第3回:ふくしまからの日記②〈前編〉(渡辺一枝)

 3月に訪問した福島県富岡町の板倉正雄さんと、楢葉町の早川篤雄さんを再訪しました。

 前回のコラム(前編後編)は、板倉さんの原発事故後の避難生活と自宅に帰還してからを書きましたが、今回は幼少期のことや青春時代を送った満州での生活、帰国後に営林署勤務に携わり定年を迎えるまで、そして現在の富岡での日常を書きました。
 私自身がハルビン生まれで、長じてから何度も“満州”各地に残留邦人を訪ねる旅を重ねてきたので、満州とそこからの引き揚げの話はことに興味深く、当時のことをもう少し調べてみたく思いました。

 また前回書いた楢葉町の「伝言館」について、早川篤雄さんに開館までの経緯をお聞きしました(※〈後編〉で紹介)。早川さんのお話からは、国や大企業が市民の願いや暮らしを踏み躙って利益追求に走る様が、如実にうかがえました。「歴史に学ぶ」ことの大切さを改めて強く感じ、早川さんの不屈の精神に学び、私もそのように在りたいと思いました。
 なお『裁かれなかった原発神話―福島第二原発訴訟の記録』(松谷彰夫/かもがわ出版)に、早川さんたちの闘いが詳しく書かれています。

 前回コラムをお読みでない方は、あわせてお読みいただけましたら幸いです。

***

今回の行程

 先月お話を聞かせて頂いた板倉正雄さんと、その後に訪ねた「伝言館」の宝鏡寺御住職の早川篤雄さんにお会いしたくて、4月19日に富岡町、楢葉町に行きました。その晩はいわき市の老舗旅館「古滝屋」に泊まりました。古滝屋に設置された「原子力災害考証館」を見学したかったからです。
 この日程で予定を組んでいたら出かける3日前に、いわき市で水産加工業を営んでいる知人のSさんからFacebookの友達申請とメッセージが届きました。汚染水の海洋放水についてSさんの意見を聞けるかもしれないと思い、渡りに船とばかりに「久しぶりに会いましょう」と返事をしたのです。そして19日は板倉さんと早川さんにお会いした後、古滝屋に荷を解きました。
 20日は宿を発つ前に「考証館」を見学し、旅館オーナーの里見喜生(よしお)さんとしばし話に花を咲かせました。後日また改めて、里見さんのお話をゆっくり聞かせていただくつもりです。そして古滝屋を出て、Sさんと待ち合わせの店に行きました。互いの近況や共通の友人のこと、汚染水問題など話しながら、昼食をご馳走になりました。Sさんと別れた後で「いわき放射線市民測定室たらちね」を訪問して、帰路は常磐線を使って帰宅しました。今回もまた、中身の濃い2日間でした。

4月19日(月)板倉正雄さんの話

幼少期

 板倉正雄さんは1928(昭和3)年7月29日に浪江の室原で生まれた。この年、日本は前年に続けて第二次山東出兵をし、国民政府軍と衝突をしている。当時、板倉さんの父親は富岡土木監督署で道路管理の仕事に就いていた。まだ道路舗装がされていない時代だったから、雨で陥没した箇所に砂利を埋めたり、崩れた崖が塞いだ道の土砂を除くような仕事だった。だがいつの間にかその仕事はなくなって、戦争が始まった頃からは山仕事に携わり、植林された国有林の杉の枝打ちなどをしていたという。1931年に柳条湖で満鉄爆破事件が起き、翌1932年、関東軍は錦州を占領、続いてハルビンを占領した。さらに同年、満州国建国宣言をした。板倉さんの幼年期は、そんな時代だった。
 そして1935年4月に、板倉さんは国民学校初等科に入学した。勉強は楽しく、成績も良かった。国民学校初等科の6年を終えて1941年に国民学校高等科2年を卒業したが、しかし、もっと勉強したかった。現在で言えば高校にあたる中等教育機関として双葉町には双葉中学校が、原町には農学校があったが、貧しい家計では経済的に進学は許されないと判っていた。
 ちょうどその頃にはいろいろな人材募集があり、その中に満鉄(南満州鉄道株式会社)が技術者養成学校の学生を募集していることを知った。大連にある「南満州工業専門学校」で、試験に受かれば学費は無料、寄宿舎生活で生活費も一切満鉄が面倒を見てくれるという。板倉さんは父にも家族の誰にも内緒で、試験を受けた。5人きょうだいの長男で下は妹が4人だったから、話せば反対されるだろうと思っていたからだった。内緒で受けた試験は合格した。父に話し、許しを乞うた。「長男を満州にやってしまって、どうするのか?」と、周囲からも散々言われて、父はよくよく思いを巡らせたことだろうが、承諾を得た。当時は「満鉄」と言えば一流の大会社で、そこの工業高校に行くのだからと、渋々認めたのだった。同級生で5人受けた者がいたが、合格したのは板倉さんだけだった。勉強が好きで成績も良かった息子を、父親は誇らしくも思っていたのではなかったかと、私は想像している。

