第4回:ふくしまからの日記②〈後編〉(渡辺一枝)

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4月19日(月)早川篤雄さんと「伝言館」

 板倉さんの家を出てから、楢葉町の宝鏡寺に向かいました。先月は山桜を見た山中も、もうすっかり新緑で、車で通り抜けていてさえも体が緑に染まりそう! 4月の半ばとは思えない風景でした。
 宝鏡寺に着くと、伝言館の外で入り口辺りのセメント塗りの作業をしている人たちがいました。伝言館に入りやすいように、段差をなくすための工事のようでした。ご住職は中にいらっしゃると聞いて、中に入りました。書類を前に置いて作業をしていた早川さんにご挨拶をして、早速お話をお聞きしました。先月は挨拶を交わしただけで、伝言館を見学して失礼していたのです。今回は予め連絡をしての訪問でした。

生い立ち

 早川さんは1939(昭和14)年10月16日に、双葉郡竜田村(現:楢葉町)の浄土宗大円山智相院宝鏡寺の長男(弟1人、妹2人)として生まれた。檀家数100戸ほどの小さな山寺だったが、開山は1395年で約600年の歴史を持ち、早川さんで30代目となる。歴史はあっても小さな寺なので住職だけでは生活できず勤めに出る必要があり、父も役所に勤めながら住職をしていた。
 勤め人になっても、葬式や法事があれば仕事を休まなければならない。そんな時に休める仕事は教員しかないと早川さんは考え、東京の大学を出て教員資格を取った。卒業後に楢葉町に戻って教員になり、いわき市の学校で教えていた。
 1971年3月26日に、大熊町に設置された東京電力福島第一原子力発電所が運転を開始した。楢葉町には第二原発設置の動きが出ていて、早川さんもその一人だが、町民の中には原発に不安と疑問を持つ者たちがいた。この頃は全国で、公害が大きな社会問題になっている時期だった。

住民組織の立ち上げ

 1号機の運転がいよいよ始まると、不安が現実になったら大変だということから、仲間達で「公害から楢葉町を守る住民の会」を立ち上げた。1972年2月11日、32歳だった早川さんが会の事務局を担った。結成時の会員は130名ほどにもなり、町内でさまざまに「長」がつくようないわゆる「町の名士」も加わっていた。
 組織としてまず初めにやったのは、専門家を呼んでの勉強会だった。ところがこうした動きを国や東電も察知して、住民組織を潰しにかかってきた。町長から圧力がかかり初代の会長が「一身上の都合で」と言って辞め、町長や町会議員と繋がりのある人たちが次々と抜けていき、残ったのは30人にも満たない数になってしまった。当初、早川さんは原発そのものへの疑問からというよりも、公害を生み出す社会の動きを見てきた中で直感的に、「こんなものを地域開発のためとか、安全とか言って押し付けてくるのはおかしい」と思っていたのだが、組織潰しを体験したことで、やっぱり原発の誘致はおかしいという思いを強くした。

公聴会

 不安が現実になったら将来大変なことになる、住民の不安や疑問を、東電や国・県に対して物申していきたい、それにはまずは公聴会を開かせることが大事だと考えて、公聴会開催を求める署名集めに取り組んだ。その結果5400名の有権者中2200名の署名が集まり、1973年4月23日に当時の通産大臣だった中曽根康弘に渡した。1ヶ月後に公聴会開催の通知が来た。ところが、結果として同年9月18日に福島市で開かれた全国初の公聴会は、町民が要求していた公聴会ではなく、逆に原発の宣伝に利用して建設に手を貸すような、国の実績作りのためのヤラセ公聴会にされてしまった。しかも半年後の1974年4月30日には、第二原発の建設許可が下りてしまった。本当に安全で地域開発に貢献するものなら、なんで住民の不安に応えられないのか、安全神話と二つ束で誤魔化していることになるではないか。

裁判

 こうなれば第二原発を造らせないためには裁判しかないと、提訴することにした。1975年1月7日に浜通りの住民404名が原告となり、「第二原発設置許可取消請求訴訟」を起こした。弁護団長からは、「圧倒的に多数の住民、県民を組織しなければ裁判は勝てない。勝つためには住民組織、県民組織を充実しないとダメだ」と言われていたが、早川さんら働き盛りの世代が中心で、みんな勤めているから組織作りなど簡単にはできない。それでも「原発・火発反対福島連絡会」を結成したが、年に1・2回しか集会を持てず、県民運動を盛り上げることはできなかった。
 結局この裁判は、福島地裁で敗訴、仙台高裁で敗訴、最高裁で敗訴した。

