伊藤真さんに聞いた(その1):日本学術会議問題に見える、政権の「憲法軽視」

2020年10月に発覚した、「日本学術会議」の会員任命拒否問題。批判の声に対し、菅首相は「学問の自由の侵害にはあたらない、問題はない」との主張を繰り返し、その根拠として憲法の条文を持ち出しました。この問題を憲法に照らし合わせたとき、見えてくることは何か? 「憲法の伝道師」としておなじみ伊藤真先生にお話をうかがいました。

憲法15条は、任命拒否正当化の根拠にはならない

──今回は、前安倍政権、そして現在の菅政権について、「憲法」の観点から見たお話をお聞かせいただきたいと思います。
 まず、菅政権が成立してすぐの2020年10月1日に、内閣府の特別機関である日本学術会議の新会員について、学術会議が推薦した候補のうち6名を菅首相が任命拒否したことが報道され、問題化しました。政府は公務員の選定・罷免について定めた憲法15条などを持ち出し、「問題はない」と主張しましたが、これをどうご覧になっていましたか。

伊藤 まず感じたのは、菅政権は前政権の憲法に関する意識、考え方をそのまま受け継いでいるのではないかということです。
 安倍政権下では、たとえば「あいちトリエンナーレ」の問題がありました。企画展の一つである「表現の不自由展・その後」で、元「従軍慰安婦」の女性をモチーフにした「平和の少女像」などに抗議の声が寄せられたことから、展示は一時中止に。文化庁は、すでに交付が決定していたはずの補助金を不交付にすると表明しました(後に減額して交付)。
 この問題や学術会議の問題に共通するのは、学問や文化芸術の内容を政府が一定の方向へコントロールしようとする姿勢です。それは、学問や文化芸術を憲法が保障することの意味を理解していないということ。言い換えれば、憲法そのもの、そして人間が積み重ねてきた歴史の営みへの敬意をまったく欠いているということでもあると思います。
 たとえば、菅政権が正当化の根拠として持ち出してきた憲法15条について見てみましょう。

──憲法15条1項には「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とあります。学術会議会員は特別職の国家公務員であり、だから今回の措置には問題がないんだ、というのが政権の主張でした。

伊藤 その主張は、15条1項の条文がなぜ生まれたのか、何のための規定なのかという理解をまったく欠いていると思います。公務員の選定は「国民固有の権利」という字面だけを読んで、「だから国民の代表である国会議員によって選ばれた総理大臣が、どのように選定罷免を決めても問題はない」と言いたいのでしょうが、それは大きな間違いです。
 重要なのは、この条文はあくまでも、戦前の天皇主権から戦後の国民主権に代わった、そのときにつくられたものだということです。つまり、戦前においては、官僚は主権者である天皇から選任されて、その手足となって働く存在だった。正統性の根拠がすべて、主権者である天皇にあったわけです。それが戦後、主権者が国民に代わったことによって、公務員の権力行使の正統性の根拠は国民にあり、公務員は国民全体の奉仕者であるとされた。だから主権者である国民が選定罷免の権利も持っているんですよ、ということを言っているのが15条なのです。
 いわば、国民主権という抽象的理念の宣言なわけですね。これを根拠に、総理大臣に具体的な公務員の選定罷免権があるなどと言い出してしまったら、裁判官などについても同様に言えてしまうことになって、まったくナンセンスです。

人権規定を、国家権力の拡大に利用する危険性

伊藤 そしてもう一つ、15条を学術会議問題の正当化に利用することには大きな問題点があります。
 15条は、国民の権利を定めた人権規定の一つです。憲法の人権規定というのは、国家権力を制限するためにこそ存在する条文であって、それを根拠に国家権力の権限拡大を主張するというのは本末転倒、憲法の条文の使い方として間違っているとしか言いようがありません。
 なぜなら、「国民の人権」を理由にした政府の権限拡大を認めると、歯止めがきかなくなるからです。

