「刑務所に戻りたかった」──2006年に起きたJR下関駅放火事件で逮捕された福田九右衛門さんは、犯行の動機をこう語りました。福田さんは当時74歳。軽度の知的障害があり、住むところも家族もなく、過去10回の服役を経験していました。本来、福祉的な支援が必要なのに誰ともつながれず、やむにやまれず何度も事件を起こしてしまったのです。福田さんがその後の服役中から面会を重ね、出所後も支援を続けてきた奥田知志さん(牧師、NPO法人「抱樸」(ほうぼく)理事長)と、映像ディレクターの長塚洋さんを講師に招いたセミナーが、去る11月3日に開かれました(主催:NPO法人監獄人権センター)。事件から現在までの福田さん、奥田さんの足取りを振り返り、受刑者の“生き直し”について語り合いました。その内容をレポートします。
出所後、新しく見つけた自分の「居場所」
セミナーの冒頭で、長塚さんが制作したテレビドキュメンタリー作品「生き直したい~服役11回 更生の支え」の一部が上映されました。
2016年6月のある朝、福岡刑務所を出所する福田さんを、奥田さんと妻の伴子さんが温かく迎えるシーンから始まります。奥田さんが牧師を務める教会の関係者、ホームレス支援を行うNPO抱樸のメンバーも一緒です。身寄りのない福田さんにとって、出所時に身元引受人がいるのは初めてのことでした。奥田さんの自宅に招かれて寝食を共にし、まるで家族の一員のような暮らしが始まりました。
左から長塚さん、福田さん、奥田知志さん、奥田伴子さん
ところが、出所から3週間がたった頃、福田さんはある問題を起こします。こっそり伴子さんのバッグを覗いているところを見つけられ、失踪してしまったのです。みんなで探し回り、ようやく見つかった時は、わずかな所持金をパチンコですったあとでした。それでも、奥田さんたちは見放しません。伴子さんは「とっても怒っているけれど、これで福田さんに出て行ってくれとはいいませんよ」といい、さらに「失敗は成功の元。失敗せんとわからないことがいっぱいあるもんね」と励ましました。
刑務所を出て2カ月、福田さんは奥田家の向かい側にある「抱樸館」に引っ越しました。生活困窮者を支える施設で、抱樸が運営しています。「つらい時には実家のように帰ってくればいい」と奥田さんは送り出しました。デイサービスが併設されており、福田さんはそこでの活動が大のお気に入りになりました。また、抱樸が炊き出しを行う時には福田さんも同行し、訪れた人たちにお茶を出します。かつての自分のように居場所をなくした人を支える役割ができました。
上映後、長塚さんはこの作品を撮った理由をこう語りました。
「犯罪に手を染めた人は、獄中に入ると顔の見えない人になってしまう。場合によっては『そんなこと(犯罪)をしたやつはモンスターだ』と言われてしまう。それでいいのか、という思いがこの作品を撮ることにつながりました」
「つながりがない」と焦点化し、生きていけなくなる
奥田さんは福岡県北九州市で30年にわたって、ホームレス状態の人たちを支援してきました。福田さんの身元引受人になったのは、下関駅放火事件の報道を見てやりきれない思いを感じたからです。
「(行政は)なぜ我々に連絡をしてくれなかったのか。傲慢な考えだが、福田さんが我々と出会っていたらこうはならなかった。誰ともつながっていないと、本人が抱える問題がものすごく“焦点化”して、これが突破できないと生きていけないと思うようになる。伴走型支援というが、『毎晩9時に電話してね』という関係性さえできれば、下関駅は燃えなかったんじゃないか」(奥田さん)
幸いなことに下関駅放火事件で死傷者は出ませんでしたが、現住建造物等放火罪という重罪です。しかし、当時の福田さんはそこまで考えられる状況ではありませんでした。奥田さんは、改めて福田さんに問いかけます。
奥田「なんで火つけたの?」
福田「いやあ、むしゃくしゃしおって」
奥田「どうしようと思っていたの。つけて」
福田「いや、わからない」
下関駅放火事件が起きたのは、福田さんが前の刑務所を出て8日目のことです。行くあてもなくさまよい、所持金も尽きた福田さんは、万引きをして自ら申し出て警察署に行きましたが、逮捕には至りませんでした。その後、生活保護を申請しに小倉北福祉事務所へ行くと、「住所がないと対象にならない」と断られ、下関市行きの交通費だけを渡されました。
下関駅で下車した福田さんは、深夜、鉄道警察隊に構内から出るように言われましたが、居場所はありません。そして、駅の横にあったファーストフード店のゴミ置き場に、火のついたちらしを投げ込んでしまったのです。
