第9回:ふくしまからの日記──富岡町・いわき「賠償金を貰った、貰わないで身内同士でも敵同士みたいになってしまった人もいる。それがとても残念」(渡辺一枝)

 6月15・16日の一泊二日の福島行の記録、その2です。1日目は飯舘、南相馬、浪江と回りましたが、2日目の16日は南下して富岡町、そしていわき市へ行きました。富岡町では、前にも話をお聞きした板倉正雄さんに会い、いわき市では水産加工業者さんから話を聞いてきました。

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 6月16日は双葉屋旅館を出てから、富岡町の板倉正雄さんを訪ねました。1時間ほど歓談したのち、いわき市に向かいました。12時に小名浜の「雷鮨」という店で水産加工業者さんと会う約束でした。小名浜での用事を終えて、この日も帰りは常磐線で戻りました。どうやら常磐線の揺れにも体は慣れてきたようで、以前ほど揺れを感じなくなっていました。

6月16日 板倉正雄さんのお話

 板倉さんに届けたいものがあった。車の音を聞いてすぐに、玄関を開けて招じ入れてくれた板倉さんだった。私は勧められた座椅子に座って、持ってきた写真をテーブルに置いた。 渡満した板倉さんが学んでいた、南満州鉄道(満鉄)の技術者を養成する大連の「南満州工業専門学校」の写真だ。
 板倉さんは表情を変えずに、「あんまり覚えてないですねぇ」と言った。
 に話を聞いた時にも、ソ連軍が侵攻してからのこと、牡丹江から奉天への列車での逃避行、奉天の難民収容所から婦女子を警護しながら、引き揚げ船の出る葫蘆島へ列車で移動したこと、そこから日本への船上でのこと、また上陸した博多から故郷へ帰り着くまでのことは細やかに話してくれた。だが、大連の学校生活については殆ど話されなかった。忘れてしまって記憶にないのか、それとも話したくない、あるいは話せないことなのかはわからないが聞けなかった。なぜなのか、私には不思議だった。これまで私が会った満州体験者たちは10人いれば10人が、そこでとても辛い思い出があった人でも、その地を懐かしく語るのだった。けれども板倉さんには、大連に関してそんな感情は微塵もない様だったし、思い出も特に無い様だった。写真を見たら何か思い出すかと思い写真を持っていったのだが、「あまり覚えてないですねぇ」との答えだったのだ。
 そして写真や満州のことは脇において、今思うことを板倉さんは語るのだった。

「終わり方を考えている」

 「90歳すぎると、体調は変わってきますね。1日ごとに、歳だなって思う。来月で93だけど、90過ぎると終わり方を考える様になりました。
 子どもは娘2人で、どちらも遠くに居てコロナで来ることもできない。妻が入所している施設からは、外から来た人と接触したらデイサービスへの出入りは控えてくれと言われている。今は20日間は施設でお世話になって10日間は家で私が世話しているけど、1ヶ月全部を自分一人ではやり切れない。いつもは私はこうして一人で居るが、自分が急にダメになるか、それとも静かにダメになっていくのか考える様になった。
 90年も生きると、人生は自分の意思に反することばかりになって、一番影響を受けたのは戦争ですね。地球上はいつ何が起きるか判らない。戦争だって、赤紙が来て無理無理連れていかれた。それは、もしかしたら帰って来られないかも知れないことなのに、周りに大勢集まって『万歳』して送り出した。そういう時代だった。
 今のお葬式のやり方ね、盛大にやる人は世間体が自慢なのね。いま私が考える命の終わり方と、戦争の頃の命の終わりに臨む一人の個人の考え方の矛盾を思う。個人としての受け止め方と、国民としての受け止め方が全然違う。90年生きて考え方は常に変わってきて、丸く元に戻って終わるんだと思う。私に何かあっても、子どもたちが来るか来ないか、来れるか来れないか、認知症の婆さんを一人置いていくと、その後どうなるのか…。もっと前向きな希望的なことを考えようと思っても、ついそこへ考えがいってしまう。人が集まるところへは金銭が伴う。葬式に人が集まり金銭が絡むと、負担が残る。だったら、それを受けなければいい。個人葬、家族葬が理想だ。私はなるべく静かにいくことを望んでます」