──権力が何をやっても「人権を守るためだから……」といって正当化されてしまうということでしょうか。

伊藤 そのとおりです。たとえばどんな戦争でも、国民の自由や幸福追求のためだから、ということで正当化されてしまう。「石油が入ってこなくなったら、食料が入ってこなくなったら、国民の生存権や幸福追求権が害されますよね、だから私たちは皆さんを守るために戦うんです」ということになるかもしれない。まさに「いつか来た道」です。
 国家である以上、権力行使は重要だし不可欠です。しかし、それが行き過ぎないようブレーキをかけてバランスを取るのが憲法であり人権規定なんです。そのブレーキを、権力行使を拡大するアクセルの役割で使うというのは非常におかしいし、あまりに危険です。
 その意味で、この問題の正当化に15条を持ち出してくること自体が、憲法の存在理由や立憲主義、人権規定の意味を十分理解していないということ。あるいは、むしろそれを無視しよう、破壊しようとしていることの表れだと思います。
 ただ、政権がこうして憲法を権力拡大の趣旨で使うというのは、今回始まったことではなく、安倍政権以前にも行われていたことでもあります。

──どんなことでしょうか。

伊藤 たとえば、1972年に出された政府見解でも、憲法13条を持ち出して必要な自衛の措置として一定の武力行使を肯定しています。また、かつての小泉首相は自衛隊のイラク派遣にあたって、「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」と憲法の前文を引用し、その正統性を主張しました。このように、憲法を権力の抑制手段ではなく、権力行使の拡大根拠として使うということがしばしば行われてきたように思います。
 そして、安倍政権のときの閣議決定による集団的自衛権行使の容認。これも、憲法13条後段に定められた「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」がその根拠として使われていました。こうした発想は、今後もあらゆるところで出てくる可能性があるのではないかと思います。

「学問の自由」を定めた23条はなぜ生まれたか

──もう一つ、任命拒否正当化の根拠として政権が挙げたのが、「学問の自由」を定めた憲法23条です。任命を拒否しても、研究者らの学問の自由を侵害したわけではないから憲法違反にはあたらない、との主張でした。

伊藤 これも、そもそも23条がどういう趣旨でできた条文なのかを考えてみる必要があります。
 保障すべき学問の自由がただ「好きに学問をして、それを発表する」ということであれば、思想・良心の自由を定めた19条、表現の自由を定めた21条で十分であって、あえて23条で「学問の自由は、これを保障する」などと謳わなくてもよいように思えます。それでも、憲法はあえて23条を設けた。それはなぜかといえば、学問の本質、そして日本や世界が歩んできた歴史と関係があるのだと思います。
 つまり、学問というものは分野にかかわらず、どうしても時の多数派や権力の考えと衝突しがちです。既存の価値を否定して真理を探究し、新しい価値を生み出すのが学問ですから、それは当然のことといえます。それゆえに、時の権力からの弾圧や抑圧、干渉を受けやすいんですね。「地動説」を唱えたガリレオ・ガリレイがまさにそうでしょう。

──当時は、地球が回っているのではなく天が動いているのだという「天動説」が常識とされており、ガリレオは宗教裁判にかけられて有罪宣告まで受けていますね。

伊藤 日本にも、滝川事件(※)や天皇機関説事件(※)といった歴史があります。このように、時の権力に抑圧・干渉されやすいという側面があるからこそ、あえて23条が設けられているわけですね。
 さらに、学問にはもう一つ、「権力に利用されやすい」という側面もあります。学問を、押しつぶすのではなくむしろ都合よく利用して、自らの権力維持の下支えにしようとする政治家がしばしば出てくるんですね。
 なにしろ「専門家の意見はこうです」というと、知識のない一般市民を説得しやすい。実は反対の意見を述べている専門家もたくさんいるにもかかわらず、ある一方向の学者の意見ばかりが表に出てくると、それが真実であるかのように思えてきてしまうわけです。それを利用して、政府がさまざまな政策を進めていくということは、これまでにも繰り返し行われてきました。

※滝川事件:1933年、文部省が、京都帝国大学の滝川幸辰教授(刑法学者)の講演や著書の内容が危険思想であるとして問題視、休職処分にした事件。法学部の全教授が抗議して辞表を提出し、学生たちも抗議の声をあげたが処分は覆らず、滝川教授を含め多くの教員が京大を去ることになった

※天皇機関説事件: 1935年、貴族院本会議で、元陸軍中将の菊池武夫議員が、憲法学者の美濃部達吉らの学説「天皇機関説」を、「天皇に対する不敬である」と攻撃した事件。軍部や右翼の圧力もあり、政府は天皇機関説を否定する声明を発表。美濃部博士は公職を追われ、著書も発禁処分となった

