第98回:初公開!少年ゲリラ兵部隊の本拠地に迫る~75年目にベールを脱ぐ第一護郷隊の遺構~(三上智恵)

第98回:初公開!少年ゲリラ兵部隊の本拠地に迫る~75年目にベールを脱ぐ第一護郷隊の遺構~(三上智恵)

今年は人影少ない「慰霊の日」

 2020年の慰霊の日。今年も私はカメラを手に4カ所の慰霊塔を回ったものの、コロナウイルスへの警戒が解けないなか、どこも人影は少なく、名護市の第一護郷隊の慰霊碑にも元隊員の姿が初めて一人も見えないという、寂しい年になってしまった。高齢者の外出は、ご本人に行きたい気持ちがあったとしてもご家族が心配して出さないだろうから、これはどうにも仕方がない。一方で高齢者と言えば、恩納村の第二護郷隊の碑では、少年兵だった兄に手を合わせに来た91歳の女性が印象的だった。足が思うように動かないのだろう、娘さん二人の肩を借りて、どうにか慰霊碑の前に立っていた。

 「忘れられないよねえ。遺骨も戻ってないよ。こんな山の中だからね。私の母は90歳まで毎年、ここ(恩納岳)まで手を合わせに来ていたよ」

 そう言って、娘さんが備えた果物やお菓子の前にひざまずこうとするが、足を曲げることができない。横向きで申し訳ない、と何度も口にしつつ長い時間手を合わせていらっしゃる様子を見て、胸が詰まった。お母さんは90歳までここに参拝を続け、ご自分は91歳まで頑張ったが、来年は来られないかもしれないという思いで長く長く手を合わせていたのかもしれない。こうして少年兵の両親が完全にいなくなり、ご兄弟の姿も見られなくなる。すると、10代の少年たちは結婚もできずに逝ってしまったわけだから、子どもが参拝してくれる可能性はなく、こうした兄弟姉妹の子どもたち、つまり姪っ子や甥っ子に、若くして護郷隊で戦死したおじさんの話がちゃんと伝わっていた場合に限って、ご家族の参拝は続く。なんとも心もとない。10年後、護郷隊少年兵に手を合わせに来てくれる人は、いったいどれだけいるのだろうか。

兄に逢わんと 通い来し少年兵の碑
九十の妹 たった二段が上がれず

注目が集まる「第32軍司令部壕」の保存と公開

 戦後75年という節目を迎えた沖縄ではあるが、私自身もたくさんの取材をあきらめたように、今年の沖縄戦企画・報道はやはりあまり振るわなかった。しかし、そんな中で先月、「護郷隊の陣地跡が見つかった」というニュースが全国に流れ、注目を集めた。それは恩納岳に拠点を構えていた、この「第二護郷隊」の本拠地のことである。

 現在そこは米軍キャンプ・ハンセン内の実弾演習場になってしまっているので、正確に言うと「見つかった」というよりは、「これまで調査に非協力的だった米軍が、今年3月に山頂付近を調査した写真を公開した」に過ぎない。恩納岳に遺構があることは、関係者はもちろん知っているし、戦争直後は少年の遺骨を探しに山に入れた時期もあった。が、今となっては、県民はその陣地の場所どころか、少年ゲリラ兵らが恩納岳で死闘を展開したこと自体あまり知らない。せめて、今回陣地跡が見つかったという報道をきっかけに、ならば保存や学習活用のために文化財担当者の入域を許可せよ、全員90歳を超えた元少年兵の立ち合いで現場確認できるラストチャンスを逃すな、と世論が盛り上がってくれれば、と祈るような気持でニュースを見た。

