『私説 集英社放浪記「月刊明星」「プレイボーイ」から新書創刊まで』 (鈴木耕/河出書房新社)

 「あとがき」に登場する、本書を企画した刈部謙一さんに再会したのは2017年の秋だった。初めて会ったのは2005年初頭、マガジン9の前身、「マガジン9条」立ち上げのための準備会議に参加させてもらったとき。声も態度も大きく(すみません!)、言ったことは必ずやる男気のようなものを感じさせる人で、12年ぶりのその日、少し身構えて待ち合わせの場(本書の「あとがき」にもあった新宿のホテルのカフェ)に出向いたところ、ご自身がすい臓がんで治療中であること、リキさん(著者のこと。なぜそう呼ばれているのかは本書の「まえがき……のようなもの」をお読みください)の本を準備していることを聞いた。「あんなにフリーランスを大事にしてくれた編集者はいなかったよなあ」。ずいぶんと痩せられた刈部さんは言っていた。
 こういうものを作ろうと思っていたのですね、読み終えて納得しました。
 有名な企業に勤めていた人が来し方を記す際、読者はついつい、知る人ぞ知るみたいな話を期待してしまいがちだが、36年間、編集の現場に立ち続けてきた著者の回想録は抑制が効いている(社内のスキャンダルを匂わせる部分は「武士の情け」で書かないとはっきり言うし)。出てくる人物はすべて実名、自分がその当時、どんなことを考え、同僚と何について話し合い、いかにそれらを仕事に結実させたか、できる限り記憶に忠実に書くよう努めているのがわかる。
 こちらの野次馬根性やのぞき趣味に迎合しない。でもページを繰る手が止まらないのは、一人の編集者が仕事を通して切り結んできた時代を、世代の違う読者も共有できるからではないだろうか。
 入社して「月刊明星」編集部に配属された年に起きた「三島由紀夫事件」の日、著者は現場に踏み込んでいる。すでに三島は割腹後で、彼を目撃することはなかったものの、学生時代に三島全作品を読破し、論文を記したこともある著者は「月刊プレイボーイ」で三島のクーデター計画の傍証となる文書を掲載する。硬軟持ち合わせた編集者として生きる宿命を背負ったかのような職業人生のスタートだった。
 1986年のチェルノブイリ原発爆発事故、1989年のベルリンの壁崩壊、1995年の地下鉄サリン事件……。著者は原発の危険性を告発する記事を連発して東京電力や電気事業連合会から呼び出され、冷戦体制が終焉を迎える象徴的な現場には在日韓国人ライターを派遣し、「オウム特需」にメディアがこぞって便乗、狂奔するなかでは冷静な姿勢を貫いた。北方領土の記事を掲載すれば、外務省から高飛車な態度で文句をいわれても怯まない。長年にわたる雑誌編集部から「イミダス」へ、そして「集英社新書」創刊時の編集長を最後に退職するまで、出版という「紙のつぶて」で権力や権威に抗うことだけは曲げなかった。
 著者の矜持が一貫している。それが本書である。

(芳地隆之)