歴史を残そう

 住民も全く判らないうちに、福島第一原発の建設に着手した1967年には第二原発の計画はできていて、1971年3月26日の第一原発運転開始の日の御用新聞「福島民報」は、「新しい電源法、楽しめる相双地区の将来」と報じた。
 1970年代は四大公害裁判があった。イタイイタイ病、四日市喘息、新潟・熊本水俣病の裁判はいずれも、企業と国の責任を認めるものになった。それは非常に深く印象に残っていて、国も東電も安全対策をしないで利益第一にやっているが、いずれは原発も四大公害裁判に続くようになるだろうと思った。それで、原発を宣伝するような記事が載っている新聞などを保管してとって置くようになった。地域住民を騙して札束を見せるようなやり方をしている、そんな証拠を残しておかなければいけない、きっとそれらは後で役に立つだろうと思った。科学技術庁の「エネルギー・アレルギー」のヌードポスターは、町内各部落の掲示板に貼ってあった。展示期間が終わった時に、こっそり外して取っておいた。そのポスターや当時の新聞を、いま伝言館内に展示している。初めから、歴史を残そうと思っていた。

未来へ向ける伝言

 伝言館の前には、黒御影石の伝言の碑が建立されている。そこには、このように文字が刻まれている。

原発悔恨・伝言の碑

電力企業と国家の傲岸に
立ち向かって40年 力及ばず
原発は本性を剥き出し
ふるさとの過去・現在・未来を奪った

人々に伝えたい
感性を研ぎ澄まし
知恵をふりしぼり
力を結び合わせて
不条理に立ち向かう勇気を!
科学と命への限りない愛の力で!

2021年3月11日
早川篤雄
安斎育郎

原発悔恨・伝言の碑

 四大公害裁判の被害者は、命奪われ人生を台無しにされたが、原発が事故を起こした時の被害、人々への影響は一代限りでは終わらない。そのことは、広島・長崎・ビキニの経験で、素人ながら直観できる。そういう思いで、ずっと闘ってきた。それが「立ち向かった40年」だ。この伝言館には、国の原子力政策など、要所要所で自分が気が付いた範囲で取っておいた資料を展示している。いま展示してあるものの何倍もの資料があるので、時々展示を替えていくつもりでいる。四大公害では、企業は住民の不安や被害を無視し、工場の稼働を続けていた。原発も必ず四大公害裁判のような結果になる、間違いないと、原子力のことは判らなくても、ごまかしでやっていることは判る。
 住民の命も考えずに原発誘致を進めた人物の名も、絶対に書き残す。中曽根康弘、正力松太郎、佐藤善一郎、木村守江、彼らの名前は絶対に残してやるからと思い、それを実現した。「伝言館」の名は、こんなことを繰り返してはいけないという意味で、原子力発電の災害は故郷の過去・現在・未来を奪ったと、碑に書いてある通りだ。「過去・現在」以上に「未来を」という、これが問題だ。原子力の後始末は、万年単位。これからの人々で関心を持ち続け、声を上げて行動して欲しい。未来に対する訴え、伝言だ。
 放射能を消す薬の開発は不可能だ。600トン、400トンの溶融燃料を自然放射能に変えるには万年単位の時間が必要だ。セシウム137が10分の1になるのが100年先。浜通りの未来を展望する気持ちを、まやかしの「復興」で誤魔化されないようにしないといけない。

 汚染水を流すなどは、最初の突破口なのだ。あれを科学的に安全、問題ないなどと言って容認すると、燃料デブリの処理などもこの方式でやられる。(大熊町・双葉町の)中間貯蔵施設では放射性廃棄物を貯蔵するのは30年なんて言っているが、反故にするだろう。それが初めから判っているものを法律に書き込んで30年などというが、これほど国民を馬鹿にした話はない。貯蔵そのものは誰が考えたってあそこしかないけれど、「30年」などと出来もしないことを言って誤魔化すべきではない。廃棄物処分についても、明確にすべきだ。

 それから、こういうものに携わる人間。原子力は斜陽産業だから、そんなところに人生を賭ける人間はいなくなる。労働者を国家公務員にしなければダメだ。人類の未来のために原子力研究者、従業者として、国家公務員として生活も健康も保障するのでなければいけない。そういう仕事に携わってくれる志を持った人を育成していかなければならない。そういうことを含めて、浜通りの100年の計について議論をして欲しいという伝言なのだ。

伝言館の外壁。日本の中国・朝鮮半島への侵略時代から原発事故までの資料や写真がずらりと掲げられている

共に歩んだ同志

 1970年代に、住民の不安や疑問について立証してほしいと日本科学者会議にお願いしたら、多くの人が関わってくれた。その一人が安斎育郎さんだ。東大原子力工学第一期生で、科学者としてずっと関わり訴え続けてきてくれている。碑に刻んだ最後の1行は、住民の思いと警告を発し続けてきた科学者の思いを一つにまとめた伝言なのだ。
 福島県出身の農民詩人、草野比佐男の「村の女は眠れない」という詩がある。夫が出稼ぎに行き遠い飯場にいて、女は村に残って子どもの世話と農業に明け暮れる。夜毎、夫への想いが募り眠れない心情を歌った詩で、最後の3行はこう歌っている。