 護郷隊について私はこの10年、掘り起こし伝える仕事に精を出してきたつもりだが、力及ばず、護郷隊員のおじいたちの命の灯が完全に消えるまでにやるべき課題の多さに打ちのめされるばかりだ。しかし、彼らの歴史を語る材料は、何も彼らの肉声だけではない。戦史叢書や軍が遺した資料もある、そして、彼らが訓練した場所、作戦上自ら爆破した橋などの痕跡も見ることができる。陣地があった場所には、銃眼や交通壕、石積みなどもあるだろう。そういう戦争の爪痕がこの島の各地に残っているのに、それらをして語らせるという仕組み作りが、後手後手に回っていまだにうまく構築できていない。

 今年、地元紙の琉球新報が行った調査によれば、県内で市町村が把握している戦争遺跡は1313カ所であるのに対し、文化財に指定されているのは14市町村26カ所のみにとどまっている。わずか1.9%という数字にはあらためて驚きを禁じ得ない(6月30日付琉球新報)。

 自分の集落や裏山、生活の基盤となる山も海も含めて、生活空間が丸ごと戦場になってしまったという、国内でも例がない壮絶な戦争体験をもちながら、これまでいかに体験者の証言にばかり頼って沖縄戦の学習や報道を進めてきたかを思い知る。土地に残された戦争の爪痕については、戦後はもちろん沖縄中に満ち溢れていて希少価値などなかった。廃虚の上に一から、否、アメリカ軍統治下というマイナスから、戦後の暮らしを立ち上げていった沖縄県民にとっては、「日本軍の遺構」「弾痕の残る壁」「多くの死者を出したガマ」などは、文化財として活用するより、忘れること、上書きすることで前を向いて進むしかなかった。

 しかし、戦争体験者の高齢化と継承が課題になって、すでに何十年と経っている。少なくとも2000年代に入ってからの責任世代である私たち40、50、60代が戦争遺跡の活用に取り組まず、それらに語らせることなく、朽ち果てていくに任せてきたことは反省に値するし、遅まきながら今からでも、保存や公開に私たちが汗を流すべきではないだろうか?

 今、沖縄では、失われた首里城の再建と共に、その地下に眠る巨大な「第32軍司令部壕」の保存と公開に注目が集まっている。玉城デニー知事は、第32軍司令部壕の保存・公開へ、本年度中に新たな検討委員会を発足する考えを示した。壕の保存・公開と共に、どう平和を作る場に変えていくのか、大田昌秀知事の時代に頓挫してしまったとても大事な議論が、再び始まろうとしている。私は取材で2度中に入ってみたことがあるが、息詰まる空間のあの匂い、染み出してくる水と湿気、吐き気を催す蒸し暑さ、ここにひしめき合った兵隊と軍指導者たちの息遣いが体にまとわりついて、ぐったりするような体験だった。また入りたいとは思わないが、あの迫力を2度も経験しているからこそ、今もこうやって沖縄戦にこだわって生きているのかもしれない。

 総延長1キロに及ぶ規模、深いところで30メートルという、入ってみなければわからない規模感を含めて、沖縄戦の狂気を語る最大の遺構であり、これを公開しないのは罪だとすら思う。南部撤退時に爆破されたこともあり、あちこちに落盤や浸水があるなど安全な公開に向けて課題も多いが、ぜひ首里城の建築過程も観光資源にしつつ、地下の戦争遺跡の保存への努力、その技術の公開も含めて、まずは100メートルからでもいいから早急に公開を始めて欲しいと思う。今ならまだ、伝令でこの地下を走りまわった、元鉄血勤皇隊や通信兵のおじいたちの説明を現地で聞く機会があるかもしれないから。

初めてカメラと共に、「第一護郷隊」の本拠地へ

 そして、今回のマガジン9では、私は特ダネに相当する動画をアップしているので、それをぜひ見て欲しいのだ。先日、第二護郷隊の遺構が、米軍の写真であれ公開されたのは大変大きなことだが、一方の第一護郷隊の陣地の調査はなぜ進まないのか。彼らがいた場所は名護市の多野岳や名護岳周辺に複数あるけれども、ほとんどは基地の外で、つまり私たちが探して到達できる場所なのである。