満州へ

 1942年、国民学校高等科を卒業した板倉さんは、勇躍大連に向かった。新潟港から清津港(現在の北朝鮮)へ船で渡り、そこからは列車の旅だった。長白山脈を越え吉林、新京(当時は満州の首都。現在の中国・長春)、奉天(現在の中国・瀋陽)を経て大連に着いた。車中で3泊か4泊しただろうか、大連に着いたのは故郷を出てから10日ほど経っていた。
 当時は日本の統治下にあった大連だが、その以前はロシアの租借地であったから、石畳の広い道路で街路樹はアカシアの並木だった。建物は西欧風建築が多く、そうした環境の違いに目を見張った。宿舎に畳の部屋はなく、寝るのもベッドというように生活様式も変わったが、困ることはなかった。学校では通常の学科の他に、中国語やロシア語の授業もあった。
 当時の大連には多くの日本人が住み、役人や政治家も日本人だったから、日本人は商店主でも学生でも支配階級とみなされていた。街に買い物に出れば満人や中国人と接するので、授業で習う中国語は実践的に役立った。ロシア人も少なからず居て、商店を開いていた。

修学旅行

 勉強は楽しく、学校が休みの日には街に買い物に出かけたり友人と近くへ小旅行に出たりしたが、本を読んで過ごすことも多かった。学校は3年制だったが戦時中でもあり、卒業が繰り上げられることになって、3年生、17歳の夏に修学旅行が実施された。卒業後にはどこに配属されるか分からないので、沿線上の主要地を知っておくことが大事だと思われたから、それら各地を訪ねる旅だった。
 最初の訪問地は、首都の新京だった。皇帝溥儀の宮殿や関東軍司令部があった。司令部の建物は朱塗の柱に瓦屋根の立派な東洋風の建物だった。次に行ったハルビンは、ソ連やデンマークなど、ヨーロッパとの通商の要地だった。大連と共に「東洋のパリ」と並び称され、西欧風の重厚な建物やロシア正教の青い屋根が目についた。ロシア人やユダヤ人、フランス人などの店もあり、国際都市という印象を受けた。松花江の河幅は広く、海のように思えた。
 ハルビンからは牡丹江に向かった。戦時中ではあったが戦況悪化など知る由もなく、卒業後の暮らしや故郷の家族を思いながらの帰路であった。沿線の畑の高粱(コウリャン)が風にカサカサと葉を揺らし、故郷の田園風景とは違う大地の広さを思った。