勉学への強い願い

 板倉さんの言葉を聞いて私は、赤紙を受け取って「万歳」の声で送り出されていった人の死を思った。看取る人もなく独り野辺で死んでいった人を。下に妹が4人いて長男の板倉さんはただ一人の男の子、お父さんは家を継がせたかったのではないかと聞くと、板倉さんは答えた。
 「本家のお母さんのキミエ伯母さんが、親戚中で一番怖かった。満州へ行くと言ったらキミエ伯母さんに長男を外にやってどうするんだ! と父は怒られた。でも私は学校へ行きたかった。義務教育の小学校を終えて、双葉中学へ行くのは金持ちの子どもだけ、そうでなければ相馬の農業学校に3年間で15歳くらいまで。それ以外は兵役から戻った人が教員となって訓練(軍事教練みたいなこと)をする青年学校しかなかった。そういうところへ行くのは嫌だったので、なんとかして学校へと思っていたとき、高等科2年を卒業するときに、満州にある工業専門学校の募集を知って、それに飛びついた。親には、そんなことをしたらキミエ伯母になんと言われるか、と反対されたが、父を説得して満州へ渡った」
 答えた板倉さんに再度私は、お父さんにとって板倉さんは自慢の息子だったのではないか、その息子がもし上級学校へ行かずに青年学校で軍事教練を受けるとなれば、赤紙が来て戦争に取られると案じたのではないかと尋ねた。
 「父のその不安は私にも見えていました。私は健康だったから(徴兵検査を受けたら)甲種合格になったと思うし、青年学校へ行けば予科練へ行くことになるという情報もあった。勉強がしたいという息子の願いも知っていた。かなり迷っただろうけれど、本家のキミエ伯母さんに文句を言われても、私を満州へ出してくれた。あの当時は、満州は外国という感じではなかった。今は侵略した地だと分かっているが、日本の一部の様に思っていて農家の次男三男が開拓団として渡り、私は南満州鉄道株式会社の大連鉄道技術員養成所の工業専門学校を受験して受かり、入学した。そんな時代だった」

子ども時代

 私は、戦時下の世間の空気の中で勉学への強い欲求を持つ息子を思うお父さんの葛藤を想いながら、板倉さんの子ども時代はどんなだったのかを聞いた。
 「子ども時代で思い出すのは、裕福な家の子どもで吉田ヒロユキという友達がいて、その子はいつも、親に本を買ってもらって読んでいた。私はその子と仲良しになって、彼が読んだ本は全部、借りて読んでいた。
 私は家では風呂焚きが役目だったが、あるとき風呂を焚きながら夢中で本を読んでいて、風呂の火が消えたのに気付かず読み耽っていたら母親に見つかってしまった。母は『なんだ、お前は!』と怒って本を取り上げられてしまった。その時に私は『借りた本を汚してどうするんだ!』って、生まれて初めて母に反抗したのを覚えているよ」
 懐かしく思い出したのか、笑いながら話す板倉さんだった。本の内容は覚えていないが漫画ではなく物語だった。吉田くんが親から買ってもらった本は全部読んだという。
 戦争の時代を生きて苦労をしてきた時代があって、90歳まで生きていることを不思議に思ったりすると、板倉さんは言う。すぐ下の妹はガンで亡くなったが、他の3人の妹は健在で1人は老人ホームに居るが2人は避難先で元気にしていると言った。
 子ども時代を振り返って、貧乏な農家で家では妹たちと遊んだ記憶はなく、隣の家も離れていて遠く、自分で竹馬を作って遊んだくらいかなぁと言う板倉さんだった。

いずれ老人ホームへ

 そんな話をしていると部屋の中に設置した防災無線からアナウンスが流れてきた。「こちらは富岡町役場です」と言い、熱中症に気をつけるようにと喚起する内容だった。「みんなで声を掛け合って、熱中症を予防しましょう。富岡小学校6年生が放送しました」とアナウンスして無線の声は切れた。独居の老人家庭に町からの知らせが、こうして子どもの声で届くのは嬉しいことだろうと思うが、声を掛け合う人が近くにいないのが現状だ。
 自宅の近くに老人ホームができる予定だという。家から歩いて10分ぐらいのところで、来年できるらしい。7月生まれの板倉さんは誕生日が来れば免許更新で、車がないと買い物にも病院に行くにも不便なので、今も毎日車にはエンジンをかけて近くを少し走っている。右を見て、左を見て、左を見ている間に右から来るかもしれないからもう一度右を見て、細心の注意を払って動かしている。老人ホームができたらそこに妻と一緒に入居して、免許証は返上しようと思っている。

