第464回:祝・安田純平さん、帰国!! の巻(雨宮処凛)

 嬉しいニュースが飛び込んできた。

 それはシリアで拘束されていた安田純平さんが無事に帰国したこと!!

 帰国便の映像を見ながら、しっかりした口調に胸を撫で下ろした。一方で、3年4ヶ月にわたる拘束の間の過酷すぎる状況に言葉も失った。

 安田さんを知る人々の喜びの声が届く一方で、一部メディアやネット上ではおなじみの「自己責任」という声も上がっている。しかし、ジャーナリストが「危険」だからと戦場や紛争地に向かわなくなれば、一体誰が現実を伝えるのか。

 私は安田さんに2度、取材している。『排除の空気に唾を吐け』という本と、『14歳からの戦争のリアル』という2冊でだ。特に2015年に出版した『14歳からの戦争のリアル』では、一章丸々使って、なぜジャーナリストになったのか、そこから話を聞いている。どうして私が2度にわたって彼を取材したのか、そして彼がいかに「現場」を大切にする貴重なジャーナリストであるか、勝手ながら、今だからこそ「安田純平というジャーナリスト」について、書いておきたい。それが唯一、私にできる「自己責任」という言葉を押し返す方法だと思うからだ。

 私が安田さんの取材をしたのは、彼が「戦場出稼ぎ労働者」として、イラクで働いた経験を持つからである。命がけの潜入取材だ。働いた期間は、07年5月から08年2月までの9ヶ月間。「大規模戦闘終結宣言」は出ていたが、現地は泥沼の混乱の中にあり、迫撃砲が飛び交うような状況が続いていた。そんなイラクで安田さんは最初の7ヶ月はイラク軍基地建設現場で、最後の2ヶ月は民間軍事会社で働いた。仕事は、料理人。

 「戦場で料理人?」と思うかもしれない。しかし、戦争は兵士以外にもさまざまな人員を必要とする。基地建設をする人、警備をする人、物資を輸送する人、道路を修理する人、郵便を届ける人、施設の掃除をする人、兵士や働く人の食事を作る人、洗濯などをする人。

 「民営化された戦争」と言われたイラク戦争では、そんなふうに多くの仕事が外注され、それを担っていたのが世界中の「貧しい国」から出稼ぎに来た労働者たちだった。フィリピン、インド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、ガーナなどなどから戦場出稼ぎ労働者が集まっていたのだ。

 彼らにはヘルメットや防弾チョッキなどの装備は与えられないが、武装勢力からは「敵」とみなされる。が、襲撃されて死んだとしても民間人なので「戦死者」にはカウントされない。襲撃されなくても、誘拐されて殺されることもある。04年には12人のネパール人の戦場出稼ぎ労働者(調理人および清掃人として雇われていた)が武装勢力に拘束され、殺されている。また、08年には、やはりネパール人が誘拐され、家族は身代金を要求されるものの現金がなく応えられなかった。その後、ネパール人がどうなったかはわからない。

 安田さんはそんな「戦争の民営化」の現場に飛び込んだのだ。『14歳からの戦争のリアル』のインタビューで、彼は以下のように語っている(以下、安田さんインタビューはすべて同書からの引用)。

 「もともとイラクの取材をしていて、戦争の民営化というのはひとつ大きな特徴なので、その労働の様子というか、たくさん行っている民間人を見たいと思って。03年くらいから欧米のメディアでは、現地にそういう労働者がいるというのはニュースになってたんです。04年頃からイラクに入るのも難しくなったんで、そういう労働者として現地に入るのは面白いなと思って。どうせやるなら末端の方がいいと」

 そんなイラクでの「戦場出稼ぎ労働」の顛末は、彼の著書『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』に詳しいので、ぜひこの機会に読んでほしい。私のインタビューでも、彼はその経験について非常に興味深い話をしてくれている。

 例えば、バグダッド国際空港から赴任先のディワニヤまでの移動の際は、多国籍な混成部隊がAK47やM16で武装して護衛するのがスタンダードであること。その約180キロの移動の護衛だけで150万円かかり、それだけ民間軍事会社が儲けること。着いた翌日から爆音で叩き起こされ、以後、毎晩のように迫撃砲が落ちる爆音が響いていたこと。そんな中、ひたすら「三食用意する」ために朝7時半から夜は23時頃まで働いていると、爆弾が降ってきても、「戦場にいる」ということに麻痺していくような感覚があったこと。

