国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」で開催されていた企画展「表現の不自由展・その後」が中止されたというニュースに、大きな衝撃を受けています。
主催者側には、抗議のメールや電話がいくつも届いており、中には抗議というよりも脅迫、テロ予告とも取れるものもあったとのこと。さらに、河村たかし・名古屋市長が同企画展の展示の一つ、元「従軍慰安婦」の女性たちを象徴する「平和の少女像」を問題視し、大村秀章・愛知県知事に像の撤去を求める申し入れをするなど、政治家による言及も目立ちました(芸術監督を務める津田大介氏は、中止決定に対する政治家による発言の影響を否定してはいますが)。
当たり前のことですが、政治権力による表現の自由への介入は、絶対にあってはならないことです。直接的に「やめろ」と指示するのでなくても、こうした状況での政治家の発言がどのような「効果」をもたらすかは、かつてのNHK「番組改変」事件、そして一時期流行語のようになった「忖度」という言葉からも明らかではないでしょうか。
さらに、河村市長は、少女像を「日本国民の心を踏みにじるもの」だと批判しましたが、そうは考えない「日本国民」も大勢いるはず(中止決定の前には、SNSで「#あいちトリエンナーレを支持します」というタグが急速に広がりました)。市長の発言は、そうした自分と考えの違う人たちを「非国民」だと述べたに等しい。大村知事が河村市長の行動を「憲法違反の疑いがある」として強く批判したことに、少しだけほっとさせられました。
そして、もう一つ強い危機感を覚えたのは、河村市長をはじめ、政治家やテレビのコメンテーターから「慰安婦」問題の存在自体を否定するような発言が相次いだことです。松井一郎・大阪市長に至っては、「(少女像は)事実とあまりに懸け離れている」「あの像は強制連行され、拉致監禁されて性奴隷として扱われた慰安婦を象徴するもので、それは全くのデマだと思っている」と発言したことが伝えられました。
これも言うまでもないけれど、意に反して戦場で「慰安婦」とされ、過酷な扱いを受けた女性たちが(韓国だけではなく)大勢いたこと、そこに旧日本軍の関与があったことは、歴代の日本政府も公式見解として認めている史実です。それを「デマ」扱いするような発言を、自治体の首長が堂々と、記者の質問に答えてできてしまうような「空気」がある──。そう感じて、怖くなりました。
ふと、ここしばらく、少しずつ読み進めている本のことを思い出しました。作家・森まゆみさんが2年前に上梓した『暗い時代の人々』(亜紀書房)。帝国議会での演説でファシズムや軍国主義を批判した斎藤隆夫、生物学者から社会運動に転じ、代議士となって治安維持法改悪に反対した「山宣」こと山本宣治、労働運動などに奔走し、治安維持法による女性逮捕者一号となった久津見房子……大正末期から昭和のはじめ、日本全体が軍国主義へと向かう「暗い時代」に、「精神の自由」を掲げ、戦争にひた走る流れに異議を申し立てた9人の人々を描いた評伝集です。
徐々に重苦しさを増していく社会の空気に、それぞれのやり方で抗おうとする人たち。読みながら、その強さやしなやかさに驚くとともに、「こんな時代に、それでも声を上げ続けた人たちがいた」という事実に、力づけられる思いがしました。
著者の森さんはまえがきで〈戦前の日本で九人の人々が点した「ちらほらゆれる、かすかな光」〉を描きたかった、と書いています。もしかしたら今の時代も、将来世代から見れば「暗い時代」だった、と評されるのかもしれない。だからこそ、どんなにかすかであっても、「光」を点すこと、異議を唱え続けることを、やめてはいけない。改めて、そう感じています。
(西村リユ)