 私は2017年に映画『沖縄スパイ戦史』を撮影する際に、まずはアメリカ軍上陸に備えて2月から構築された第一護郷隊の最大の本拠地、フンガー滝の周辺だけでもなんとか遺構を見つけたいと動いてみたものの、到達できなかった。あれから3年越しで、今回「たぶんここなのだろう」という場所に、初めてカメラを持って行くことができたのだ。詳しくは、今後の名護市の文化財担当者の皆さんの踏査を待つほかはないのだが、元隊員の皆さんに確認ができる残された時間に間に合わせたいという先走る気持ちで、その動画をまずは興味を持ってくれる皆さんと共有したい。

 もちろん、その場所には私一人で到達できたわけではないので、撮影に至る経緯を簡単に説明しておきたい。私は2017年の撮影時に辿り着けなかったことが悔しくて、本(『証言 沖縄スパイ戦史』)の執筆までには何とか現地を探し当てたいと周囲にも話していたところ、山梨県で山のガイドをしていらっしゃる男性で私の映画の上映にも取り組んで下さった中島和也さんから「沖縄に来たついでに行ってみたら、滝の上まで到達できた」と連絡が入った。あんな場所に一人で行くなんて、さすがに山歩きに慣れている方はすごい。詳しい地形図のアプリを見ながら、「このあたりが平坦だから拠点をつくるとしたらこの辺という見当も付けたので、今度一緒に行きましょう」とおっしゃるので、私は小躍りした。

 中島さんは定期的に辺野古のカヌーチームの加勢に来てくれているので、そのタイミングで去年11月、一緒に滝の上流を目指すことにした。そして私自身、山歩きや体力に自信もないので、恩納村の村史編さん係で護郷隊のことを調べているうえ、沖縄平和ネットワークの文化財・ガマ部会メンバーでもあって体育会系で知られる瀬戸隆博さんにも声をかけ、3人で行ってみた。その時に、散兵壕(蛸壺壕・一人用の塹壕)と思われる穴がいくつか確認されたので、あらためて撮影の準備をして臨もうと決意をしていたのだった。

 年が明けて2月1日、「リョーコー二等兵の桜を見る会」に、第一護郷隊の村上治夫隊長の息子さん、村上仁美さんが大阪から駆け付けて下さって、この話をしたところ、陣地のあった場所にぜひ行ってみたいということになり、では次回、慰霊の日で沖縄に来る時にみんなで行ってみようと話がまとまった。ただ心配だったのは、仁美さんがこの数年体調を崩して入退院を繰り返していることだった。6月23日は必ず沖縄に行く、という父親譲りの信念が勝って退院の許可が出たと、6月上旬に嬉しい知らせがあった。しかし、できるだけ負担をかけないでいいように、瀬戸さんと名護市の市史編さん係の川満彰さんが前の週に下見に行ってくれた。

 実はその時に、さらにいくつもの散兵壕や交通壕らしきものが見つかっていた。川満さんは煉瓦らしきものも見つけたという。なので、24日に私も村上さんと共に、再度滝の上に行くのを楽しみにしていた。ところが仁美さんはやはり本調子ではなく、滝までは到達できたものの、新たに遺構らしきものが見つかった滝の上に行くのは、また次回にとっておくということになった。そのため、とりあえず撮影だけはしておこうと、日をあらためて瀬戸さんと二人で撮ってきたのが今回の映像である。

フンガー滝周辺で次々と見つかった蛸壺壕

 護郷隊は秘匿部隊の為、中隊ごとに本拠地は分散していて、また何度か場所も変えている。そのため、痕跡がありそうな場所は複数存在するのだろうが、最初の拠点は、このフンガー滝の周辺だったと思われる。古い地名や川の呼び方「〇〇川上流」などに揺らぎがあるため断定はできないのだが、その根拠としては、村上第一護郷隊隊長と長く行動を供にした近藤重喜軍曹が1993年にまとめた手記『我が人生に悔いなし』の記述が詳しく、参考になる。

