第167回:老いの繰り言(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 「老いの繰り言」って古い表現だけれど、まあ、「年寄りのボヤキ」ってことです。
 はい、ぼくは年寄りですよ。75歳ですから、いわゆる後期高齢者。このごろは「老いの繰り言」が増えちゃってねえ。
 カミさんも来年は後期の仲間入り。でも老夫婦のボヤキ漫才なんて、面白くもおかしくもない。まあさ、お互いに耳も遠くなってきているから、相手のボヤくのもあまり気にならないけどね。だって、聞き取れていないんだもの。
 そこへ行くと、二階俊博さんなんて、スゴイよね、まさに「お達者倶楽部」だと思うなあ、あのお年でねえ。でもこのごろは、ちょいとヘンなことを口走るなあ。「あれは政治的な観測気球だよ」なんていう人もいるけれど、ホントのところ、ちょいボケが入ってるんじゃないかって思ってるんだ。だって、ぼくより年上だもの。

 しかしねえ、この「後期高齢者」ってヤな言葉だねえ。
 人間の命を、前期だの後期だのと区別できる神経が凄いやな。これもまた、アッタマのいい官僚さんたちが作った言葉なのかい? せめて「高齢者」を「好例者」くらいにしておいてほしかったな。
 「好い生き方を学ばせてもらう例にしましょう」なんてね。
 お、ぼくもまだまだ冴えてるじゃないか。
 ところが新聞を見たら、75歳以上の高齢者の医療費の窓口負担を、これまでの1割から2割に増やす、なんて記事が載っていたね。え、それってぼくのことじゃないの。へっ、それも厳しい話だよねえ。全然、好い例だと思っていないんだな、年寄りのことを。あの世行きの切符は高いぜ、ってか?

 はいはい、それなりに生きてきましたよ、ぼくも。
 なにしろ、ぼくは1945年生まれ。そうですよ、あの敗戦の年に生まれたの。徹底的に負けた戦争を、「終戦」なんて言葉でごまかした、その年に生まれたんだから、生まれた時からお国のゴマカシと付き合ってきたというわけ。
 昭和で言えば20年だね。
 だから、ぼくは「生きる戦後史」と自分のことを呼んでいる。すごいっしょ? この年、1945年生まれって、けっこう素晴らしい人が多いんですよ。いや、ぼくなんかのことじゃないけどさ。
 知り合いでは落合恵子さんや佐高信さん、早野透さんもそうだな。みなさん、錚々たる方々で、少しも老いを感じさせないけど、でも知り合ったころから比べりゃ、そりゃあ、やっぱりねえ(失礼!)。みんな髪は白くなったし、薄くなってきている。でも、口だけはまだまだすごいんだからね。
 それに、あの大女優・吉永小百合さんも同じ年ね。ぼくはずーっと昔、雑誌の編集をやっていた時分、吉永さんにインタビューしたことがあります。これだけは、いまでも自慢なのです、はい。
 アレは「月刊PLAYBOY」誌の取材でしたな。「PLAYBOYインタビュー」ってこの雑誌の目玉記事で、なにしろ、2回に分けてだけれど、計5時間ほどもお付き合いいただいたんですよ、そりゃ、忘れられない。

 え、何の話だっけ?
 最近、やや記憶や思考に乱れが出てきてねえ。自分でも話がどこへ転がるか、よく分からなくなる時があるな。ま、後期高齢に免じてご容赦くださいねえって、これで通せるってのは、ちょいと便利だけどね。
 ああそうそう、「歩く戦後史」ね。えっ、さっきは「生きる戦後史」って言った? いいじゃないよ、その辺りはどっちでも。ま、英語で言えば「Walking Dictionary」ってんだから「歩く戦後史」が正しいのかな。ほら、英語だって分かるんだから、ぼくもまだまだ捨てたもんじゃないでしょ。
 余計な茶々を入れるから、また話がこんがらがっちまったじゃないか。
 えーっとねぇ………。

 そうそう1945年生まれの話だったね。
 ぼくは秋田の片田舎の生まれ。子どものころは、まだあたりにそれなりに戦争の臭いが漂っていたな。
 近所に「防空壕」がまだ残っててね、ここがかくれんぼや秘密基地の遊びにはもってこいだったな。あれが埋められてしまったのはいつだったかなあ? あそこに隠してあったビー玉(ぼくらは「ガラス玉」って呼んでたけどね)や宝物は、知らん間になくなっちゃった。そりゃ泣いたよ、みんな。
 中学3年のときに「60年安保闘争」ってのがあったね。学校の先生たちがなんだかワヤワヤソワソワと落ち着かなかったのは記憶している。
 うちにテレビが入ったのがちょうどそのころ。そっちのほうが「安保」よりも、断然記憶が鮮明だな。
 ぼくらの世代はかなり訛るけど、ぼくらより下の世代はけっこう共通語っての、あれを平気で使えるね。それはテレビのせいだろうな、きっと。
 佐高信さんは山形(酒田)の出身。だから、よく聞いているとけっこう訛っている。ご本人は「訛ってなんかいない」と言うけど、同じ東北だからぼくには分るんだ。
 ぼくはさ、東京に出てきたころ(18歳)は、ほとんど話せなかった。だって、秋田弁がそのまんま出ちゃうんだもの、話せないよ。とくに女の人の前でなんか、もう無口の鈴木くんだった。

