも教科書検定意見撤回を求める県民大会に10万人以上が集まったけど、それでも教科書は変わらなかった。今回もきっとそうだろう。オスプレイを止めるための闘いは別にあるんじゃないか」と県内紙上で強く主張していました。私自身も、県民大会の成功に向けて奔走しながらも、ずっと反対運動の現場を見てきた立場として、「ここまで来たら、何らかの形で自分たちの決意を示さなくてはダメなんじゃないか」という思いも一方にありましたね。

――そして、その「10万人が集まっても止められないのでは」という懸念は、現実のものになってしまった。

山城 そうです。あれだけの大会の盛り上がりがあったから、少なくとも普天間への配備は10月以降にずれ込むだろう、と私たちは思っていた。ところが実際には、9月中には配備されるということになって…。政府は沖縄を無視して、頭越しに政策を押し進めていくんだということを、改めて否応なく知らされることになったわけです。
 それで仲間たちと「配備阻止のために何ができるか」という協議をし直して…。ここに至ったらもう直接行動しかない、基地のゲート前に座り込んで封鎖しようということになったんです。

――そして4日間、集まった市民によってゲート前は封鎖され、米兵はその間、基地への出入りさえできなかった。これは前例のないことですよね。

山城 そうですね。ただ、そうした「直接行動」自体は、決して初めてのことではありません。沖縄の大衆運動の性格として、沖縄防衛局など「相手側」も強硬な手段を取ってくることが多いので、それに対抗する側も勢いそうせざるを得ないという面もあります。座り込みのような直接的な形での「闘い」は、ずっと続いてきているんです。
 例えば、昨年末から年始にかけては、普天間基地の名護市辺野古への移設に向けた環境影響評価書の運び込みを阻止するために、県庁で座り込み行動をやりました。先ほど触れた高江のヘリパッド工事についても、資材などを搬入するトラックの前で座り込みをし、作業員の前に立ちはだかって、押し合いへしあいしながら工事を阻止しました。もちろん反対意見もあったけれど、現実に山を切り開いて工事を開始しようとする人たちに対して、ただおとなしく立って「反対」と叫ぶだけでは止められない、という思いがあったんです。
 さらに、その前には2004年から始まった、辺野古での那覇防衛施設局のボーリング調査阻止行動もありました。調査のために組まれたやぐらに人々がよじ登り、ときには暗い、冷たい海に飛び込んで、作業をさせまいとした。あの経験が高江の、そして普天間での行動に脈々とつながっているんだと思います。

――しかしそうした行動は、沖縄県外ではほとんど報道されないという事実もあります。普天間基地の封鎖行動についても、あれだけの行動でありながら、「本土」のマスメディアではほとんどニュースになりませんでした。沖縄県内メディアの報道を見て、その違いに驚かされることがあります。

山城 そう。もちろん意識的にでしょうが、沖縄の反基地運動は県外ではほとんど報道されない。非常な温度差があるんです。

物心ついたときから、ずっと基地と向かい合ってきた

――山城さんご自身のことも少しお聞きしたいのですが、お生まれはどちらですか?

山城 沖縄県中部、今はうるま市の一部になっている旧具志川市です。私が生まれた地域はキビ畑が広がる農村地帯でしたが、隣は「基地の町」コザ市(現沖縄市)。物心ついたときからずっと基地と向かい合ってきたという感じです。

――基地問題には、ずっと関心があったのですか。

山城 高校に入学した年、1968年に、嘉手納基地でのB52 戦略爆撃機の墜落炎上事故(※)があって、もしかしたら、沖縄は核爆発で消えていたかもしれないという恐怖をまざまざと味わったんですね。同時に、当時は日本がいよいよアメリカと沖縄返還に関しての交渉を進めようとしていたころ。ところが、「核抜き本土並み」と言いながら、どうも返還後も米軍基地はそのまま維持されるんじゃないか、「核付き自由使用」なんじゃないかということが明らかになってきて、沖縄中が怒っていた時期だったんです。学校の周りは基地を囲む金網だらけで、身近に米兵による暴行事件なども起こっていましたし、僕たち高校生も声をあげようというので、校内で「返還協定反対」のハンストをしたりしました。

※B52 戦略爆撃機の墜落炎上事故…1968年11月、米軍のB52戦略爆撃機が、嘉手納基地を離陸直後に墜落・爆発炎上した事故。墜落地点のすぐ近くには弾薬庫があり、核兵器も貯蔵されていたとされる。