 平坦な杉山と自然林を通ると、次第に渓谷となる。さすがに、水は綺麗である。300メートルも行くと全くの天然林であり、第一護郷隊の棲息地に着いた。3メートルくらいの滝がある。水量もあり、勢いよく飛沫をあげて音が響いている。その下が本部、二中隊、四中隊の順、上が一中隊。滝の上に行くのに、崖が大変である。特に食事を運ぶのに、苦労が多いと思われるが、指定されているので仕方がない。「滝の上流」と指定された中隊の棲息地。
 付近を、分隊長を同行し調査した。青年兵は疲れているので、休ませている。傾斜が強く、兵舎を作る場所が少ない。先ず大別して、本部に近いところから、指揮班、中隊長室、第一小隊、第二小隊、左岸に第三小隊とした。

 その陣地を指す古い地名の「キナマタ」が、よく証言には登場する。キナマタの先にある滝というのはフンガー滝でまず間違いはないだろう、と思ってはいたが、滝の周辺ですでに見つかっていたいくつかの穴は、住民が使ったものである可能性もあり、護郷隊の遺構と断定はできなかった。しかし、今回滝の上からさらに尾根を伝って上がっていくと、次々に蛸壺壕が見つかった。今回撮影した竪穴の数は14、15個もあった。そして敵から身を隠しながら陣地間を移動するための「交通壕」が明らかに人工的に、100メートルほどに渡って掘られているのも確認できた。これだけではまだ護郷隊のものと断定はできないにせよ、軍隊が使った遺構であること、近くに陣地があったことは間違いないだろう。

 その交通壕を辿っていくと斜面は平場に変わり、ざっと300坪ほどの小屋が建てられそうな場所に到達する。私たちはそこを「平場1」と名付けた。その平坦な場所にも大きめの穴が掘られていた。そして少し階段状になっている細い道のようなところを奥に発見したのでそれを登っていくと、その先にも平坦な場所が拡がっていた。やはりそこにも人工的に掘った穴が見つかった。そこまで行くと、反対側に水の流れる音がしており、そっちに降りていくと小さな水の流れが見え、さらに降りていくと川に合流するのであろう大きな水の音が聞こえた。つまりこの「平場2」は逆に「平場1」より水に到達しやすいようだ。

 「滝の上には、傷病兵が寝かされていた場所があったよ。白石隊の海軍の大人たちも体格が立派でね、だけどお母さん、お母さんって苦しんでいた」という証言が甦った。「粗末な棚のような場所に寝かされていた〇〇さんの骨は、戦後そのままその棚に残っていた」という証言も思い出した。それはあくまで、たまたまそこで私が思い出した証言に過ぎないが、敵が滝まで攻め込んできても、ここまではなかなか来られないだろうと思われるこんな場所に、あるいは傷病兵が寝かされていたのかもしれないと想像してみた。今後は、護郷隊の調査研究の第一人者で、すでに一度ここに来ている川満彰さんが、名護市の文化財のプロの方々と共に本格的な調査に入ることになると思われるので、その詳細な調査を待ちたいと思う。

 それにしても、この場所はなかなか侮れない。滝の上に向かう道は崩落しているところもあるうえ、ハブの生息地でもあるし、マダニやブヨもいる。私たちもアブに咬まれながらの撮影だった。巨大なヒルもいたし、卒倒しそうな大きな毛虫もいた。虫よけスプレーも効かず、今、私の顔は虫刺されでボコボコである。軽装備や面白半分で行くことは全くお勧めできない場所なので、願わくば名護市の戦争遺跡として整備される日を待ってから、現地に行っていただければと思う。