──原発行政がまさにそうですね。

伊藤 そうです。「原発は安全です」という専門家の意見だけを根拠にして、それに反対する意見は封じ込めたまま、原発推進が続けられてきたわけです。
 そのように、学問というものは権力に都合よく利用されやすいからこそ、その自由や独立はしっかりと保障されなければならない。だから23条がわざわざ置かれているんだということを、しっかりと理解する必要があります。

「支援はしても管理はしない」──国と学問、文化芸術の関係性とは

伊藤 これは、学問だけではなく文化や芸術にもそのまま当てはまることだと思います。文化芸術も学問と同じく、多数派の価値観に対する異論を唱えたり、一般的ではないものの見方に価値を見出したりすることによって発展・進歩していくものですから、その自由は保障されなくてはなりません。
 さらに、文化芸術というのは人の心を揺さぶるものなので、学問と同じように国家に利用されやすいという側面があります。今年放映されたNHKの『エール』というドラマでも、音楽や絵画といった芸術が戦意高揚のために利用される様が描かれていましたよね。だから、文化芸術の内容には権力は介入すべきではないというのが世界の標準的な考え方になっているのです。
 たとえばドイツ連邦共和国憲法の5条3項には、「芸術及び学問、研究及び教授は、自由である」とあります。それから、イタリア共和国憲法33条も「芸術および科学は自由であり、それらの教育も自由に行われる」。どちらも、芸術と学問を同じ条文の中で、横並びで保障しているわけです。
 ドイツもイタリアも、かつての戦争のときにファシズムが跋扈した国です。特にナチスは、学問や芸術を一般大衆を扇動する上で徹底的に利用しました。そのことへの反省が、この条文には見て取れるように思います。

──日本の憲法には、そうした条文はないのでしょうか。

伊藤 文化芸術についての権利を明確に保障している条文はありません。しかし、生存権を定めた25条には「文化的な」生活、という言葉が出てきますし、文化的、芸術的な活動の自由は、表現の自由を定めた21条で当然保障されていると考えられます。そしてまた、文化的、芸術的な表現をする、あるいはそれを受け取る権利は、13条後段にある幸福追求権に含まれる形で保障されていると考えるべきだと思います。

──ドイツは、このコロナ禍においても、アーティストへの経済保障など積極的な文化芸術支援を行ったことが話題になりましたね。

伊藤 学問や文化芸術の内容に介入しないということは、財政的な支援をしないということではありません。昔から学問や文化芸術にはパトロンがつきものでしたし、現代でも公の財政支援なしに学問や文化芸術の発展はありえなくなっています。「はい、好きに研究や活動をしてね」と放り出すだけでは、学問や文化芸術の実質的な保障にはならないわけです。
 ただ、そのときに、経済的な支援をするということが、内容に口を出したり管理したりすることにつながってはならない。今回のコロナ禍において、ドイツで非常に充実した文化芸術支援が行われたことについて、ドイツ在住のある日本人の翻訳者・演劇研究者が〈「ドイツ/ベルリンの文化芸術支援は素晴らしい」と語ることが、「文化芸術は国家/首都に保護/管理されるもの」と考えることにつながってはならない〉と書いているのを読んだのですが、まさにそのとおりだと思います。

──あいちトリエンナーレの問題でも、また今回の学術会議の問題でも、「税金を使っているのだから、国が内容に口を出すのは当然」というような声が一部で聞かれました。

伊藤 そんな道理が通るのであれば、そもそも23条の意味自体がなくなります。支援はしても統制、管理はしない。分かりやすく言えば「金は出すけど口は出さない」というのが、文化芸術や学問に対する国家の正しい対応の仕方だと思います。
 組織というものは、反対意見に耳を傾けなければ健全な運営はできません。最近でも、会社法改正で上場企業などには社外取締役を置くことが義務化されましたが、その目的は、代表取締役のイエスマンではなく、外部の目線から耳の痛いことを言う存在を、あえて取締役会の中に置くこと。そうでなければ、取締役会が正常な機能を果たすことができないという発想なわけです。
 国家も同じで、健全な国家運営のためには、常に政府の言うことを聞くわけではない、時には耳の痛いことも言う存在が絶対に必要です。学術会議に求められていたのもまさにそういう役割で、だからこそそこに税金を投入する意義があったのだと思います。その存在意義を、国民みんなで共有する必要性があるのではないでしょうか。
 こう見てくると、今回の問題は研究者の学問の自由が侵害されたとか、そういう問題ですらない。23条の存在意義そのものが問われているということなのだと思います。

