2018年7月、オウム真理教元代表・麻原彰晃ら13人の死刑が執行されてから1年が経つ。本書は、死刑という形のひとつの区切りを迎えて、社会を大きく揺るがしたあの一連の事件をとらえ直し、まとめ上げたノンフィクションである。
著者は、東京新聞記者として1995年3月の地下鉄サリン事件以降、オウム真理教事件の報道に携わり、死刑囚らとの面会や400通におよぶ手紙のやりとりを重ねてきた。長年にわたる取材で知り得た事実と、死刑囚、無期懲役囚、元信者、被害者の言葉から、なぜあのような凶悪な犯罪が起きてしまったのか、その経緯と理由がリアルに浮かび上がってくる。
95年3月の地下鉄サリン事件から約2カ月後。警視庁は山梨県・上九一色村にあった教団の施設に踏み込み、麻原ほか幹部を一斉逮捕した。あのときのマスメディアの報道をまざまざと思い出すことができる。テレビは緊迫感に満ちた逮捕の様子を中継し、ニュース番組やワイドショーは連日この事件を伝え、新聞の一面・社会面はオウム関連の記事で埋め尽くされた。そして、世の中の反応はといえば、「やっぱり」と「どうしてこんなことを?」が混在していたように思う。
逮捕前、89年の坂本弁護士一家殺人事件、93年の松本サリン事件も、オウム真理教が関与しているのではないかということは、週刊誌などが報じていた。しかし、教団は明確に否定し、世間もおおむね「疑わしいけれど真相はわからない」という受け止め方だった。私もその一人だ。だから、「やっぱりオウムだったのか」と驚愕し、「ここまでのことをする教団だったのか」と衝撃を受けたのだった。
著者は、メディアが、教団の暴走を察知する問題意識をもっていなかったことを反省と共に指摘し、〈91年から92年にかけて、一時的に武装化路線から離れた教団はメディアに接近した。呼応するように、民放各局は麻原をバラエティー番組に競うように出演させた。〉と記している。
バブル景気が終わりに向かうあのころ、麻原や信者はメディアに頻繁に登場していた。ネットのニュースサイトやSNSが今のように普及していなかった時代、テレビ、新聞、週刊誌、月刊誌を介して、オウム真理教は全国的に知らない人はいないほどの教団となっていった。テレビ画面の中で、教団服をまとい、たがいをホーリーネームで呼び合う彼らの姿はとても奇異に映った。一方で、死刑となった幹部たちを含め、多くの信者は穏健で、知的に見えたし、「ヘンな人たち」と切り捨てられない雰囲気をもっていた。実際に社会学や宗教学の専門家は、当時、オウム真理教の教義に関心を示し、一般の人々も好奇心をもって「オウムって、こんな修行をするらしいよ。こんな食べ物を食べているらしいよ」と話題にしていたのである。
「極悪非道なカルト宗教集団」という評価が定まった今となっては、麻原や信者がバラエティー番組に出ていたことが嘘のようだ。一時期とはいえ、オウム真理教が世間に受け入れられたのは、著者が述べているように、信者たちの「生真面目さ」が人々を引き付けたのではないかと思われる。
取材で信者と直に接してきた著者は、〈オウム真理教に入信した若者たちは、物質的な豊かさだけが優先される社会に疑問を感じていた生真面目な人ばかりだった。〉と書き、〈麻原を「師」に選ばなければ、死刑になった12人は実直に生きてそれぞれの立場で社会に貢献した人たちだ、と私は断言できる。〉とも書いている。メディアを通じて、自分たちの信じるものを伝えようとする信者たちは、(私はその内容に共感はしなかったが)真面目で真剣であったのは間違いない。バブルに浮かれ騒ぐ時期、メディアにあらわれた彼らの存在は新鮮だった。
だからこそ、逮捕後に事件の全容がわかったとき、私たちは「どうしてこんなことを?」と当惑したのである。あのとき友人の一人が、信者たちの犯した罪の重さは認識しつつも、「(バブル期の)あんな社会がおかしいと思ったり、生きづらいと感じるのは、まっとうな連中だったんだと思うよ」とつぶやいたのを今でも覚えている。
もちろん、彼らは人としてやってはならないことした。亡くなった方の遺族や、いまだ後遺症に苦しむ被害者の方は、これからも心身の痛みを抱えて生きていかなければならない。しかも、本書の終章「終わらないオウム事件」に書かれているように、〈解明された事実を社会として共有できる状況には必ずしもなっていないという現実〉がある。
オウム真理教事件は、カルト宗教集団が暴走し、逮捕されて、死刑になって終わり、ではない。本書からは、もともとは生真面目な若者だった信者たちが「どうしてこんなことを?」の答えがほのかに見えてくる。生きづらい若者を生んでしまう社会、そんな若者の受け皿となる宗教、そして想像力や深い思考力を捨てることの怖さ。今につながるさまざまな問題とその背景が、丹念な事件の記録からあらためて浮き彫りになってくる。
95年は、1月に阪神・淡路大震災が発生し、3月に地下鉄サリン事件が起き、5月に麻原や信者が逮捕された「災害」と「カルト」の年だった。今にして思えば、あのころからこの国の閉塞感は深刻化していき、95年は現在と地続きであることを再認識させられる。オウム真理教が活動していた時代に生み出され、流れ続けている社会の空気と無縁な人はいない。本書は、あの事件を覚えている人も、知らない若い世代も、事件はなぜ起きたのかを振り返ると共に、「自分と社会のかかわり」を考えさせられる書でもある。
(海部京子)