2012年に公開された映画『放射線を浴びたX年後』は、かつて南太平洋の核実験で、多くの日本のマグロ漁船が被曝していたという衝撃的な事実を描いたドキュメンタリーでした。それから8年、監督の伊東英朗さんは、この問題をさらに広く知らせるため、3作目となる映画を制作してアメリカで公開しようとしています。取材を続けてきた原動力は何だったのか、アメリカ上映を目指す理由は……。お話をうかがいました。
南太平洋の核実験で、多くの漁船が被曝していた
──1954年、日本のマグロ漁船が南太平洋においてアメリカの水爆実験で被曝した「第五福竜丸事件」はよく知られています。しかし、実は核実験で被曝した船は第五福竜丸一隻ではなく、日本の国土にも大量の放射性物質が降り注いでいた──その衝撃的な事実を、元漁船乗組員のインタビューなどを通じて伝えたのが伊東さんの監督映画『放射線を浴びたX年後』(2012年)『放射線を浴びたX年後2』(2015年)でした。
テレビディレクターである伊東さんがこのテーマを番組で取り上げられたのは2004年が最初ですが、そもそも取材を始めたきっかけは何だったのでしょうか。
水爆実験のキノコ雲(マーシャル諸島・1954年)。映画『放射線を浴びたX年後』より
伊東 高知県のある高校で、生徒たちが「核実験による漁船の被曝」についての調査を数年間にわたって続けている、という話をインターネットで見かけたのが最初でした。
当初は「本当かな?」というのが正直なところでした。漁船の被曝といえば第五福竜丸で、それ以外の船も被曝していたなんていうことは聞いたことがなかった。本当だとしたら重大な事件だし、それが全然報道されていないなんてことがあり得るんだろうか、と思ったんです。それで、まずは本当かどうかを確認しに行ってみた、という感じでしたね。
──行かれてみて、どうでしたか。
伊東 生徒たちの調査を引率していた先生に紹介してもらって、元乗組員の方たちの話を聞きに行きました。そうしたら、どの人もすごく明瞭に核実験の様子を覚えておられた。船の上でキノコ雲が爆発するのを見て、その後白い灰がこんなふうに降ってきて……と、非常に事細かく語ってくださったんです。目の前でキノコ雲を目撃したというのは、相当な至近距離にいたということ。お話を聞いたのは第五福竜丸以外の船に乗っていた人ばかりでしたが、核実験によって被曝していたことは明らかだと思わざるを得ませんでした。
──そこから、本格的に取材を始められたんですね。
伊東 そうですね。1人に話を聞いたらまた別の元乗組員を紹介してもらって……と、芋づる式に取材を続けていったのですが、取材すればするほど「被曝の事実は本当だ」ということが分かっていったという感じです。すでに亡くなられた元乗組員の遺族にも取材しましたが、まだ若いのに突然倒れて亡くなった、火葬にした後のお骨が異様にもろかったなどの声をいくつも聞きました。
戦後、日本のマグロ漁船が南太平洋に行きはじめたのは1952年なんですね。そこから、アメリカが太平洋実験場での核実験を停止するまで約11年、100回以上の実験が行われる中で、漁船は漁を続けていたことになります。だから、当時マグロ漁船に乗っていた人たちは、全員何らかの形で実験のことを記憶している。今まで話をうかがった元乗組員の方は150人ほどになりますが、知らない、記憶がないという方は誰もいませんでした。
マグロ船第二幸成丸乗組員たち。映画『放射線を浴びたX年後2』より
私たちは、福島を「忘れて」いないか
──そこから、15年以上にわたって取材を続けてこられました。やめようと思ったことはありますか。
伊東 何度も思いましたよ(笑)。テレビ局での仕事も忙しかったですし、他にもやりたいテーマはたくさんありましたから。この取材に割いているエネルギーを仕事に向ければもっと他の番組が作れる、と思わなかったわけではありません。
──それでも粘り強く取り組んでこられたのはなぜでしょう。
伊東 それは簡単で、「他にこの事件に関心を持ってくれるメディアがなかったから」です。
本当なら、僕みたいなローカル局のディレクターが取材するより、大きな局の優秀なディレクターが担当して、もっと視聴率のいい枠の番組で扱ってもらったほうが影響力は大きいに決まってます。でも、誰もやってくれないから僕がやるしかしょうがなかった(笑)。
多くのマグロ漁船が被曝したというのはもちろん重要な事実ですが、これはそれだけで終わる問題ではありません。先ほど言ったように、漁船が被曝しながら漁をしていた11年間──放射性物質の半減期を考えればその後の数十年も──日本の人々は放射能汚染されたマグロを食べ続けていたわけです。