 「夜中の2時、3時に爆弾がドカーンと降ってくる音で目が覚めて、でも翌朝普通に働いて、というのがずっと続くんで、だんだん神経が逆立ってくるというか。すごく狭い範囲の中で、しかも周りは砂漠のような場所で、閉塞感というか、変化のない暮らしで。もう暇で暇でしょうがないんですよ。(中略)でも、戦争ってそんなものだと思いますよ。最前線以外はずーっと膠着状態で、することがなくて、ストレスだけは溜まっていく。だからもう、爆弾がドカーンと降ってくることすらエンターテイメントになってしまう感じで、みんな夜空を眺めて談笑してました(笑)」

 実際の戦場を経験した人にしか言えないリアルな言葉だ。また、彼は爆弾からの身の守り方について『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』で以下のように書いている。

 「状況によるが、弾は音よりも速い速度で飛んでくる場合が多く、直撃の場合は飛来音を聞く前に炸裂する。映画や劇画でよく出てくる『プゥーン』という飛来音は、実は着弾点から少し離れた場所で聞いている音ということになる。着弾点が近ければ破片に当たる危険性が高まる。『プゥーンなら近くないから気にしなくてよい。シュォォオオオオなら、着弾後の破片を避けるために、一瞬のうちでもできる限り地面を掘って伏せろ。ただし、地面からの着弾の衝撃で内臓をいためないよう若干胴体を浮かせろ。弾がどこに落ちるかなんて正確にはわからないから、直撃だったらしょうがないと思え』とネパール人が指導してくれた。着弾点や戦闘地域との距離を推し量るために、こうした音の聞き分けは重要なのだ」

 『14歳からの戦争のリアル』では、安田さんがなぜ、戦争に興味を持ったのかも聞いている。きっかけは、イラク戦争だったという。

 「当時、地方紙(長野県)の新聞記者をしていたんです。それでイラク戦争の前、今から戦争が始まるという場所で人々の暮らしなどを取材したいと思っていました」

 そのために休暇を取り、自腹でイラクに向かう。初めてイラク入りしたのは02年12月。戦争4ヶ月前、現地の様子を取材してきた。

 「でも、長野県とイラク戦争なんて関係ない、と上司に言われて記事の企画すら出せませんでした。それでも戦争が始まれば大騒ぎするし、8月になれば、戦争はよくない、という恒例の記事が載る。始まる前に何もできなかったのにそれを見ているのは嫌だな、と思いました」

 そうして03年1月、安田さんは会社を辞める。フリージャーナリスト・安田純平誕生の瞬間である。この時、28歳。会社を辞めてまで伝えたかったことはなんなのか、聞いてみると彼は言った。

 「日本は戦争に賛成したわけじゃないですか。我々が選挙の結果、選んだ政府がやるわけですよね。石油の問題などをはじめ、我々の生活と密接な関係がある。世界で起きている戦争や飢餓、貧富の差が、自分たちの目の前の生活と関係ないわけがない。特に日本なんてほとんどのものを輸入しているわけですし、目の前の自分たちの生活と戦争の関係をひもといていくような報道がしたいと思いました。もちろん、戦争の現場を見ておきたいという思いもありました」

 安田さんが会社を辞めた頃、私もイラクに行っている。03年2月、イラク戦争が始まる1ヶ月前だ。これから戦争が始まる。それをどうしてもこの目で見ておきたかった。だからこそ、安田さんの思いはよくわかる。どれほど「行くな」と言われても、外務省から退避勧告、避難勧告などが出ていても、行く人は行くという現実があるだけだし、無関心な人は無関心という現実があるだけだし、何かあった時に後になって「自己責任」と言う人は言うという現実があるだけだ。

 さて、安田さんにインタビューしたのは、15年1月。この日は、イスラム国に囚われた湯川遥菜さんが殺害された映像が公開されてから2日目。しかし、後藤健二さんはまだ生きていると見られていた頃で、二人に対する殺害予告映像が公開されて6日後だった。ちなみに、安田さんと後藤さんは、よく二人で飲みに行くなど親しい関係だったという。

 よってこの頃、安田さんは後藤さんの友人ジャーナリストとして連日テレビなどに出演しっぱなしの状況で、取材中にも携帯はほぼ鳴りっぱなしだった。そうしてやはり、この頃も、後藤さんに対して「自己責任」という声が一部から上がっていた。そのことを問うと、安田さんは言った。

 「後藤さんがずっと取材していたシリアでは、内戦で20万人もの人が死んでいるわけです。それだけの人が死んでいる現場だから、その状況を知ってほしいと思って後藤さんはずっと取材をしてきた。そんなに死者が出ている場所だから、記者だって死ぬかもしれない。そんな記者に対して『そもそもそんな情報必要ないのに、何を勝手なことしてるんだ』というバッシングがされている。必要な情報だと思えば、誰も自業自得なんて言わないですよね。今回のそういった反応は、必要だと思っていない証拠ですよね。シリアで20万人死のうが関係ない。自分と直接関係ないんだからどうでもいいということじゃないですか」