満州の思い出

 そこまで話した板倉さんの表情がふうっと緩んで、テーブルに置いた「南満州工業専門学校」の写真を見やって「これを見ると満州を思い出します。懐かしいね。こんなでしたね。自分では思い出さなかったけれど、こういう色でしたね」と写真を掌で何度も撫でた。赤い煉瓦造りの建物の写真で、それは私にも懐かしい色だった。赤い煉瓦に街路樹の緑、敷石道の灰白色が、大連の色としてハルビン生まれの私自身の印象に残っている。当時は満鉄といえばエリートで、満鉄に関係しているのは誇らしいことだった。
 「満州の鉄道は(内地と)線路の幅が違っていてね。鉄道関係の技術を勉強するのが、私が行った工業専門学校だった。学校の建物の色はこういう感じでしたね。満鉄=満州、満州=満鉄で、全てが満鉄優先で、農業関係は開拓団だったが、満鉄(の影響力)は鉄道だけでなく工業関係全てにわたっていた。
 侵略しているなんて、当時は思いもしなかった。北海道や九州みたいな感覚で受け止めていた。あの頃の中国国民党軍の蒋介石は、日本がこれだけ手をかけて作り上げた満州だから、いま日本に抗して満州を取り戻そうとするよりは、国内の自軍の力を温存し強めた方が良いと考えたのではないか(終戦前の中国は、蒋介石率いる国民党軍と毛沢東の共産軍が拮抗していたが、やがて両軍は手を結び日本に抗戦するようになった)。日本が形勢不利になってきた時ソ連軍が入ってきて、満州で日本が築いた工業関係の物を全部ソ連に運んでいった。
 (ソ連軍侵攻の報が入った後)牡丹江から奉天に向かう列車にいた時に、逆方向に走る列車とすれ違った。その時に見た光景が忘れられずに脳裏に残っている。反対側の列車の後部にはソ連兵が銃を構えていた。線路の脇に両手を広げて、日本兵が横たわっていた。多分逃げようとして列車から飛び降りたところを、ソ連兵に見つかって狙撃されたのだと思う。その人の家族には、死亡届はどのように伝えられたのか、おそらくシベリアに抑留されてそこで死んだと伝えられているのではないだろうか」

帰国

 敗戦翌年の9月、帰国する難民の護衛役として乗ったという奉天から葫蘆島への列車では、問題は起きず無事に葫蘆島へ辿り着けたのか尋ねた。引き揚げの列車は一度に大勢を運べるように無蓋車が使われた。途中で時々停車したが、その時に大小便をしたくて降りたまま、列車に乗り遅れて置いて行かれた人も居たと聞いたことがあったからだ。そう尋ねると板倉さんは、そういうことはあったかもしれないが、自分の乗っていた列車では気が付かなかったと言った。
 葫蘆島から船で博多に着いた時、これでようやく解放されて家に帰れると思ったと、淡々とした口調で板倉さんは言った。汽車を乗り継いで浪江駅に着き、そこからバスで室原に向かい、停留所で降りて家に向かって歩いて行った。もう夕方だった。隣の家の前まで来た時に、その家のおじさんが板倉さんの姿を認めて、「正雄! お前帰ったのか!」と言うなり駆け出し、隣の板倉家に板倉さんの帰国を知らせた。家に帰り着いた時には、両親、お祖母さん、4人の妹、全員が外に出て迎えてくれたと、これもまた、淡々と言う板倉さんだった。