さらには、核実験による放射性降下物が日本列島を覆っていたことは、アメリカ原子力委員会の資料からも明らかになっています。当然ですが、その降下した放射性物質は土壌に吸収され、農作物などを通じて私たちの体内に取り込まれる、そういうことが今でも起こっている可能性がある。にもかかわらず、それに対する分析や事実解明は、いまだ行われていません。
たまたま知った僕までが「もうやめよう」と放り出してしまったら、この事実は誰にも知られないままになってしまう。そして、僕がこの取材を初めてからでも、すでにチェルノブイリの事故が起こり、福島第一原発事故が起こり、放射能汚染は続いています。僕らの子どもや孫、その先の世代のために、どこかでこれを止める責任が、僕たちにはあると思うんです。
マグロ漁船の乗組員だった父親を亡くした川口美砂さん。小学校5年生の時、朝起きると父親が布団の中で亡くなっていたという。映画『放射線を浴びたX年後2』より
──映画を見て非常に衝撃的だったのが、多くの漁船の被曝も、マグロが放射能に汚染されていたことも、その当時は新聞などでも何度も報道され、広く知られていた事実だったということです。それなのに、なぜここまで私たちはそれに対して無知なのか。来年で福島第一原発事故から10年が経ちますが、もしかしてあの事故に対しても、私たちはそのうち同じように「忘れて」しまうのかと、不安になりました。
伊東 すでに、多くの人は福島に対して関心が薄れてますよね。メディアもほとんど触れなくて。
第五福竜丸のことが報道されたのが1954年で、東京オリンピックがちょうどその10年後の1964年なんですね。実は、その前年の63年は高濃度放射性物質が日本列島に降り注いだピークの年で、そのことが報道されて、カッパや傘が売り切れる、ガイガーカウンターも足りなくなるなどの大パニックが起こっていました。それが、オリンピックが開催されるあたりから「もうそんなマイナスの話はやめましょう」「空気を読みましょう」というような雰囲気が出てきて、一気に忘却が進んでいったようです。
それで、福島第一原発事故が2011年で、東京オリンピックが1年延期になって2021年、やっぱりちょうど10年後です。まあ、本当にオリンピックが開催されるかどうかは別にして、ぴったり符合しているのがなんだか怖いですよね。多分、来年の2月末くらいから「復興する福島」「津波や原発で傷ついた家族が、こんなに笑顔で未来に向かっている」みたいな報道が増えてくるでしょう。それらの報道によって、人々は、10年でひと段落したような気になってしまう。その後、福島で起こったことは記憶から消えていくのだろうと思います。
──核実験による被曝も福島の事故も、政府にとっても「忘れさせた」ほうが補償などをしなくていいから都合がいいのはもちろんですが、人々のほうにも「忘れたい」という気持ちがどこかにあるように思います。
伊東 あるでしょうね。やっぱり、嫌なことはみんな忘れたいですから。でも、いくら見たくないからといって目をそらして暮らしていても、放射能はなくならずにそこにあって、着々と人体に影響を与えていきます。もちろん、特に福島をはじめ東日本で暮らす人にとっては、忘れないと生きていけないという部分もあるでしょうが、過去をきちんと見つめなくては、また同じことが起こるかもしれない。そのことは考えておかなくてはならないと思います。
その意味で、この10年近く各地で自主的に放射能汚染を測定し、記録を続けている人たちがいることは、一つの希望かもしれません。それは、かつての核実験のときとは大きく違う点ですね。
アメリカで『X年後3』の上映を
──さて、現在は映画の第3弾の制作に向けてクラウドファンディングを実施中ですね。どのような内容になる予定ですか。
伊東 今年5月に日本テレビで放送した「クリスマスソング」というドキュメンタリー番組をベースにしようと考えています。イギリスが行った核実験によって被曝した漁師たち、そしてイギリスの「アトミックソルジャー」──核実験に参加させられた元兵士たちの姿を描いた番組です。
これまで、ずっと漁師さんたちの話ばかりを聞いてきたので、いわば「加害者側」である兵士たちの話を聞きたいというのはずっと以前から考えていました。でも、話を聞いてみると、彼らもまたモルモットにされ、被曝「させられた」人たちなんですよね。科学者や上官たちが防護服を着て、コンクリートの防護壁の中から核実験を見守っている一方、彼らは漁師と同じような、裸に近い格好でキノコ雲を見させられたんです。兵士たちは爆発するとき、手のひらで目を覆うことを命じられます。しかし、爆発の瞬間、自分の手の骨が透けて見えたと何人もの元兵士が語りました。相当な被曝ですよね。
核実験に関わったイギリス軍兵士(多くが10代から20代の若者)。「NNNドキュメント’20 クリスマスソング」より
──『X年後3』は、アメリカでの上映を目指しておられるそうですが、それはなぜですか?
