『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(大木毅著/岩波新書)

 1939年8月23日に締結されたドイツとソ連の不可侵条約は世界を驚かせた。不倶戴天の敵同士と思われた両者が互いに手を結んだからである。その3年前にドイツと防共協定を結び、ソ連を仮想敵国とみなしていた日本では、平沼騏一郎首相が「欧州情勢は複雑怪奇なり」との言葉を残し、内閣が総辞職した。
 それから約1週間後の9月1日、ドイツはポーランドに侵攻。その後、ソ連もポーランドに攻撃を開始し、両国はポーランドを分割するが、スラヴ人を劣等人種とみなすアドルフ・ヒトラーは、モスクワより先、ヴォルガ地域までを東方植民地帝国とする野望をもち、対ソ戦争を想定していたのである。
 一方、ヨシフ・スターリンは、国内にいる反逆分子が自分を追い落とそうとしているという強迫観念に囚われており、ソ連の指導者らを次々と粛清していた。逮捕者の数は1937~1938年にかけて3万4301人、うち2万2705人が銃殺もしくは行方不明になったという。そのなかには赤軍の高級将校も含まれており、101人中90人が逮捕、うち80人が銃殺された。
 そこへ「バルバロッサ作戦」の下、ドイツ軍が雪崩を打って攻め込んできたのである。さらに破竹の勢いでロシアの大地に進軍していくのだが、戦線は北はフィンランドから南はコーカサスまで数千キロに及ぶ。目の前の敵を倒して進めば進むほど、敗走したソ連兵から背後を狙われ、ドイツ軍は徐々に疲弊していった。
 そして最大のターニングポイントとなるスターリングラードでの戦いに突入する。ドイツ空軍の爆撃によってがれきの山と化したスターリングラードの市街地で、ドイツ兵はソ連兵との白兵戦を繰り広げるも、極寒の冬に入ると彼らの戦力は削がれていった。
 スターリングラードでの勝敗が決した際、ソ連軍から降伏勧告がなされるが、ドイツはこの戦いを「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との世界観戦争とみなしていた。そこには外交努力による解決策の余地はない。一方、ソ連はナポレオンの侵略を退けた祖国戦争よりさらに大規模な、ファシストからロシアを守る大祖国戦争と位置づけており、戦闘は酸鼻を極めた。
 ソ連東部をゲルマン民族の生存圏とみなしたドイツは食糧や天然資源を収奪、労働力までを自国へ移送した。捕虜にも死に至る過酷な労働を強いた。国際的な戦時法はなきに等しい。ソ連が捕虜にしたドイツ兵の数は260万~350万人と諸説あるが、うち30%は死亡との記録が残っている。敵を絶滅させるという、それまでにない形態に戦争を変えたのが独ソ戦であった。
 新書の体でありながら、幅広く対象を網羅し、テーマを深く掘り下げた著者の労苦がたくさんの読者をひきつけているのだろう。私が手に取ったのは7刷りだった。そこまで読者が関心を寄せる背景には、「日中戦争はどうだったのか」という問いも含まれている気がする。

(芳地隆之)


『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』
(大木毅著/岩波新書)

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