近年、子どもの声がうるさいという住民の苦情が増えているという。とくに高齢の男性からだ。自宅に近くに幼稚園や保育園をつくることに反対したり、コミュニティセンターへの小学生以下の出入りを禁止させたり。
ドイツでも同じようなことがあったが、子どもの声とそれに付属して発生する音は保護の対象とする法律を可決。東京都議会でも2014年3月、子どもの声を都の騒音条例の数値規制の対象から外すことで全会一致した。
それはそうだろう。子どもの声がうるさいとは狭量な、自分だって子どものころがあったじゃないか、お互いさまだろ、と思う。ところが、著者はまったく違う視点からこの問題に疑問を呈する。なぜ高齢男性は日がな一日、自宅やコミュニティセンターにいるのか、と。
その考察の先に居場所をもたない高齢男性の孤立が見えてくる。その大きな要因は戦後、高度経済成長期を経て確立されていった、まち、ひと、しごとの役割分担だ。サラリーマン家庭では、夫は外で働いて稼ぎ、妻は子どもを育て、ときに親の面倒もみて、家事をこなす。夫にとって自宅は「住む」だけのところ。地域社会はなきに等しい。自分の所属先である会社に40年ほど通い続けた後、リタイヤしたら、家にも、地域にも居場所がないのは当たり前である。
妻はどうか。家事を夫から丸投げされて暮らしてきた。家事とは育児や介護を含む、いわば家族のケアである。家庭にいる限り、ついて回る仕事といってもいい。
家事という無償労働の時間を加えれば、日本人男性の労働時間は、他の先進国の男性に比べてぐっと少なくなると本書は指摘する。日本のGDPは世界第3位だが、1時間当たりの労働生産性では40.1ドルと世界第20位(世界1位はノルウェーで86.6ドル。OECDの2012年の統計による)という数字も合わせてみると、日本人のサラリーマン=働きバチは幻想であり、「長時間で生産性の低い労働に、有休すらまともに取れない企業風土」という悪しき原因が浮き彫りにされてくる。
むしろ働きバチは「日本人の結婚して仕事を持っている女性」の方だ。家庭において多くの時間を家事に費やさざるを得なかった彼女たちが、子どもも一人前になって、さあこれから自分の人生を生き直そうという時、目の前にいる、定年後は行くところもなく家の中に佇む夫の姿を想像してほしい。本書の冒頭で紹介される、定年退職後の夫に早く死んでほしいと笑って話す主婦同士のやりとりは、かなり怖いが、とてもリアルなのだ。
しかも、高度経済成長がとうの昔に終わった日本で、「サラリーマンの夫と専業主婦、子ども2人」はスタンダードな家族像ではない。非正規雇用が増え、勤労者の平均収入が減り続けるこの国では、都会の電車に乗る母親とベビーカーは邪魔者扱いだ。そこはすでに「子どもを産んですみませんと思わせる社会」であり、少子化はさらに加速していく。
本書を初めて手に取ったのは刊行直後の2015年だったが、いま再読すると、ここで提起される課題は改善されるどころか、より先鋭化しているように思える。
「伝統的な家族の復活」で子どもを増やせなどと宣う政治家は無視しよう。まずは私たち一人ひとりが自分の「居場所」と「時間」を探し、つくる、それをサポートする。日本を立て直すための端緒は意外とシンプルなのだ。
(芳地隆之)