帰ってきた故郷は

 「そうやって自分の故郷に帰ってきましたが、浪江町のその故郷は原発事故で今は更地になっている。私が生きてきた90年の間に、こんなことがあって、全てを壊されて何も無くなってしまった。
 でも、前にも言いましたが、ある朝気がついたら、家の前にあった学校が解体されて無くなってしまって、あそこから上がる綺麗な太陽があった。私が生まれる前から太陽はあそこにあったのに、90年間も気が付かないで生きてきていた。毎日、太陽に『ありがとう』と言って生きている。
 だから今は考えが変わって、なんでも会話できるんだと思っている。前にも話しましたが、あそこの椿が咲いて、あのツツジの木は100年以上経っているけれど、そのツツジの周りに赤い椿の花をまぁるく並べて置いてやった。そしたらあのツツジは、もう花は一回全部咲き終わったのに、また咲いたんですよ。ああ、そうか、花は会話しているんだと思った。綺麗に赤い花の輪を作って貰ったから、ツツジはもう一度頑張って咲こうと思って咲いた。そんな会話をしているんだ、花が会話をしているんだ、そんな会話が成り立つんだと思った。
 それでも、いずれ終わりが来るんだと思うと、ふと寂しくなる。どう終わったら良いのかと考えます。私も終わりが近いので。
 いま一番の理想は、盛大なお葬式はやって欲しくない。葬式をやることによって、その人は人生で何をやってきたかを示している。でも喪主はお返しをしなければならず、葬式が盛大であればあるほど、すごい負担になる。新聞には訃報欄があるが、私は娘たちに言って訃報欄には載せないでと頼む。白骨になる父親は盛大な葬式をして貰うより、遺族に負担をかけないのが一番良い。娘たちには、そう話している。90年の人生で大勢の人に触れたけれど、最後は一人で終わる。お骨になった私を墓に運んでくれる人たちが、幸せに暮らしてくれることが一番の願いだ」
 板倉さんは、静かに笑んでそういった。

 それからまだ、しばらく私たちはテーブルを挟んで座っていたが、板倉さんは家の近くにある前方後円墳のことや、磐城にはなぜ「猪狩」姓が多いのかを話してくれ、その土地土地の歴史を知るのは面白いと言い、富岡町の高津戸は信州上伊那郡高遠藩からの人が流れて住み着いたらしいとか、「たかつと」が訛って「たかっと」となり、大根おろしのことを「たかっとおろし」と言うのは、辛味の強い信州の大根からの繋がりでそう呼ばれるようになったなどと話は尽きないのだったが、私は次に行く予定があったので後ろ髪引かれながら失礼をした。
 玄関を出てみると、ひと月前に板倉さんがツツジの周りに置いた赤い椿の花がもうすっかり茶色になってそこにあり、板倉さんが言ったようにツツジはまた花開いていた。

板倉さんがまるく円を描いて置いた椿の花はすっかり茶色くなっていたが、ツツジの花は満開だった

6月16日 小名浜で

 富岡・夜ノ森の板倉さんの家を出て、高速道でいわき市の小名浜に向かった。夜ノ森から高速の入り口に行く途中で、板倉さんが話していた前方後円墳を探したが、ソーラーパネルの張り巡らされた中に在る緑の小さなこんもりした場が、そうなのかなと思った。

4月、塩雄司さんとの再会

 塩(しお)雄司さんから電話があったのは4月半ばで、福島に出かけようとしていた3日前だった。いわき市で水産加工会社を経営している塩さんとは、原発事故とは全く関わりなく以前からの知り合いだったが、このところずっとご無沙汰をしていて、最後に会ったのが8年前だった。4月の私の福島行では1日目に浪江町、楢葉町、富岡町を周り、いわき市湯本の古滝屋に宿泊する予定だった。そんなタイミングで8年ぶりに塩さんからの連絡があったのに驚きながら、湯本で一泊する予定を伝え翌日に会う約束をした。塩さんは原発の汚染水の海洋放出についてどう考えているのかを聞きたかったからだ。
 その日は久しぶりの再会だったので近況を報告しあい、共通の友人のことで話が盛り上がった。相変わらず元気で威勢の良い塩さんだった。汚染水放出について考えを聞きたいと言うと、「そりゃぁ反対だよ。水産加工業組合の組合長を紹介しようか」と言われてお願いをした。その日、塩さんが昼食を奢ってくれた店は新開発地の一角にあるステーキ店で、辺りは高級住宅が建ち並んでいた。私はベジタリアンではないが、日頃はほとんど肉は食べないのでお腹が一杯になりながらご馳走になったお礼を言って、店を出て駐車場に向かった時だった。塩さんが道路の向こうに並ぶ住宅を見て、ふと言った。「新しく越してきた人たちの家です。みんな賠償金を貰った人たちです」
 塩さんの口調には差別もやっかみも微塵も感じられず、単に事実を言っただけのようだったのだが、その言説に以前から聞いていた「被災地住民の分断」を如実に感じた。避難指示区域から、多くの避難者がいわき市に逃れた。流入してきた人たちで一挙に人が増えたために、病院の予約が取れない、アパートや住宅を借りようと思っても被災者が多いので需要が追い付かず結婚したのに新居を求められない、スーパーが混み合っている、交通渋滞などと様々に問題が生じているらしい。原発事故後に国や東電が、被災者・被災地の救援の方策をとるよりも前にまず手をつけたのが、同心円状に線引きした内側への賠償金のことだった。お金は、人の心を容易に壊してしまう。「被災者は朝からパチンコ屋に入り浸りだ」「外車の新車を乗り回してる」などの噂を聞くことがよくあった。外車の件は実際に私が見たのではないから真偽は判らないが、充分に有り得ることだと思う。そして、眉を顰める気持ちもとてもよくわかる。もし私がそこに住んでいたなら、同じように非難するかもしれない。でも一方では、家や先祖伝来の土地・仕事・培ってきた繋がりなど全てを喪って、思い描いていた未来も断ち切られた時に手にした大金…人生を狂わされてしまうこともあるのではないだろうか。どちらの人たちも同じ原発事故の被害者なのに、賠償金が気持ちを離反させてしまった。
 「新しく越してきた人たちの家です」と塩さんが言った家々はどの家も意匠を凝らした造りで、外観しかわからないがきっと内での暮らしは便利で快適なことだろう。だが、そこに住む人の思いは、どうだろう。被災前に住んでいた故郷の家は、隙間風が吹き抜ける古くて不便な家だったけれど、その家こそが我が家だったのではないだろうか。

