時は1840年代。貧困に喘ぐ人々が森のなかに落ちている枝を拾い集めている。それを窃盗だとして、大地主に雇われた騎兵たちは女性も子どもも容赦なく殴打する。命を奪うことさえ厭わない。ジャーナリストであるカール・マルクスはこんな理不尽な世界を変えるため、自ら編集長を務める新聞社に告発記事を掲載していたが、同紙はプロイセン政府によって廃刊を強いられる。そのためパリに移住するが、フランスからも追われ、海を渡った英国でフリードリヒ・エンゲルスと出会う。
マンチェスターにある機織工場の経営者の息子であるエンゲルスは、身体を壊して働けなくなったら、あっさりとクビにされる労働者たちや、子どもを働かさなくては利益が出ないと言って憚らない工場主など、日々、目の当たりにしている生活のなかから、資本主義の矛盾をあぶり出す論文を発表しており、それを高く評価するマルクスと意気投合。「哲学者は世界を様々に解釈してきたに過ぎない。重要なのは世界を変革することだ」(マルクス)を実践に移すべく、「ひとつの妖怪がヨーロッパを歩き回っている――共産主義という妖怪が」で始まる『共産党宣言』の執筆に取り掛かる。
友愛を掲げる従来の社会主義者を生ぬるいとして切り捨てるマルクスの姿は、後にソ連・東欧諸国において統治のためのドグマと化していくマルクス・レーニン主義を連想させるが、ロシア革命よりも半世紀以上前を舞台とするこの作品は、社会正義に燃える若き哲学者を描いた青春映画(オリジナルタイトルは『The young Karl Marx』)のようだ。
しかし、アクチュアリティは失っていない。
貴族は退屈。不公平なゲームが続くこの世界が壊れるのをみたい――貴族の家に生まれながら、マルクスと結婚したイェニーにこう語らせるラウル・ペック監督は、これまでアフリカの植民地の独立やアメリカの黒人差別をテーマとする作品をつくってきた。その延長線上に、支配(差別)する側とされる側の関係性を解体しようとしたマルクスを見たのではないか。
だからこそペック監督は、ラストに「あの曲」を流したのだと思う。かっこいい映像と音楽だった。
(芳地隆之)