九死に一生を得る

 しかし牡丹江滞在中に、ソ連軍が国境を越えて侵攻してきたというニュースが飛び込んできた。ここに留まるわけにはいかない。大連に戻ることになった。牡丹江からの列車はそれまでのように客車ではなく、貨物を載せる無蓋車だった。それがいち早く出発できる便だったからだ。
 列車はソ連機の襲来をみると、駅ではない場所でもしばしば停車した。乗ったままで爆撃機に狙われたら、無蓋車だから銃撃から逃れられない。降りて列車の下に身を隠すか、別の場所に隠れられるならそこに逃れるかなのだ。牡丹江を出て少し行き、街が見渡せる小高い場所で停車した。板倉さんは降りて近くの木立の陰に隠れようと走った。大きな木に身を寄せて振り返ると、後にしてきた牡丹江の町は攻撃を受けて火の海だった。さっきまで居た地が紅蓮に燃える様に息を呑んだ時、ソ連機がこちらに向かって機銃掃射してきた。発射された弾は、その木の根元、身を寄せたちょうどその裏側で炸裂し、ズブっという重たい音と共に土埃が舞い上がった。
 もし自分の足元だったら……。息がバクバクし体の力が抜けた。九死に一生を得た瞬間だった。終戦の報はこの避難行の途中で知り、その日から敗戦難民となった。そして列車は奉天で停車し、もうそこから先へは進むこと叶わなかった。

難民生活、そして避難行

 敗戦国難民となり奉天に留まることになったが、食料などは満鉄の備蓄品が回された。当時の満州の他の難民収容所にいた開拓団の人たちよりも、幾らかは条件が恵まれていたかもしれない。奉天で過ごした頃の記憶はあまりないが、敗戦と同時に現地の満人や中国人たちは自分たちを見下げるような態度になったことが記憶に残っている。他には、いつ帰れるのかをただ思うばかりの板倉さんだった。
 日本へ帰国できる知らせがもたらされたのは、敗戦から1年後の1946年秋だった。当時、満州各地には開拓団など多くの日本人居留民がいたが、成人男子は根こそぎ動員で召集されて戦地へ行っており、残っていたのは女性と子どもばかりで、奉天もまた同様だった。板倉さん達30名ほどの学生は、帰国するその婦女子を護衛する役を命ぜられた。一度に列車に乗り込めず何回かに分けて列車は出たが、学生達は一列車に2名ずつくらい割り振られて、護衛にあたりながら帰国の途についた。
 どの車両も人と荷物でいっぱいで身を横たえる隙もなく、乳飲み児を抱えた婦人など気の毒だったが、どうしようもなかった。列車が駅で止まるたびに、奥地からそこまで徒歩でようやく辿り着いたのだろう、疲れ切った様子の人らが窓を開けて、「乗せてくれ」と迫った。どんなに懇願されても乗せてやるゆとりはなく、「だめだ!」と振り切るしかなかった。仕方がなかったこととはいえ、その時のことを思い出すと申し訳なく、今でも切なく辛い。

引き揚げ船

 引き揚げ船の出る葫蘆島まで着いてもすぐに乗船できたわけではなく、順を待った。板倉さんが乗船したのは上陸用舟艇で、接岸すると前部甲板がパカーンと開く陸軍艦艇の一種だったから、船内は大部屋だった。途中で息絶えた子どもがいた。亡骸を日本まで運び帰れず、水葬された。遺体を海洋に投げ、船はその周囲をグルリと周航して弔った。甲板に出て、手を合わせて見送った。
 船は一周した時にその先の航路を誤り、南方に船首を向けてしまっていた。だが途中でそれに気付き方角を正し、そのために入港が10日ほど遅れて福岡県・博多港に入港した。博多に上陸する際に、頭からDDT(殺虫剤)を振りかけられて真っ白になり、それからそれぞれの家路に向かった。

変わりなく在った故郷

 上陸しても家に連絡する手段もないまま列車を乗り継いで常磐線に乗って浪江で降り、当時は福浪線を通るバスがあったからそれに乗った。家に辿り着いたのは夕方だった。途中のことは記憶に無い。家族は皆無事で、突然帰国した板倉さんを、驚き、喜び迎えた。帰国した故郷の風景は、出かけた時と変わりなく見えた。
 そこまで話してくれた板倉さんは、それからこんなふうに言葉を繋いだ。
 「私が帰ってきた時の日本の状態は、もう戦争は終わっていましたから昔とあまり変わらない状態に見えました。私が今、ここで5年苦労して過ごしてきた状態とは全く違うから、ただ見た感じで、平和だなぁという感じしかなかったです。帰った時は、もう既に戦争は終わっていますからね」