――学校を出た後は、そのまま沖縄にいらしたんですか。

山城 東京で大学に行ったり、また沖縄に戻って働いたり、いろいろあったんですが、最終的には29歳で沖縄に戻って、県庁に勤めるようになりました。そこで配属されたのが駐留軍従業員の離職対策事業。米軍施設で働く人たちの合理化が激しかったときで、クビを切られた人たちの再雇用が大きな課題になっていたんです。
 その関係で、初めて嘉手納や普天間といった米軍基地の中に入ったのもそのころです。子どものころからずっと、あの金網の向こう、ゲートの向こうには何があるんだろうと思っていたので、「これが米軍基地なのか」と。特に、嘉手納飛行場の中に入ったときはショックでした。とにかく広大で、中に住宅街があり、学校や商店街、野球場、プール、バー街…基地そのものが一つの町なんですよね。ここは沖縄であって沖縄でない、よく言われるように「リトルアメリカ」なんだと痛感させられました。

――そこから、現在事務局長を務める「沖縄平和運動センター」に参加されるようになったのは? 

山城 このセンターは、沖縄の労働運動団体がつくる平和運動の組織なんですね。ただ、私自身は、県庁に入ってしばらくは、それほど熱心な活動家ではありませんでした。せっかく県庁に入ったんだし、ちょっとおとなしくしていたほうがいいかな、という思いも正直なところありました。
 転機になったのは1987年の海邦国体(※)です。その運営を担う国体事務局に2年間派遣されて仕事をする中で、「やっぱりおかしいよな」と思い始めた。たしかに多額の公共工事費が投入されて、野球場だプールだと施設が次々につくられたけれど、景気がよくなるのも国体開催中だけで、終わったらすぐにダメになってしまう。さらにはこの国体を機に、文部省(当時)の指導で学校の卒業式などでの日の丸掲揚・君が代斉唱の強制も始まるなど、沖縄中が振り回された。何より、沖縄がこんなに基地でがんじがらめにされている現状がありながら、「国体ですべてが変わる」みたいなものの言い方はおかしいだろう、と思わずにいられなかったんです。
 県民としてのそういう思いがある一方で、自分も国の方針を受け入れている県の一職員であるわけで、本当に苦しかった。

※海邦国体…1987年、沖縄県内の34市町村で開かれた第42回国民体育大会。沖縄の復帰15周年記念大会という位置づけでもあった。

――国の政策と、個人としての思いがぶつかって葛藤する、その大きなきっかけが国体だったんですね。

山城 県庁みたいなところは特にそうですが、民間の職場であっても、個人の信条を通そうとすればどうしても組織とぶつかってしまうというところがあります。例えば、港湾労働者として働いている人は、港湾の軍事利用に反対だと思っていても、仕事としては米軍の物資を積み下ろししたりしなくてはならないわけでしょう。基地で働いている人ならなおさらです。我々は権力の側にいるわけじゃないから、選択できない部分もあるし、その中で自分を失わないで立ち向かっていくのは、個人のレベルではなかなか難しいと思います。

 私自身も、耐えきれずに一度は辞表を提出したこともあります。ある上司のおかげでクビはつながりましたけど、やっぱり自分の本音を隠してはやっていけない、ちゃんとこうした問題と向かい合っていかなくては、という思いに駆られたのはそこからですね。組合運動に積極的に参加するようになった流れで平和運動センターにもかかわり、2004年からはその事務局長として活動しています。

基地、原発、戦争――国策の押しつけが、大きな犠牲を生み出す

――さて、先ほど、年末年始に県庁で、辺野古の環境影響評価書の運び込み阻止のための座り込みをした話をされていましたが、今度は同じ辺野古の埋め立て申請書を、沖縄防衛局が県に提出すると言われていますね(※)。

※辺野古の埋め立て申請書…このインタビューの後、沖縄防衛局は3月22日に沖縄県庁に申請書を提出。山城さんらが警戒態勢を取る中、所轄部署ではなく他の部署に申請書を持ち込むという「奇襲」だった。県はこれを受け付けたが、4月12日に「申請の一部に不明瞭な記載や記述不足がある」として、防衛局に13項目33件の補正を要求した。

山城 3月中には、と言われています。また24時間体制での警戒行動を取ることになるかもしれませんね。

――それでも提出がされてしまった場合、現時点では普天間の県内移設には反対を表明している仲井真県知事はどうされると思いますか?