福田さんは、火をつけるまでに警察署や医療機関を含む8つの公的・半公的機関に行っています。しかし、どこも福祉的な配慮をしませんでした。奥田さんは、「福田さんは繰り返し『刑務所に帰りたかった』と言っていましたが、刑務所しか居場所がなかったんです」と語気を強めます。
福田さんは、過去10回の事件の裁判でも、ほぼ毎回、知的障害があると認められながら、特段の配慮はなされていませんでした。この下関駅放火事件は、司法と福祉の連携が議論されるきっかけになりました。裁判では、検察の求刑が懲役18年のところ、裁判官の判決は懲役10年。未決勾留日数600日も認められて実質8年の懲役刑が確定しました。
奥田さんが、拘置所にいる福田さんに「8年だよ。生きて出ておいで。刑務所で死んだらいかんよ。どこにいても迎えに行くからね」と言うと、それまで無表情だった福田さんは声を上げて泣いたそうです。大きな意味のある裁判でした。
太いロープより、“細い糸”が束になったような支援
刑務所を満期出所した福田さんは、しばらく奥田さん家族が直接支援していましたが、現在は奥田さんたちが福田さんと過ごす時間は、全体の1割もないくらいだそうです。
「語弊があるかもしれませんが、日常生活支援は質より量です。専門家が1〜2人でスーパーマンのように関わるのではなく、抱樸館の職員やデイサービスの仲間が(大勢で)関わる。太いロープでつなぐより、“細い糸”のようなつながりが何百本とある中で生きるのが共生社会だと思います。どれだけ(孤独感を)焦点化させないで、いろんな人のなかでごまかしごまかし絡めていくか、ということです」(奥田さん)
奥田さん一家が家族のような強い信頼関係で福田さんを支え、日常生活は大勢の人たちが少しずつ支える。よく考えてみれば、私たちもわずかな太いつながりと、たくさんの細いつながりの中で生きているのではないでしょうか。出所者の支援は、専門的なケアをするというより、いかに“普通の生活”に近づけていくか、という問題のようです。誰もが自然に“細い糸”となることで、差別や偏見のない社会が開けていくことでしょう。
無知と無縁が人を歪ませる
セミナーの後半は質疑応答でした。
Q 奥田さんが抱樸を作る時に、地域の反対はありましたか?
抱樸が運営する抱樸館北九州は、建設の3年以上前から奥田さんが市民に説明し、建設資金は市民を中心に6000万円の寄付が集まりました。市民は、抱樸の活動を「よくやっている」と評価してくれていたそうです。それでも、具体的な立地が決まり、いざ着工となると地域住民から大反対が起こりました。予定地の周囲を「絶対反対」と書かれた黄色い旗が囲み、8カ月間に17回も行われた住民説明会では「迷惑施設」と言われたそうです。
「迷惑という言葉は、現代を象徴しています。自己責任論は『迷惑は悪だ』という道徳を生みました。私は、説明会でつい『誰にも迷惑を掛けません』と言ってしまって、反省しています。迷惑はかけるに決まっています。地域で一緒に暮らすんですよ。そっちも迷惑をかけてください。こっちもかけますから、ということです」(奥田さん)
なんとか住民の理解を得て、予定から1年以上も遅れて開設に漕ぎつけました。今では抱樸館のレストランに地域住民が食事に来ることもあります。また、抱樸で作ったお葬式を出せる互助会に、地域住民が参加するようにもなりました。奥田さんは「無知と無縁が人間を歪ませる」と語ります。
「人間にとって、よくわからないこと=恐怖なんです。子どもたちに言いたいのは、なぜ勉強をしなきゃならないのか。勉強をするのは、世の中から怖いものを減らすことだからですよ」(奥田さん)
セミナーの冒頭で上映されたドキュメンタリーは、2017年にTV放映されました。奥田さんは「また次ののろし(反対運動)があがるのでは」とおっかなびっくりだったそうですが、杞憂に過ぎませんでした。
「この作品に学ばせるものがあったんですね。新たな事実を知ってもらうことで、恐怖心を取り除くことができました」(奥田さん)
Q 長塚さんが今回の作品を撮るにあたって、どんな困難がありましたか。
長塚さんが、テレビ局の会議にこのドキュメンタリー企画を提案した際、「面白い」という意見と同じくらい、「大丈夫なのか?」「重大犯罪をした人を主人公にしていいのか」という声があったそうです。