護郷隊の遺構から、戦争と軍隊の本質を学ぶ

 ところで、沖縄県内で戦争遺跡の指定や保存が進まない理由はたくさんある。司令部壕のような崩落・浸水などの風化だったり、恩納岳のように米軍基地の中にあって到達できなかったり、地籍が確定していない原野であったりだ。所有者がいる場合でも、戦争遺跡にされることが負担になったり、住宅地として地価が上がらないなどと周囲に反対されたり、歓迎されにくい面もあるだろう。文化財行政に人員を割けない自治体の事情もある。しかし、なかでも大きな壁になっているのは、軍隊の遺構を平和学習に結び付ける難しさ、ではないだろうか。

 日本軍の遺跡の中でも、司令部壕や病院壕など、すでに知られている沖縄戦を象徴する場所はよいとして、例えばいくつもある海軍部隊の出撃の地とか、〇〇部隊最後の地、高射砲の陣地、マルレ(敵艦に体当たりする特攻艇)を隠した穴など、無数にあるそうした場所を単に保存して生徒を連れて行っても、「〇〇部隊かく戦えり」のような話になってしまっては意味がない。沖縄では戦後、盛んにあの戦争を作戦として読み解く「軍隊の視点」による記述が繰り返されたが、それに抗して、住民の視点で戦争を捉えなおすために膨大なエネルギーを費やしてきた。その延長線上に、あらためて軍隊がここで住民を巻き込む覚悟で、住民の被害を前提に、どういう作戦を構築し、何ができて何ができなかったのかを検証するべきだし、そこに見てとれる軍隊の本質を学ぶチャンスとするためには、遺構だけ保存されていても全く不十分と言える。地域で起きた戦争を捉えなおす体系的な研究や、それを踏まえたうえでさらに、案内する生徒や観光客を惹きつけるガイドのノウハウなどに、かなりの工夫が必要になって来る。あくまで75年前の戦争を軍隊マニアとしてみるのではなく、住民と切り離せない軍隊の本質を理解するために戦争の遺構が活用されなければならない。

 その意味で、護郷隊の遺構は、住民が戦争と軍隊について学ぶ場所として最適だと私は思う。主人公は本土から来た兵隊、ではなく、北部の少年たちだった。子どもたちが戦ってくれている山の奥に避難していた親たちは、軍隊に協力する以外なかった。作戦に使われ、投降もできずに餓死や病死で命を落としていく住民たちに、少年兵らも、近くにいても何もできない悔しさを味わっただろう。作戦を遂行した場所に立つことで、戦った側の虚しさや、加害と被害を行き来する地獄まで追体験できるかもしれない。少年兵の気持ちになって、多野岳から望む八重岳、名護岳、恩納岳に仲間の護郷隊が陣取っている、ということを頭に入れて眺めるだけで、この島の見え方はかなり変わってくる。

 資料館でパネルやビデオを見ているだけでは絶対にわからない戦争のリアル。この島の、この空間が戦場だったことを痛感する「場」が、まだまだ生かされずに眠っているのだ。だからこそ、何度でも言うが、護郷隊を語る遺構はぜひ一刻も早く整備してほしいのである。鉄血勤皇隊を語る場所は養秀会館や留魂壕がある。ひめゆりなど学徒隊にはひめゆり資料館がある。それなのに同じ10代の若者が動員された護郷隊が知られていないのは、護郷隊のことを学べる場所が一つもないことも大きく災いしていると私は思うのだ。

 今、再び軍隊を配置することによって安心を得たいという人々に、私は言いたい。それを言う前に、故郷で戦うということがどういうことか知ってください、護郷隊のことを知ってください、と。軍隊と住民、戦う人と守られる人、大人と子ども、そんな風に分けられるわけではない戦場の実相を知るためにも、住民であり、子どもでありながら兵隊でもあった護郷隊から学べることは大きい。

 二度と被害者にも加害者にもならないために、護郷隊の戦争を知ることが一番の特効薬になると思うからこそ、真っ先に戦争遺跡として恩納岳や多野岳を活用してほしい。そのために、戦争遺跡を見直す潮流のど真ん中に護郷隊の陣地をぶっ込むつもりで、多少無茶でも老体に鞭打って密林に入り、撮影をしてきたのだから!

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)