山城 先日、知事公室長のところへ「埋め立て申請書を受け取らないでくれ」という要請に行きました。「(辺野古移設反対という)県政の姿勢は変わりませんよね」と確認したら「変わりません」と明確な返答をもらいました。ただ同時に「行政手続きとして、法律にのっとって申請されたものを受け取らないわけにはいかないし、受け取ったものはちゃんと審査しなくてはならない」とも。私たちは、「行政としての県政の前に、県民を代表する政治家である県知事としての立場もあるはずではないのか。県民の総意として辺野古移設は事実上不可能だと知事は言っているのだから、申請書の受け取りそのものを拒否するのが筋だ」という話をしたのですが…。

 さらに言えば、国が知事を相手取って裁判を起こして、裁判所に埋め立て許可の執行命令を出させるんじゃないかという懸念もありますし、一番心配なのは、貧乏な沖縄県に政府がばんばん財政投資をして「貸し」をつくって、自動的に沖縄が頭を垂れてくるのを待つんじゃないかということです。

――反対するなら金は出さないぞ、と。

山城 まさに「アメとムチ」の使い分けです。

 ただ、沖縄の現実はそう簡単ではありません。4月28日には、安倍政権が「主権回復の日」の記念式典を開催すると言っていますが、ご存じのとおり沖縄ではこの日は、「本土」が沖縄をアメリカに売り渡した「屈辱の日」とされていて、激しい批判の声が巻き起こっている。沖縄の選挙区から選出されている4人の衆議院議員も、この式典に対しては異議申し立てをしています。ここで言わなければ県民からは見捨てられて、次の選挙での当選はもうあり得ませんから。仲井真知事も、式典がもし開催されれば参加を求められるでしょうが(※)、そんなところに出席したら「知事の資格なし」と、場合によってはリコール運動だって起きてしまいかねない。苦しい立場だと思いますよ。

※4月10日、沖縄県は4月28日に開催される「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」に仲井真県知事が出席せず、高良副知事が代理で出席すると発表した。

――学者、高橋哲哉さんが『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)という本を出版されましたが、やはり原発と基地とは、非常に似た構造がありますよね。福島第一原発の立地自治体で、町全体が避難区域になってしまった福島県双葉町の井戸川町長が、野田首相(当時)に向けて「私たちを国民と思っていますか。私たちは憲法で守られていますか」という言葉をぶつけましたが、それは沖縄にも共通する、非常に大きな問いかけだと思います。

山城 犠牲のシステムとか恒常的差別とか、言葉はいろいろありますが、「国策の押しつけ」というのはそもそもそういうものなのだと思います。基地も原発もそうだし、その最悪のケースが戦争。「戦争」という国策が押し付けられて、それによって大きな犠牲がもたらされた。沖縄では、「沖縄戦」という国策が押し付けられた結果、20万人以上が死んでいって、なおかつその戦争が終わった後も、国はその責任を取るどころか、沖縄を「本土」から切り離して米軍の支配下に差し出し、自らは「主権を回復した」と言って喜んでいるわけです。

 今、福島で起きていることもそう。原発事故が起こって、震災や津波の被災者もあわせて今なお30万人近くが避難生活を送っている。そういう状況下でもなお原発が再稼働して、現政権に至ってはさらに新しい原発をつくるんだとまで言い出している。この、人々の生活と政治の意識との、とてつもない乖離。本来ならその溝を「埋めよう」とするのが政治なんじゃないのかと思うのですが、今の政府は溝を埋めるどころか「なかったことにしよう」と居直っているように見えます。


 今の沖縄についても、これだけ反対の声があがってもオスプレイを押しつけ、辺野古や高江に米軍基地を建設し、あろうことか4月28日をみんなで祝おうとまで言い出す。政権の延命のためなら、沖縄県内でどれだけ反発が起ころうが構わず、対米追随を強める…。沖縄のことなんて、まったく眼中にないとしか思えません。県内では最近、これまでにない形で「沖縄は独立すべきだ」という声が強く出てくるようになりました。政府はそのことを認識しているでしょうか。抑えがたい憤りが噴出しているのです。沖縄をナメてかかったら許しません。

やましろ・ひろじ 1952年沖縄生まれ。沖縄平和運動センター事務局長。法政大学社会学部卒業後、1982年に沖縄県庁に入庁。駐留軍従業員対策事業、不発弾対策事業、税務などを担当した後、2004年より現職。辺野古新基地建設、東村高江のヘリパッド建設反対運動など多くの平和・市民団体と連携、県内外に幅広いネットワークをもつ。沖縄の平和運動の象徴的存在。