 牡丹江の町の火の海が戦争の記憶なら、空襲を受けなかった室原は変わりなく見えたのだろうか。それとも原発事故がもたらした傷の大きさが、板倉さんにそう言わせたのではないかと私は思う。郡山での5年間の避難生活後に戻ってきた富岡は、何もかもが変わってしまっていた。
 私が、「満州から帰国した人の中には、大変な苦労をしてきてはいても彼の地を懐かしく思い出し、『もう一度訪ねてみたい』と言う人がいますが、その気持ちはありますか?」と尋ねたら、「懐かしく思ったり、行ってみたい気持ちはありません。最後の印象の荒れ果てた満州しか記憶にありません」と答える板倉さんだった。これまで私は満州からの帰国者が寒冷地での過酷な暮らしや悲惨な避難行を語りながらも、でも懐かしく、もう一度訪ねたいと言うのを多くの人から聞いてきた。そして実際に訪ねた人たちも少なからず居る。
 この日、板倉さんは満州での暮らしや敗戦難民になってからを語るのに、自身の辛さを一切口にはしなかった。それは前述した板倉さんの話からも理解していただけるだろう。だが私の問いに答えた板倉さんの言葉からまたも私は、先の言葉の裏にあったであろう満州での日々の苦難に想いを馳せたのだった。
 けれど板倉さんは、こうも言った。「ロシア語も中国語も、今でも覚えていますよ。『ズドラーストヴィーチェ』『スパスィーバ』とか『你好(ニィハオ)』『謝謝(シェイシェイ)』とかね。最近になって、また中国語を勉強してみようかと思って、カセットなんか買ったんです」。過ぎた日を生きるのではなく、今を生きる板倉さんを思った。

営林署勤務

 帰国後は週に一、二度、役場の臨時の事務員などの仕事をしていたが、近くに営林署の出先で国有林の管理をする事務官がいて、その仕事を手伝っていた時に林野庁の職員になる試験があるからと勧められて受験して合格し、研修を受けて営林署の職員になった。次に農林技官の試験を受けてそれも受かり、農林技官になった。当時は盗伐も多かったが、見つけた時に捕まえなければならない。捕まえたら犯人を駐在巡査に渡すのではなくて営林署が直接調書を取るので、そのためには司法警察員の資格が必要で、その試験も受けて資格を取った。それで名刺には「司法警察員」という肩書きで「〇〇営林署〇〇担当区事務所主任 板倉正雄」と記された。
 また更に上の資格があって、それは管理職になるための試験だった。それも受かり、営林署の労務係になった。労務係は署長、課長、係長らと一緒に、労働組合との団体交渉をしなければならない。しばらくそこで仕事をやっていたが、父親が倒れたので定年の2年前に退職をした。お父さんの介護を退職の理由に言った板倉さんだが、労組との対立関係も嫌だったのではないかと、私は推察している。
 広野の役場職員だった光子さんと結婚したのは農林技官だった31歳の時で、2年後に長女が生まれた。板倉さんは長男だったから室原の家で両親とともに住んでいたが、次女が生まれて長女があと2年で入学という年に、今住んでいるここ、富岡に家を建てて引っ越した。 ここなら子どもらが学校へ通うようになっても、小・中・高と地元の学校に通えるし、家族が暮らしやすい場所にしたいと思って選んだ富岡だった。
 営林署の仕事は各地へ単身赴任が多く、もしそのまま勤めていたら次の赴任地は前橋になる筈だった。早期退職は、家族で共に暮らしたい願いもあってのことだった。

