前安倍政権における「憲法軽視」が極まったともいえるのが、2015年に多くの反対の声を押し切って強行された新安保法制成立でした。そこには、どんな問題があったのでしょうか。前政権の8年を「憲法」の観点から振り返って見えてくることとは? 憲法9条についての伊藤先生の思いも、改めてお話しいただきました。
新安保法制は、「米軍との一体化」への布石だった
──前回もお話に出ましたが、近年の日本の政治を「憲法」の観点から見るときに、絶対に外せないのが2014年7月の閣議決定による集団的自衛権行使容認と、翌年9月の新安保法制成立だと思います。
伊藤 これは明確に「戦争をするための法律」だったと私は考えています。
政府は、新安保法制の成立によって抑止力を高めて平和と安全を確保するんだと主張しましたが、抑止力の本質は「自分たちには戦争する意思と能力があるぞ」ということを相手に示すことで、相手の攻撃を思い止まらせること。つまり、抑止力とは戦争をすることを前提にした考え方なのですから、抑止力を高めるということは、「戦争をする」ことを認めるのと同義だといえます。
そして、その一番の目的は、自衛隊と米軍との一体化だと思います。元防衛官僚の柳澤協二さんが、こんなことをおっしゃっていました。新安保法制は「米軍を守るための一体化」に向けた法律だった。対して、最近の「敵基地攻撃能力の保有」という議論は、「米軍とともに攻撃をするための一体化」を可能にするものではないか、と。
──「敵基地攻撃能力の保有」については、安倍前首相が退任表明後に「あるべき方策を取りまとめるように」と次期政権に要請するなど、政府与党内における議論が進められています。
伊藤 敵基地攻撃能力の保有というのは、憲法9条の理念に反するのはもちろんですし、日本にとって何の軍事的メリットもなく、むしろアメリカの戦争に巻き込まれるリスクを高めるだけのものです。
そもそも、中国や北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込もうとする可能性はほとんどありません。そのため、敵基地を攻撃することの意味は、アメリカに向けたミサイルが発射される前に敵基地を叩いてしまおうというところにあります。そうすると、敵基地があるとされた相手国から見れば「日本から先制攻撃された」ということになって、日本が攻撃対象になってしまいます。まさに日本が、アメリカのいいように使われるわけです。
そういう方向に進んでいこうとするための布石が、あの新安保法制だった。そのことが、ここに来てより明確になっているように思います。
──新安保法制成立のときよりも、さらに状況が進んできてしまっているということですね。
伊藤 この動きを止めて戦争をしないため、巻き込まれないために、今こそ知恵を絞らなくてはなりません。新安保法制が、国民、市民による多くの反対の声を無視して強行採決されたことを私たちは忘れてはいないと、声を上げ続けていく必要があります。そのため、私もずっと、新安保法制は違憲だということを訴える「安保法制違憲訴訟」に関わり続けています。ただ、これまで7カ所の地方裁判所で判決が出たのですが、いずれも憲法判断には触れることがないままでした。ここでも、裁判所がその役割を果たしているとはとてもいえない状況があります。
「人を殺す」ことを、誰かに負託はできない
伊藤 こうした状況の中で、自分がなぜ「戦争をしない」という憲法9条の精神を大切だと思うようになったのかを、最近改めて思い返すようになりました。実は、私は、高校生くらいまで「日本は独立主権国家なんだから、自前の軍隊を持って自分たちの国を守るのは当然だ」と思っていました。
──そうなんですか。
伊藤 戦争で仮に命を落としたとしても、大義のために命を投げ出すことはかっこいいことだ、と憧れたりしたこともありました。
でも、いろいろと考えているうちに、自分が戦争で死ぬこと自体はあきらめがついても、「相手を殺す」勇気はないと気づきました。戦争の本質は「人を殺す」こと。でも、自分にはそれはできない。じゃあ、軍隊を持つべきだと言いながら、自分自身は軍人になって人を殺す勇気がないというのなら、それは自分が嫌なこと、できないことを結局他人に押しつけているだけじゃないか、あまりに卑怯じゃないかと思ったんです。
そうして考えが行き詰まったときに出合ったのが「戦争をしない」「軍隊を持たない」という憲法9条でした。「この手があったか」と思いました。それが、私の9条への思いの原点なんです。
自衛官が学校を卒業して任官するときに、服務の宣誓をするのですが、そこにはこんな一節があります。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」。
──「国民の負託」……。
伊藤 ということは、国民がそれを託しているということ。日本は国民主権の国ですから、国家の名において戦争をするということは、主権者国民が戦争をさせているということ。もっと言えば、前線に立つ自衛官に国民が「敵を殺せ」と命じているということなんです。
イラクなどの戦地から帰ってきた自衛官に、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状が見られるという話があります。米軍でも、戦場で戦死するよりも、帰国後に自ら命を絶つ人のほうが圧倒的に多くなっている。「人を殺してしまった」という重みは、それほど人を一生、苦しめるのだと思います。
その苦しみを自衛官の若者たちに押しつけること、国民の名、とりわけ私の名で人を殺してきてくれと負託することは、私にはできない。きわめて利己的で情けない理由ではありますが、その思いが私が9条を守りたいと考える原点にあります。なんとなく、勇ましいことを言うほうが強いような風潮が広がりかねない時代だからこそ、その原点を改めて思い出したいと強く感じています。