伊東 実は、アメリカの国土というのは、核兵器開発の過程で日本以上に強烈に放射能汚染されています。南太平洋での核実験による放射性降下物も、偏西風の影響で日本よりも早く、大量に到達していたんです。
しかも、アメリカ政府はその事実を認識しながら、国民に知らせないまま実験を継続していました。そのことを示すデータが、核実験を所管したアメリカ原子力委員会作成の資料から見つかっています。それをアメリカ国民が知ったらどんな反応を示すのか。核兵器と引き替えに、自分自身や家族、友人、みんなが健康を差し出させられていたということについて、あなたたちはこのまま黙っているのですか、と問いかけたいと思ったんです。
もちろん「そんなのしょうがないよ、国を守るためだし」という人もいるかもしれません。だけど、「そんなこと知らなかった、おかしいよ」と声をあげる人がいれば、そこから大きなうねりが作られていく可能性もある。
数年前、ニューヨークで『X年後』の上映会をしたとき、ちょうど高校生が銃規制を求めるデモをやっているのを見て、「すごいな」と思いました。日本では全国300カ所で上映会をやっても、ムーブメントを作り出すことはできなかったけれど、そうしてはっきりと意思表示をするアメリカの人たちの姿に希望があるような気がしたんです。
実は、アメリカにはすでに前例があります。第二次世界大戦中の「マンハッタン計画」において、プルトニウムの人体への影響を調べるための人体実験が行われていたことを、1980年代にある小さな新聞社の記者が突き止め、報道しました。それによって大きく世論が動き、1990年代にクリントン大統領は調査委員会を発足させ、最終的には国民に対して謝罪することにまでなった。核実験による放射能汚染の問題は全国民が被害者ですし、火が付けばむしろあのとき以上に大きく世論が動く可能性はあるんじゃないか。その「火が付く」ところまでは何とかやりとげたい、と思っているんです。
核実験の様子を証言する元イギリス軍兵士。「NNNドキュメント’20 クリスマスソング」より
──アメリカで大きな動きになれば、それが日本に波及してくる可能性もありますね。求めるのは、政府による補償ですか。
伊東 それももちろんありますが、一番重要なのは「これ以上の放射能汚染を防ぐこと」です。取材を始めた当初は、被曝してそのことも知らされないまま亡くなっていった漁師たちの「仇討ち」をしたい、という思いが強かったのですが、それだけでは対立や拒絶しか生まれなくて、何も前に進んでいかない。それよりも、今の時代を生きている僕たちが未来にどんな地球を残せるのか。そのことを、みんなで考えることが一番大事だと感じるようになりました。過去の問題の解決も、そこからしか始まらないんじゃないかと思っています。
(構成/仲藤里美)
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いとう・ひであき●1960年愛媛県生まれ。1990年代から映像制作を開始し、ベルリンビデオフェスト、バンクーバー国際映画祭、イギリス短編映画祭などで招待上映される。2000年にテレビの世界に転じ、ドキュメンタリーを中心とした番組制作を行う。2004年から太平洋マグロ漁場で行われた核実験による被ばく事件の取材を開始し、番組制作を行ってきた。2012年、映画『放射線を浴びたX年後』を全国劇場公開。上映は国内外300カ所に及び、2015年には映画『放射線を浴びたX年後2』を劇場公開。一連のテレビ・映画作品で地方の時代映像祭グランプリ、石橋湛山早稲田ジャーナリズム大賞、ギャラクシー賞大賞、日本民間放送連盟賞最優秀賞、放送文化基金賞、日本記者クラブ賞特別賞、第86回キネマ旬報ベストテンなどを受賞。