第131回:柴田鉄治さんの思い出(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 今回は、ほんとうは原稿を書きたくない。
 書けば、悲しい知らせに触れなきゃいけないからです。
 8月23日、ぼくの大切な大先輩、柴田鉄治さんがお亡くなりになりました。

 柴田さんに「マガジン9」の原稿をお願いしたのはぼくでした。とても仲良し(大先輩に対して生意気なようですが、そうとしか言えません)で、数年前までは、毎月1回、ビールをご一緒するのが楽しみでした。
 その際には、TVジャーナリストの川村晃司さんも一緒で、3人であれやこれやと社会や政治や文化、科学(これは柴田さんの得意分野)と、多岐にわたる話に花を咲かせるのが常でした。柴田さんは新聞、川村さんはテレビ、ぼくは出版と、同じメディアでありながら分野の違った3人だったからこそ、話は盛り上がったのです。
 ああ、楽しかったなあ……。

 その「3人会」も、ここ数年は柴田さんの体調もあり、なかなか開くことができませんでした。たまに連絡があると「そろそろ3人会をやらなくちゃね」とは言い交わしていたのですが、とうとうそれもかなわぬこととなりました。

 ずいぶん昔、ぼくが集英社新書編集部に在籍していたころ、突然「私、柴田というものですが、新聞メディアの変遷、というような内容で新書を書きたいと思っているのですが」という電話があったのです。
 集英社新書は創刊(1999年12月創刊)してまだ間もないころで、さまざまなところから原稿が持ち込まれ(とくに社内の先輩を通じた持ち込み原稿が多かった)、これが玉石混交(いや、玉が1で石が99、という程度)、現場スタッフとしては往生していたのでした。だからぼくも、「ああ、そうですか。では、目次とだいたいの内容、著者略歴などをコピーして送っていただけますか。検討させていただきますので」と、かなり素っ気ない返事をした記憶があります。今考えれば、失礼極まりないのですが……。
 送られてきたものを見て驚きました。
 著者略歴に、元朝日新聞科学部長、社会部長、出版局長、論説主幹代理などを歴任、と記されていたからです。おお、報道の世界ではすごい経歴の方でないか。こりゃこっちも本腰を入れて読まなきゃ……。
 何度もお会いして打ち合わせ、原稿の内容を煮詰めていって、最終的に『新聞記者という仕事』という新書を仕上げたのは、2003年でした。ぼくが柴田さんと知り合ったのは、その1年ほど前のことですから、かれこれ18年ほどのお付き合いになります。
 柴田さんはそのころ、朝日新聞を退社して国際基督教大学(ICU)の教授をなさっていて、学生さんたちとの交流ぶりを、とても嬉しそうに話されていました。その後、ぼくの友人の川村さんを誘い、「メディア3人会」が出来上がったというわけです。

 ぼくは、2006年に集英社を退社。その1年前の05年から「マガジン9」の編集にも協力し始めていました。
 ジャーナリストの魂を持ち続けておられる柴田さんは、3人の飲み会でもマスメディアの動向をとても憂えておりました。出身母体の朝日新聞に対しても、かなり辛辣な批判を持っておられました。
 朝日新聞で同期だったという筑紫哲也さんの思い出話も何度かお聞きしました。「筑紫が生きていたら、なんと言うだろうかなあ……」とも話しておられました。
 そこでぼくは、酔いに任せてまたも勝手なお願いをしてしまったのです。このあたり、木内みどりさんにコラム連載をお願いした時と同じパターン。ぼくのとっさの“思いつき症候群”(“断られてもともと症候群”とも言います)の悪い癖です。なにしろ、原稿料もまともに払えない貧乏所帯の懐具合もまるで考えないのですから。
 ところが、朝日新聞の大記者だった柴田さんが、驚いたことに、「あ、それは嬉しいですねえ。書かせてもらいましょう」と、一発回答の満額回答です。頼んだぼくが慌てたほどでした。

2008年8月に「3人会」のメンバーで登壇した「マガ9・トークイベント」の様子

 というわけで、柴田さんの月1連載コラム「柴田鉄治のメディア時評」が2009年1月にスタートしたのです。それが「柴田鉄治の『今月の論点』——新聞、テレビを斬る」とタイトルを変えて、現在までもう10年以上も続いていたのです。
 ところが、毎月きちんと締め切り前には原稿をくださる柴田さんなのに、この6月を最後に原稿が止まってしまいました(最後のコラムは7月1日付でした)。担当スタッフからの「柴田さんと連絡が取れない」との報告を受けて、私も何度かメールを送りましたが、返信はありませんでした。柴田さんがかなり重症の病を抱えていたことは知っていましたが、最後の知らせは悲しいことに「訃報」でした……。

 柴田さんは、「マガ9」の若いスタッフ(お世辞です)にもとてもやさしく接してくれる方で、みんなの大人気お父さんでした。
 毎年暮れの「マガ9忘年会」は、寄稿者のみなさんやスタッフも含めて30~40人ほどが集まります。病を得てからも、柴田さんは欠かさず参加してくださいました。そして、静かに微笑みながらみんなのワイワイガヤガヤを見ていました。ここしばらくは、かなり耳が遠くなっていて、あまり会話自体はできませんでしたが。
 そして、ビール2杯ほどをゆっくり飲むと、決まって舟をこぎ始めるのです。こっくりこっくり。それを見てしばらくすると、スタッフが大通りへ出てタクシーをつかまえ、みんなで柴田さんをお見送りするのが恒例行事だったのです。
 今年は、あの光景が見られない。それだけでも、ぼくは悲しくて仕方がありません。忘年会自体が、今年もできるかどうかは分かりませんが……。

 柴田さんは、安倍政権にはとても批判的でした。さまざまな理由はあったでしょうが、人の命を大事にしない、戦争へつながる道を辿り始めているような安倍首相には、ほんとうに嫌悪感を持っているようでした。
 1935年生まれ、敗戦のときに10歳だった少年の「戦争だけは絶対に繰り返してはならない」という信念が、柴田さんの持ち続けたものでした。その道に逆行するような安倍晋三氏が危なっかしく見えて仕方なかったのでしょう。
 その思いは、遺された柴田さんのコラム「柴田鉄治の『今月の論点』」を読み返せば、よく分かります。でももう、新しい柴田さんのコラムは読めません……。

 淋しいですねえ。
 我が家の半野良猫ドットが亡くなったのは、8月19日(もしくは20日)でした。
 柴田さん、ドットはとってもおとなしくて優しい猫ですから、もしあちらで見つけたら、ぼくの代わりに抱きしめてやってください………。

 柴田さん、さようなら。
 長い間、ありがとうございました……。

鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。