 ぼくらの時代は、中卒の少年少女たちが「金の卵」って呼ばれていたね。彼らは15歳で東京へ集団就職で出てきたわけだから、ぼく以上に訛っていただろうな。だってさ、集団就職で上京する子の家がそんなに金持ちなわけがない。多分、テレビなんかない家が多かったんじゃないか。テレビがなきゃ、共通語なんて覚えられるわけもない。だからバカにされて、安い給料でこき使われて、なにが「金の卵」だよ。
 もちろん、頑張っていっぱしの者になった人たちもいただろうけど、あの永山則夫くんのように、下積みから抜け出せず「射殺魔」なんて呼ばれてしまった人もいる。「戦後は終わった」と経済白書が謳いあげたのは1956年だったが、冗談じゃねえべな。永山くんも訛りをバカにされて職を転々としたんだべよ。

 逆に、「集団就職」って言葉を利用して「叩き上げの苦労人」というイメージを作り上げ、首相の座を射止めちゃったのが、残念ながら我が同郷の菅義偉って人だものな。ああ、ヤダヤダ。ウソだで、あの男の「集団就職」は。普通高校卒で大学受験もしたってヤツが、なんで集団就職なんだよ。
 実はさ、永山則夫くんと菅義偉くんは、同じ1948年生まれだ。貧困のどん底で網走から東京へ逃れてきた少年と、秋田の裕福ないちご農家育ちの少年。「集団就職神話」にごまかされちゃダメだってば。

 話があっちゃこっちゃで、もう読む気も失せたかも知れねえけど、ぼくはこれだけ生きてきて、今ほどイヤな世の中はねえなあ、と思うのよ。
 もちろん、コロナの影響は大きいさ。でもね、前の首相の時代から、ぼくの国はとてつもなく崩れ始めたと思うのよ。
 こんな国だって、ぼくの国だよ。「お前だけの国じゃねえ」ってデカい声が飛んできそうだが、いやいや、ここはぼくの国でもあるんだよ。そのぼくの国を、こんなにイヤな国にしちゃったのは、アイツラだからな。

 そんな連中が、この国をもっと壊そうとしている。
 「東京オリンピック」って何だ? ぼくはこれ、最初っからイヤだった。「復興五輪」なんてスローガン、はなっからウソじゃん?
 いまさらだけど、原発事故処理をほったらかしにしといて、アンダーコントロールって世紀のウソを吐きまくって呼び込んだ代物だもの。その極め付きが、あの不気味な「お・も・て・な・し」お姉さん。ポエムさんと結婚しちゃったけど、ああ、イヤだイヤだ。
 それにさ、ニッポンは今も「原子力緊急事態宣言」下にあるんだってこと、みんな忘れてんじゃないの?
 ありゃ、また話が飛んじゃってる?

 いやいや、話は飛んでないよ。オリンピックは止めてくれ! という話だもの。
 五輪を強行したら、本気でこの国は壊れると思うよ。だって、10万人どころじゃない海外からの客を、どうやってチェックするんだ? スーパースプレッダー(めっちゃくちゃに感染を拡大する)の恐れがあるって、WHO(世界保健機関)の権威筋も警告し始めているよ。そうなりゃ、それこそオリンピックどころじゃなくなる。
 「オリンピックを日本の選挙の道具に使って世界を壊す気か!」と世界中から非難されても菅政権は平気なの? いい神経してるよなあ、ホント。

 この国が世界の孤児になることを、ぼくはマジで恐れている。
 「お前んとこがオリンピックをどうしてもやると虚仮(コケ)の一念を変えなかったから、こんなことになったんだ。せっかく収まりかけていたパンデミックをまた広げやがって、ニッポンの馬鹿野郎!」と、世界からミサイルどころか悪口雑言、非難の嵐、批判の巨大台風がぶち込まれたら、日本列島は沈没だよ。

 ニッポン沈没バンザーイ! なんて言葉、聞きたくねーぞ!

 ふーっ、くたびれた。
 老いの繰り言、お・し・ま・い……。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。