「私もそうでしたが、事件報道はとかく被害者感情に思いを入れて取材します。だから、報道の第一線の人たちも抵抗したのでしょう。でも、放送後の会議では『いやあ、よかった』『よくなると思っていたよ』という反応でした(笑)。報道現場の者も、具体的な人を取材させてもらうことで学んでいくのかもしれません。やっぱり、知らないから怖い。今日は最初に『モンスター』と言いましたが、そうではないことを示したのが奥田さんの取り組みであり、福田さん本人だと思います」(長塚さん)
「家族幻想」に寄りかかった制度の限界
Q 刑務所から出るときに身元引受人がいない人には、どう対応すればいいのか。
Q 満期出所の人には「更生緊急保護」があるが、福田さんの場合は適用されなかったのか。
刑務所を仮出所した人はまだ刑の途中ですから、法務省とつながりがあります。更生保護施設に生活ぶりを報告する義務があり、保護司の支援も受けられます。それに対し、満期出所をした人はすでに刑は終わっているため、基本的には法務省とのつながりが切れてしまいます。
更生緊急保護とは、刑務所を出所しても身元引受人がおらず、福祉の支援も受けられない人に対し、更生保護施設が一時的な宿泊場所を提供したり、生活や就職の支援などをしたりする制度です。しかし、奥田さんは「刑務所や保護観察所がよほど積極的に動かない限り、満期出所したら一般市民として扱われます」と言います。これが、満期出所者の再犯率が高い一因となっています。
奥田さんは、こうした制度上の欠陥の根本に“家族幻想”があると考えています。
「日本の戦後社会は、企業が家族を養うというのが大きな社会保障のベースでした。良くも悪くも男性の働き手に家族分の給料を払って、家族の社会保障も企業がみていた。家族と制度はつながっていたのです。しかし、今は家族の機能がうんと縮まりました」(奥田さん)
そのほころびは、さまざまな面に現れています。刑務所の満期出所時のサポートが薄いこともそうですし、もっと身近な例では、家族のいない高齢者はアパートに入ることも難しく、お葬式も出せない現実があります。抱樸が20年も支援してきたホームレス状態の人が入院した時は、奥田さんが病院に行っても、医師から「家族以外には会わせられない」と言われ、論争になったそうです。
「抱樸では、サポートするにあたって本人の同意書や契約書を交わします。それを見せても、医師は会わせてくれませんでした。しかし、そのホームレス状態の人は家族と別れて40年。この20年は私たちが一緒に生きてきました。どっちが家族なのか。そもそも家族って何なのか?」
抱樸は、かつての家族機能の社会化を担ってきました。地域共生社会というと、社会資源(制度や施設など)の必要性が語られがちですが、「もっと日常生活支援に注目しなければうまくいかない」と奥田さんは考えています。
居場所ができれば、犯罪のリスクは小さくなる
さて、長塚さんが撮ったドキュメンタリー作品のタイトルは「生き直したい」です。セミナーの最後に長塚さんは「福田さんは生き直していると思えるし、それを支え続ける奥田さんがいる。(私のすることは)、人はやり直せるということを証明し続けることなんだな、と思っています」と語りました。
奥田さんは「誤解を恐れないで言えば、福田さんが再び火をつける可能性は、残っていますよ」とあえて言いました。もしも、事件当時のような孤立した状況が再び来ると、そうなる可能性はゼロとは言えないからです。しかし、犯罪のリスクは相対的なもので、大勢の人とつながり、自分の居場所も役割もできた今の福田さんにとって、「火をつけるかもしれない」というリスクはとても小さくなりました。
「支えてくれる質と量がうまいこと組み合わされれば、難しいことなんてしなくていいんです。例えば、今日ここに来てくれた皆さんが、『福田さん、また会いましょう』と思ってくれたら、それが彼を支えます。社会ってそういうことです」(奥田さん)
奥田さんが質疑応答コーナーで話したように、現代社会は「迷惑をかける=悪」という自己責任論が蔓延しています。迷惑をかけまいと必死になることは、他人のことを気遣っているようでいて、他人の失敗を許さない非寛容さと隣り合わせです。失敗しても、生き直しができる社会。それは、私たち一人ひとりが自分を許し、相手のことも許すことから始まるのではないでしょうか。
このセミナーを主催したNPO法人監獄人権センターでは、刑務所を出所する人やその支援者のために、出所後の住まい、仕事などの困りごとに対応する「社会復帰のためのハンドブック」を配布しています。
(WEBからのダウンロード無料、冊子版は送料・税込180円)
(越膳綾子)