「トシ坊」こと小野さんの話

 4月に塩さんに会った時に「今度はトシ坊を紹介しますよ。前の組合長が降りた時に、私はトシ坊に『トシ坊、頼むよ』って言って、やらせたんですよ。私は彼の親父さんと古くからの友達で小さい時から彼を知ってるものだから、トシ坊って呼んでるんですがね」と言っていた、トシ坊こと小野利仁さんに会った。
 塩さんに名前を聞いていた時からそう思ってはいたが、やはり「坊」呼ばわりするようなお年頃では全くなくて、私よりも一回りかそれよりも尚少し若いかと思われる方だった。
 頂いた2枚の名刺の1枚は、ご自分が代表取締役を務める水産会社の名刺、もう1枚には「小名浜水産加工業組合 代表理事組合長」と記されていた。
 この日も昼食を頂きながら、汚染水の海洋放水についてどう考えていらっしゃるのかをお聞きした。
 「基本的には、みんな反対しています。誰も賛成はしていません。でも立場によって、少しずつ違うんですよね。漁業者さんや我々のような加工業者、また魚屋さんなど販売者でも違うし、地区によっても微妙に違うんですよね。科学的な知識がないまま、意見が出てきていたりするし。トリチウムだって外国では流しているようだし…」と小野さんが言ったのを聞いて、今野さんがすかさず言った。「いや、騙されちゃいけません。トリチウムは危険ですよ。他の核種もあるし」。小野さんもそれに応えて「そう、他にも核種が除かれないで含んでるというしねぇ…」 。
 この日はメモも取れずテープもまわせずに他の話も交えながらだったので、後日に改めて電話で取材をした。電話で詳しく聞いたことは後述するが、この日に話してくれたことで、胸に刻まれたことがある。
 「一番残念なのは、県民の気持ちが分断されてしまったことです。住んでいた地域や条件が違うことで賠償金を貰った、貰わないで身内同士でも敵同士みたいになってしまった人もいる。それがとても残念です」
 小野さんの思いが、痛く胸に響く。これは小野さん一人の思いではなく福島の人たち、被災地の人たち、被災当事者たち全ての思いだろう。また、それを知る私たちの痛みでもある。
 こんなふうに地域の人々の心を切り裂いた原発事故が憎い。原発は、建設計画が持ち上がった時から既に地域住民を分断するが、事故を起こせば分断は可視化されて、誰もが苦しみ苛まれる。賠償金では決して解決できない被害を、賠償金で解決済みにしようとする姿勢が、こうした溝を深くしている。しかも賠償金の査定をするのが事故を起こした東電であることが、なんとも割り切れない。事故の立証責任者が賠償を査定する、それが矛盾を生んでいるのだと小野さんは言う。小野さんの言葉に、私も深く頷く。