総理大臣が「改憲」を主張することは許されるのか
──さてもう一つ、前政権と憲法との関わりで気になることがあります。安倍前首相はたびたび「私の内閣で改憲を実現する」といった発言をしてきましたが、憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」には、憲法を尊重し擁護する義務がある、と定めています。総理大臣という立場で「改憲を目指す」と発言すること自体が、この99条違反ではないのか? と思うのですが……。
伊藤 そのとおりだと思います。
国会議員が、憲法改正の発議のための議論の前提として改憲を口にすることは、憲法改正手続きを定めた憲法96条によって許されています。ただそれも、あくまで主権者国民が憲法を変えたいという意思を持っているという前提のもと、代表者としてその声を吸い上げて発言するという形でなければならず、その者の個人的な思想や理念で改憲を主張することは許されません。
通常の政策議論とはそこがまったく異なります。通常の政策は、有権者の考えと異なることを国会で述べたとしても、基本的には問題はありません。しかし改憲に関しては、99条の憲法尊重擁護義務を踏まえると、主権者国民の声と離れた形で、国会議員が自分の個人的な考えとして改憲を述べることは違憲だと思います。
──議員個人や党が「改憲試案」のようなものを作って発表するというのはどうなのでしょうか。
伊藤 それも、国民の声を吸い上げたという形であれば許されるでしょう。国民の中には改憲を望む人ももちろんいるわけですから、その声を代弁して改憲案を作成するということは考えられると思います。ただ、これも総理大臣は別です。総理大臣の立場で「私の内閣において改憲を目指す」などと言うこと自体が明らかに憲法違反だと思います。
憲法自体は、必要があれば変えていいものだとは思います。ただ、その憲法を獲得するためにどれだけの犠牲が払われたのか、どれほどの人類の叡智が積み上げられてきたのか、これまでの歴史を知れば、改憲というのはそう簡単に口に出せるものではないと思います。そこを軽視することは、犠牲になった多くの人々への不敬ですらあるのではないでしょうか。
──最初にもおっしゃっていた、安倍政権、菅政権に共通する「憲法の軽視」ですね。
伊藤 そのとおりです。歴史について、憲法について、無知なのは仕方ないし、私も無知な部分はたくさんあります。でも自らの無知を自覚したなら「もっと知らなくてはいけない」「学ぼう」とする謙虚さは、政治家には絶対に必要なのではないでしょうか。それすらなく、ただ「自分が正しい」と押し通そうとするというのは、誤りだと思うのです。
安倍政権の8年を振り返ると、そうした憲法軽視の姿勢のもとで、日本社会がどんどん変わってきてしまったという感覚があります。それは政権だけが原因ではないけれど、その変化を加速させたことは間違いないだろうという気がするのです。
──たとえば、どんなことでしょうか。
伊藤 たとえば戦争体験の風化、経済発展モデルの崩壊と格差の拡大……。政治不信の広がりもそうですね。政治家がさまざまな問題について、きちんと説明しようとしないし議論すらしようとしない。そのことが「どうせ変わらないんだ」という国民のあきらめを生み出してきてしまった。
それから、分断と対立を煽るような政治家の発言。これは日本だけではなく、アメリカのトランプ大統領などもそうでしたが、議論して意見をすりあわせるのではなく、相手を「敵」と決めつけて、さらに対立を煽っていく、そういうやり方が世の中に蔓延してきた気がします。
そして、外交面では、もはや従属ですらありませんが、対米一体化がさらに進みました。そしてその裏返しに、周辺国である中国や韓国を蔑む一方で「日本スゴイ」と持ち上げるという風潮が広がってきましたよね。
あとは、先ほどもお話しした権力分立や立憲主義の崩壊、忖度や情報隠蔽、改ざんの蔓延……。どれも、安倍政権だけが原因だとは言いませんが、前政権がこうした動きをより強力に推し進めてきたとは言えると思います。その結果、新安保法制や共謀罪、秘密保護法など、国家の根幹を変えてしまうような法律すら、十分議論しないで力で押し通してしまうようなことが何度も行われ、それがこの国のかたちを変えてきてしまったのではないでしょうか。
──そして、今の菅政権もその方向性を受け継いでいる可能性が高い。とすれば、これ以上社会が壊れていかないように、私たちが考えるべきことは何でしょうか。
伊藤 安倍政権に唯一、功績があるとしたら、憲法の存在をより多くの人に意識させてくれた、ある意味では国民を「覚醒」させてくれたことではないかと思っています。集団的自衛権や共謀罪など、一つひとつのテーマは国民にとって不幸なことだったけれど、憲法について考えるきっかけになったことは確かです。
この先も、学術会議の問題、改憲のこと、敵地攻撃論などのさまざまな問題を、憲法的な観点から私たち国民が監視し続けるということ。おかしいと感じることは指摘し続けること。それが何よりも大切なのではないでしょうか。
(構成/仲藤里美 写真/マガジン9編集部)
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いとう・まこと●伊藤塾塾長、法学館憲法研究所所長。司法試験合格後、真の法律家の育成を目指し、司法試験の受験指導にあたる。日本国憲法の理念を伝える伝道師として、講演・執筆活動を精力的に行う。日弁連憲法問題対策副本部長、安保法制違憲訴訟全国ネットワーク代表代行、弁護士として「1人1票実現運動と裁判」にも取り組む。近著に『安保法制違憲訴訟』(寺井一弘氏との共著、日本評論社)。