学術会議の「任命拒否」は、権力分立の構造をも破壊した

伊藤 あえて「耳の痛いことを言う」存在を置くという発想は、「権力分立」にも通じるものです。日本は三権分立で、国会と内閣と裁判所がお互いに抑制し、牽制し合う、つまりお互いに耳の痛いことを言い合うところにその意味があるわけですね。
 ですから、たとえば裁判所も国会や内閣という政治部門である多数派の意見をただ追認するだけでは存在意義がない。あえて多数派の意見に対して異を唱えるという役割を期待されているわけです。残念ながら、その役割を裁判所が十分に果たせているとは言えないのが日本の現状なのですが……。
 今回の学術会議の問題は、この三権分立の意味をも破壊するものでもあったと考えます。

──どういうことですか?

伊藤 つまり、学術会議の会員任命について定めた日本学術会議法は、国会で制定された法律です。その中では、立法趣旨がもちろん説明されたでしょうし、1983年には当時の中曽根康弘首相が「任命は形式的なものに過ぎない」と国会で答弁しています。その趣旨を、今回内閣が勝手に変えてしまった。「形式的な任命権しかない」ということになっていたのを、実質的な任命権があるがごとく任命拒否してしまったわけですから。国会が行うべき法律改正を内閣がやってしまったのと変わらないといえるでしょう。
 この手法は、今年の春に話題になった検察官の定年延長問題とも非常によく似ています。あのときも、内閣は従来の法律解釈や、検察庁の独立性を守るという検察庁法の趣旨などをまったく無視して、検事長の定年延長を特例として決めてしまいました。

──国会に出された検察庁法改正案は、多くの人の反対の声もあってか成立は見送られましたが、その前の閣議決定で認められた、東京高等検察庁検事長(当時)の黒川弘務氏の定年延長は撤回されませんでした。

伊藤 その時点で、内閣が勝手に立法に手を出して法改正してしまっているのと同じことではないでしょうか。
 さらに、5年前の安全保障法制成立のときの、閣議決定による集団的自衛権の行使容認についても同じことがいえます。集団的自衛権の行使容認は従来、憲法で認められないと解釈されてきたのですから、それを変更するのであれば、本来なら憲法改正の手続きによって行われなくてはなりません。それを閣議決定のみで変更してしまった。本来、主権者国民の意思を問うべきところを、内閣が勝手に強行してしまったわけです。
 このように、三権分立のはずが内閣だけが非常に強く、まるで万能のようになってしまっている。実質的な憲法改正までを内閣が主導で勝手にやってしまう。権力分立という国の根本的な構造、そして立憲主義を破壊するような動きが続いてきていると思います。

──それが学術会議の問題でも露わになったということですね。

伊藤 言い方を変えれば、これは政府が「自分たちがやっていることは常に正しい」と考えていることの表れだと思います。国会での審議を見ていると、政府は争点ずらしばかりでまともな議論をしようとしませんよね。それは、民主主義は、議論によってより正しいことに近づき、自分の過ちを正していくものだという発想がないからではないでしょうか。自分が間違っているかもしれないという謙虚さのかけらもなく、いかに相手を言いくるめるか、論破するかしか考えていないのではないでしょうか。
 でも、「何が正しいかは分からない」というのが、この民主主義の基本です。だからこそ、多様な意見を聞いた上で議論して、よりまともなものを見つけていこうとする。自分たちは正しい、無批判に信じろというのであれば、それは民主主義ではなくて宗教ではないでしょうか。少なくとも、現在の政府の姿は、立憲主義の国、民主主義の国のものであるとはいえないと思います。

(その2)につづきます
※2021年1月6日更新予定

(構成/仲藤里美 写真/マガジン9編集部)

いとう・まこと●伊藤塾塾長、法学館憲法研究所所長。司法試験合格後、真の法律家の育成を目指し、司法試験の受験指導にあたる。日本国憲法の理念を伝える伝道師として、講演・執筆活動を精力的に行う。日弁連憲法問題対策副本部長、安保法制違憲訴訟全国ネットワーク代表代行、弁護士として「1人1票実現運動と裁判」にも取り組む。近著に『安保法制違憲訴訟』(寺井一弘氏との共著、日本評論社)。