国会議員への陳情

 帰宅して1週間後のことだった。6月23日の朝刊の一面に「全国漁業協同組合連合会」の総会で「福島第一原子力発電所事故に伴うALPS処理水の海洋放出に断固反対する特別決議」がなされたと報じる記事が載った。その新聞記事を読んで、小野さんに電話をかけた。
 小野さんは、改めて汚染水の海洋放出について話してくれた。
 現在、漁業、水産加工業、海産商など水産物に関わる各業種をまとめる組織はないという。また水産加工に関しては各地で組織体系に違いがあり、それによって管轄する省庁も違うので、その縦割り行政によって全漁連(全国漁業協同組合連合会)のように業界として一本化した声明を出すに至らずにいる。
 小野さんが理事を務める小名浜水産加工業協同組合は、茨城県、千葉県、青森県など他県の水産加工業協同組合とともに全国水産加工業協同組合連合会(全水加工連)を組織して水産庁の管轄下にある。しかし、同じ業種でも県内の請戸では海産商協同組合という組織で、水産加工業協同組合ではない。海産商協同組合は他県にもあるが、それらの連合組織は無い。水産加工業協同組合も海産商協同組合も水産庁が管轄しているが、買受人組合は中小企業庁の管轄下にある。このような状況なので、水産加工業には全漁連のように全国的に一本化した大きな組織はない。しかし、水産業界では、全漁連と全水加工連は車の両輪だと称されている。

 また4月に会った時に、事故後の4月に国会議員に陳情に行った時のことも話してくれたのだったが、その時にはよく理解できなかったことを、この日の電話でもう一度お聞きし確認した。
 2011年4月、全水加工連は各地から組合員が上京して国会議員への陳情をした。小野さんが経営する会社は、実は原発事故の少し前に組合から脱退していた。だがこの国会陳情の際に塩さんが小野さんを誘った。いわき市の中之作水産加工業協同組合に属していた塩さんは、「トシ坊」と呼んで目に掛けてきた小野さんが組合を脱退していたことも知っていて、またこの未曾有の事故で打撃を受けた地元の水産業界のためには、「トシ坊」の力が必要だと思ってのことだっただろう。
 この国会議員への陳情は全水加工連として経産省や水産庁に連絡を取り、国会議員へのアポも取ってあった。議員会館で全水加工連の会長と顔を合わせた時に塩さんは会長に、小野さんはその時点では組合員ではなかったが経緯を話して、会長も小野さんが陳情行動を共にすることを了承した。こうして、塩さんと小野さんは自民党の東日本大震災復興加速化本部長だった大島理森(ただもり)議員に会って訴えた。大島議員は青森県の八戸出身で漁業に託す暮らしをよく知っており、また事故後に被災各地の視察もしていたという。
 当時は民主党政権で、この時小野さん達は民主党議員にも連絡を取ったが、あたりはあまり芳しくなかったようだ。小野さんは「大変な時期だったから、よくわからなかったのでしょうね。市民運動などから議員になった人もいますが、自民党は地元から出ていて地元のことをよく知っている人が多いですね。この頃は漁業よりも工業の方に目がいっていて、そっちをどうするかに重きが置かれていたように思います。でも、議員達は我々が思っていないようなところで、現場に足を運んでくれていたんですね。我々は自分のことで精一杯で他に目を向けるゆとりはなかったから気がつかなかったけれど、福島出身の議員は、それなりに足を運んでいたようです。でも、どうしようもなかったのでしょう」と、小野さんは言った。
 そして小野さんは、こうも言った。
 「私個人はALPS処理水の海洋放出には、絶対に反対です。だから今回の全漁連の決議は、我々の業界が意思表明するにあたっても、大きな支えで、背中を押してくれると思っています。でも、繰り返しになりますが、私は絶対放出はすべきでないと思っていますが、では増え続ける汚染水をどうすれば良いのか、今すぐにもそれは考えていかなければならないと思うので、ただただ反対と言っているだけではダメなのだと思っています」
 ただ反対するだけではダメだ、差し迫った問題をどうするかを考えねばダメだという小野さんの言葉は、その通りだと思う。だからこそ、知恵を絞って共に考えようとしているのに、放出しかないような言い草でしゃにむに放出に突き進もうとする政府の方針が許せないのだ。
 小野さんは組合員達に「賠償では先に進めないぞ。体力温存のための賠償だと考えて先を見据えていくように、と言いながら長として頑張ってきたが、賠償金を使い果たして廃業した仲間も多い。旗振りしてきた当事者として責任を感じている」と言った。この漁業者の胸中を、為政者は知るだろうか。組織をまとめる者が引き受ける責任の重さを、為政者は身に染みているだろうか。前政権にも現政権にも、私にはそれが感じられない。
 
 また長文になりました。お読みくださって、ありがとうございます。 

一枝

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。