仏教への興味

 元々読書が好きで本はよく読んでいたが、若い頃から興味があった仏教関係の本も読んだ。親の話では、幼稚園の頃に「お坊さんになりたい」と言っていたことがあったそうだ。それを聞いた親には、「何になりたいと言って、お坊さんになりたいはないだろう」と叱られたことがあったという。そんな幼少期を過ごした板倉さんは、仏像に興味を惹かれ、仏画を描くようになった。仏画は、描き終えてもお坊さんが祈りをあげて開眼供養しなければ、ただの紙切れだ。アトリエにかけてある仏画は開眼供養の済んでいるものもあるが未だのものもある。自分自身が終わりの時に近づいている今、それらをどうしていくかを考えている。
 そう話す板倉さんに、僧籍に入ろうと思ったことはないのか尋ねてみた。
 「私もそこの檀家だが、夜ノ森の紅葉山宝泉寺(真言宗智山派)の老僧に、この寺を継がないかと勧められたことがあり、迷ったけれど断りました。真言宗の仏画師の証明をもらっただけで満足しているし、寺に出入りして手伝いするだけで充分だから。それに、勤めていた時にはいつも単身赴任で家を空けていたから、退職してからは家族と共にいたいと思ったのです」と答えが返った。後悔してはいないと言う。そして、こうも言った。
 「『宗論は、勝っても負けても釈迦の恥』という言葉がありますが、高い山に登るのに道は幾つかあって、どの道を通っても行き着く頂は同じということです。他宗派と争わない、喧嘩を仕掛けられても受けない。私は争いは嫌いです」

 前回の訪問時に、家の前に在った中学校が解体されて更地になったが、そこから昇る太陽に合掌して祈ると言った板倉さんは、今日もこう言った。

 「ここにきて、教えられることがいっぱいある。歳をとって考え方を学ぶことがいっぱいある。あの時苦しかったけど、実際にはその陰にこういうことがあったんだと気が付いたり、人生全てがそういうものなんでしょう。人を恨んだり辱めては、絶対にいけないと思います。毎日の出来事で、そう自分に教え込んでいます。
 汚染水、あれだけ出てしまったということだが、最初は海に流してはいけないと思ったからタンクに溜めたのでしょう。東電も将来どうしようかという気持ちはあった筈だけど、差し当たって今は溜めるのが一番良い方法だと思った結果が、今のこの状態なんでしょう。みんな組織の一員として責任を感じてやっている筈です。放出するのが絶対に最善だとは思っていない筈でしょう。ただ、一瞬たりとも、地球は止まらず動いている。明日に向かって動いている。そうして地球が動くと共に、汚染物を出すものも動いている。そういう動きの中に居る時に、いま自分はどうすればよいか。じっとしては居れないから、みんなで考えて最善の方法を考えていく。お互いに困っていることを出し合って、解り合って考えていく。
 この前、(福島第一原発3号機の)地震計が止まってしまっていたのを責められていますが、こんなものどうでもいいやと思っていたわけではないでしょう。ただ、そうなってしまったのでしょう。いい加減なことをやっている悪党は、居ないでしょう。私らは、海が汚されるのは困る。企業も困っている。漁業者も困っている。みんなそれぞれに、違うふうに困っている。だから、すぐすぐ流すというのではなく、どうすれば良いのかその方法を考えるのに、時間が必要ではないでしょうか。もっと、みんなで良い方法を考えていきましょう、知恵を出し合っていきましょう、としか言えないです」

 話を聴けば聴くほど、板倉さんの口からは深い泉のように考えさせられることが次から次へと湧き出してくるのだった。もっともっとお聴きしたいと思いながら、お暇したのだった。板倉さんは、お暇する私たちを送りながら玄関の外に出て、庭のツツジの木の根元を指して言った。
 「散歩して歩いていると花が咲いている。そこで行き交う人は土地の人なのだけれど全く知らない人で、でも互いに笑顔になる。そうすると私は、これは花=笑顔と結びつけてしまって、花は花なりに役目をしているんだなぁと思うのです。だから私は、そこに椿の木があるんだけど、咲き終えた花が落ちていると、咲いた花が落ちて終わらせてしまうのは申し訳ないように思って、ツツジの木の周りに花を並べて、そこでまた咲かせます。周りにあるものは、草一本にしても、生きて繋がっていると思っています」

 板倉さんが指さしたツツジの木の根元には、真紅の落下椿がまぁるく並べ置かれていた。
 赤い花の円形に、柔らかな春の光が射していた。

丸く並べられた椿の花が、笑っているように見えた

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。