オリンピックを4年に一度の甲子園に(助田好人)

みんなとは誰なのか

 1年「程度」の延期となった東京オリンピックが、その決定から1週間も経たないうちに来年の7月23日開催の見通しとなったそうだ。JOC(日本オリンピック委員会)理事の一人で、ソウル五輪女子柔道銅メダリストの山口香さんがNHKの番組(サンデースポーツ)で「A案、B案、C案というように複数の選択肢を挙げておくべき。一案だけで、また変更になったら、選手がまた戸惑ってしまう」という趣旨の発言をしたばかりなのに。そもそもこの決定の最高責任者は誰なのか。山下泰弘JOC会長なのか、森喜朗TOCOG(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)会長なのか。延期が決定される前に山口さんが「東京オリンピックの延期はやむを得ない」と発言した際、山下会長は「みんなで力を尽くしていこうというときに、そういう発言をされるのは極めて残念」とコメントしたが、「みんな」で決めたということなのか。

開催を辞退する都市

 3月28日付『朝日新聞』の記事「(耕論)延期劇が映したひずみ」でインタビューを受けたライターの武田砂鉄さんが「都市型のコンパクトな五輪をめざし、コスト削減も重視していたのに結局、施設の建設費は想定以上に膨らんでいます。招致活動でのJOCの竹田恒和前会長の贈賄疑惑もうやむやなまま」と述べている。
 東京オリンピック後の2024年、2028年の開催都市選びのことを思い出してみよう。2024年大会を招致したハンブルク(ドイツ)、ローマ(イタリア)、ブダペスト(ハンガリー)、パリ(フランス)、ロサンゼルス(アメリカ)のうち、ハンブルク、ローマ、ブダペストは立候補を辞退した。ハンブルクは2015年11月に行った住民投票の結果、反対票が過半数に達したため、ローマは財政難、ブダペストは招致の是非を問う住民投票を行うことを求めた署名が必要数に達し、招致成功の見込みが薄くなった、といずれも「お金がかかりすぎる」が理由である。開催地候補に残ったパリとロサンゼルスはどうしたかというと、2024年をパリ、2028年をロサンゼルスで分け合った。IOC(国際オリンピック委員会)は2028年に他の都市が手を挙げることがないという想定で決定したのだろう。

感動は受け手の問題、送り手が仕掛けるとプロパガンダ

 お金をかけるからには多くの観客、視聴者に来てもらう、観てもらう必要がある。いきおいメディアは感動の物語づくりに余念がない。その勢いに影響されるのか、選手からも「見ている人に感動を与えたい」という言葉が発せられる。しかし、感動は人から与えられるものなのか? 音楽家の坂本龍一さんが2月2日付『朝日新聞』の記事「『音楽の力』は恥ずべきこと」で語っていたことを思い出す。
 「感動するかしないかは勝手なこと。ある時にある音楽と出会って気持ちが和んでも、同じ曲を別の時に聞いて気持ちが動かないこともある」
 感動は受け手が抱くものであり、発信する側がそれを意図するとプロパガンダになってしまう。1936年のベルリン・オリンピックがヒトラー・ドイツの隆盛を世界に誇示する役割を果たした歴史もあるように、スポーツや芸術は政治に利用されやすい。だからこそオリンピック憲章は、競技は国と国の戦いではない、IOCとOCOGはいかなる国別ランキングもつくってはならないとしているのである(オリンピック憲章57条)。
 しかし、それが守られていないのは周知のとおり。上述の「(耕論)延期劇が映したひずみ」では坂上康博・一橋大学教授も登場し、次のように言う。
 「五輪は市民スポーツの普及や振興という点ではむしろマイナス効果をもたらします。一部トップ選手のための大きな施設を整備する分、市民にとって使いやすい小さい施設を各地に造るのは後回し。部活動もトップ選手発掘・養成の場となり、文武両立ではなく、二極化を招いています」

オリンピックをみんなのものに

 オリンピックはスポーツを「やる側」と「みる側」に分けてしまう大会になっているのではないか。多くの人にスポーツを親しんでもらうオリンピックにするにはどうしたらいいか。坂上教授は「都市への負担を減らすために開催地をギリシャに固定する」という提案をしている。「回り持ちにするにしても、競技会場の新設を抑える施策が必要です」とも。
 どうせならオリンピックを、4年に一度アテネで開かれる世界のアスリートのための「甲子園」にしてはどうだろう。競技会場の外には観客がスポーツを楽しめるスペースもつくれば、初めてみる競技に触発された人がその場で試せるし、それがひいては競技人口のすそ野も広げることになるかもしれない。施設も4年に一回開催がわかっていれば、大会後に放置されてぺんぺん草が生えることなく、メンテナンスをしていける。
 国と国との戦いは各競技のワールドカップに任せればいい。オリンピックが世界の頂点を競う場と位置づけるのであれば、少なくとも選手のコンディションを考えて真夏の開催は止めるべきだ。でも、秋のスポーツイベントと重なっては欧米のテレビの莫大な放映権料が入らないという事情を優先ということならば、灼熱の太陽の下で高校生たちがプレーすることへの批判はあるものの、日本の夏の風物詩として定着した感のある全国高校野球選手権を見習えばいい。
 世界で何十万人もの方々が新型コロナウイルスで亡くなっている最中に、拙速でオリンピックの開催を決めようとするのはとても「残念」だと思うが、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝つ証し」として開催される東京オリンピックを世界の都市が見た結果、透明性のないオリンピックがどれだけの無駄を生むかを知って、方向転換するかもしれない次のパリ・オリンピックに期待したい。

(助田好人)