 命がけで現地に入っても、この国の無関心な人にはなかなか届かない。それどころか、何かあったらバッシングされる。戦場ジャーナリストほど割に合わない仕事はないのではないか。そう問うと、安田さんが淡々と言ったことを覚えている。

 「だから、好きでやってるというだけですよ」

 この取材の日から6日後、後藤さんの斬首された映像がインターネットに公開された。

 そしてこの取材から5ヶ月後、安田さん自身の消息が不明となる。

 この頃、安田さんとの連絡も途絶えた。今から思うと呑気すぎるが、『14歳の戦争のリアル』の出版記念イベントへの出演を打診しても一向に返事が来なかったことを不審に思っていた頃、「シリアで行方不明」という報道を目にしたのだ。また、この年の7月頃には、安田さんと長野県のイベントに一緒にゲスト出演することになっていた。

 「もしかしたら、当日、ふらっと現れるのでは?」

 この頃には、まだどこか楽観していた。しかし、安田さんが現れることはなかった。

 あれから3年4ヶ月。本当に、よく生きて帰ってきてくれたと思う。

 なぜ、ジャーナリストは戦地に行くのか。

 インタビューで、安田さんは、後藤さんが戦地の子どもにこだわって取材していたことについて、シリア内戦の取材経験から、以下のように語っている。

 「2012年の頃ですね。見えるところまで戦車が来て、ボンボン撃っていました。迫撃砲、戦車砲、空爆で、反政府側の地域にどんどん攻撃が来る。そこらじゅう瓦礫の山から子どもや女の人の死体がどんどん出てくるんです。病院は政府軍が押さえているので、反政府側の作った野戦病院しかない。でもそこは止血しかできなくて、ほとんど死んでしまうんです。それはひどい状態でした。
 街の9割くらいの人は避難していて、もういないんですよ。でも、残っている家族はいて、小さい子どももいる。可愛かったですよね、子どもは。今までそんなに可愛いと思わなかったんですけど。取材から居候先に戻ってくると、近所の子が100メートル向こうからでもこっちに気づいて、ダーッと走ってくる。友達もいないし暇なんでしょう。あんなところに見たこともない外国人が住み着いて、珍しかったんでしょう」

 「毎日死体になっているのは、子どもが多いですからね。爆弾って、落ちてから炸裂するんです。その炸裂した破片を見ると、ナイフみたいになっていたり、ねじれたドリルみたいになっている。破壊力を高めるために、わざとそういうふうに作っているわけです。爆弾が落ちると、そういうものが周りにピュンピュン飛んでくる。
 子どもたちはそんな破片で死ぬんです。同じ大きさの破片が当たった大人は平気でも、子どもはすぐに死んでしまう。そういうのを見ると、子どもがちゃんと生きているってことがどれだけ貴重なのかと、本当に思いました。後藤さんが『子どもたちが』とあれだけ言っていたのが、今は理解できますね」

 志半ばで奪われた、後藤さんの命。その悲劇を目の当たりにしても、決して取材をやめず、シリアへ向かった安田さん。ジャーナリストが戦場へ行く理由。それは、ここまでの彼の言葉を読めばわかるはずだ。

 安田さんは、同書のインタビューで、最後にこんなことを言っている。

 「とにかく想像することだと思います。一見関係ないように思える遠い国で、今も死んでいる人がいる。楽しく暮らしていたはずの生活が突然壊れて、爆弾がどんどん飛んでくる。もし、自分だったら、と考えてほしい。そうなったら自分が持っているすべてを失うといったことをイメージして、まずは不安になるだけでもいいんです。ニュースを見て、『自分だったら』と想像するような習慣をつけてほしい。そうすることで、人のことを考えられるようになると思うんですよね」

 想像と共感。それは、おそらく戦争を回避するための第一歩だ。

 安田さんが囚われたシリアでは、15年のインタビュー当時20万人だった死者は、35万人までに膨れ上がっている。また、国外に逃れた難民と国内避難民は合わせて1200万人にも上る。

 内戦下の現実を伝えるためにシリアに赴いた安田純平さんに、私は最大限の敬意を払いたい。ジャーナリストは、時にたった一人で世界を変えることがあるのだから。

 とにかく、生きて帰って、本当によかった! 今はゆっくり、休んでほしい。

 安田純平さんの『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』、ぜひ多くの人に読んでほしいです。また、『14歳からの戦争のリアル』もぜひ。安田さんインタビューは第5章「月収13万、料理人、派遣先・イラク ジャーナリスト 安田純平さんに聞く戦場出稼ぎ労働のリアル」。

10月27日に開催された「介助者デモ」にて

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。