夫が遠い飯場にいる女は眠れない
女が眠れない時代は許せない
許せない時代を許す心情の頽廃はいっそう許せない

 早川さんはこの詩に感動したと言うが、草野がこの詩を書いたのは原発ができる以前のことだ。原発ができて出稼ぎしなくても良くなったが、結局はその原発が地域を壊してしまった。それを直感した早川さんは、最後の1行の後にもう1行、「許せない心情を許せない心情もまた許せない」を加えたいと言う。早川さんの同僚だった吉田信(まこと)も詩を書いていた。同じ職場で共に闘ってきた仲間だったが、1987年にまだ53歳の若さで胆癌で死んだ。彼は、こんなメッセージを残した。

薄明地帯からのメッセージ
――巨大原発施設に怒れるバルカン(火山の神)の鉄槌が一撃を加える日、この華麗な花綵列島にいかなる春が来るというのか。それは『明るい不死の春か』否『沈黙の春』すらない。それは、例えば核の冬に呑み込まれた暗暗たる春には似ても似つかぬものに違いない——

 早逝した仲間の残したメッセージもまた、大切な伝言として早川さんは心に刻む。

原発は原水爆と表裏の関係

 広島に投下されたのはウラン爆弾、長崎はプルトニウム爆弾、そしてビキニ環礁で実験されたのは水素爆弾。なぜ原発をやるのかと言えば、ウランやプルトニウムなど核兵器の製造には原発が必要だからだ。「原子力の平和利用」など、とんでもないまやかしで、原発と原水爆は表裏一体、一連の関係にある。ヒロシマが8月6日、ナガサキが8月9日、ビキニが3月1日、フクシマが3月11日、この四つを一つにしたかった。これらがバラバラにあるのではなく、これらの裏腹の関係を一つにしたかった。
 日本は広島、長崎、ビキニの被害を言い、「核兵器廃絶」と訴えるが、なぜ原爆が落とされたのか。原爆が作られた原因は、日本が昭和に入って侵略戦争を繰り返し1941年12月8日に真珠湾攻撃をした、そこからが始まりなのだ。つまり「広島、長崎、福島」の被害を作ったのは、侵略戦争が始まりなのだということに気がつかなければダメだ。
 3・11後に台湾、ベトナム、朝鮮半島、中国と旅行してきた。韓国の「ナヌムの家」(元日本軍「慰安婦」の女性たちが暮らす施設)を訪問した時には、以前に言葉で読んで知っていたが、従軍慰安婦の部屋の様子などがリアルに展示されているのを見て惨さが胸に迫った。それから平頂山の虐殺現場、ハルビンの731部隊跡に再現された石井四郎(731部隊初代部隊長)の執務室も見てきた。日本軍は、凄いことをやってきた。それがあって、これがあるのだ。それは釈迦の悟り、なぜ人間は死の苦しみがあるのかというと、それは生まれたからなのだという、原因があるから結果があるという、その通りなのだ。日本人もこのことに気がついて欲しい。
 広島、長崎はとんでもない、福島もとんでもない、でもその先を考えるには、過去を反省しないとダメだ。以前に(西ドイツ大統領だった)ヴァイツゼッカーが、過去を振り返らない者は未来を語れないということを言ったが、その通りなのだ。過去を伝えなければならないと思っている。過去を正しく認識しない限り、未来は語れない。
 釈迦の「縁起の法」と同じだ。孔子も同じことを言っている。論語の一節に「これを如何にせん、これを如何にせんと言わざる者は、吾これを如何ともすることなきのみ」とあるし、キリストも同じことを言っている。「求めよ、さらば与えられん。たずねよ、さらば見出されん。門を叩け、さらば開かれん」。釈迦も同じことを言っている。「縁なき衆生は度し難し」。人から言われてやるのではなく自分で気付くことが大事で、気付くきっかけを作りたくての「伝言館」だ。
 自己満足であっても、自分の能力でできることはしなくちゃいけないと思ってやっている。「行動しない良心は、悪に味方する」ということだ。

***

 この日は2時間ほどお話をお聞きしたが、早川さんにお聞きしたいことは、まだまだたくさんある。原発事故後の「いわき訴訟」(福島第一原発事故で避難指示が出された地域の住民らが、東京電力に損害賠償を求めた裁判で、早川さんが原告団長を務めた。福島地裁いわき支部、仙台高裁でそれぞれ東電に賠償を命じる判決が出ている)については、まだ何もお聞きしていない。また、60歳で定年退職してから運営に携わってきた知的障害者のグループホームや就労施設のこともお聞きしたい。また、改めてゆっくりお訪ねするつもりだ。

 この晩は予定通り、いわき市の古滝屋さんに泊まりました。いわき市での報告は、また後ほどに。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。