第8回:ふくしまからの日記──飯舘村・南相馬・浪江「息子ともよく話し合って、赤字を出さないうちに閉じる事にしたよ」(渡辺一枝)

 福島第一原発事故から10年経って、被災地は大きく様変わりしています。
 私がずっと世話になってきた、南相馬市の「ビジネスホテル六角」も営業を閉じました。浪江町では町のシンボル的存在だった浪江小学校の解体が進められています。そして「復興事業」のために小高区の人目につかない辺りの山が削られ、自然破壊が進んでいます。今回は、そんな様子をお伝えします。

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 今回の福島行の目的は、6月15日に南相馬・原町区と小高区、浪江町を周り、16日に富岡町からいわき市に行って小名浜で水産業者さんに会うことだった。宿泊は先月同様に、小高の双葉屋旅館だった。また、考えさせられることの多々ある1泊2日だった。

6月15日(火)飯舘村から南相馬、浪江へ

飯舘村の光景

 福島駅でいつものように今野寿美雄さんにピックアップして貰い、まず最初に向かったのは飯舘村の長谷川健一さんの家。家の前は一面に、ひなげしの花盛り。赤、白、ピンク、風に揺れていた。
 玄関を開けて「こんにちは」と声を掛けるが、何度呼びかけても返答がない。健一さんの携帯も、花子さんの携帯も、呼び出し音が鳴っても出ない。ここは電波が届きにくい場所ではあるけれど。それで上り框にメモを置いて出た。少しして健一さんから電話が入り、用事があって福島市にいるとのことだった。ひなげしの畑の写真を撮って、先を急ぐ事にした。ひなげしが風に揺れて、本当に美しい。だが、道を隔てて向こうは、除染廃棄物を詰めたフレコンバッグの山。こんなことがあっていいものか! 悔しくて、悲しくて、青い空を仰いだ。
 そして、南相馬に向かった。途中の山中には栗の木も多く、白い穂花が垂れていた。ハコネウツギが咲き、耕作を始めた水田に、早苗がお行儀良く並んでいた。そのすぐ側には畜魂碑が建っていた。ここの人も牛を飼っていたのだろう。今は、どこでどうしておられるのかと思う。
 南相馬に入った時に花子さんから電話が入った。玄関のメモを見て電話をくれたのだった。畑の草刈りをしていたのだという。玄関を出たときに遠くで草刈機の音が聞こえていたけれど、花子さんも健一さんと一緒に出かけているかと思い、機械の音の方へ行ってみることをしなかったのが悔やまれた。

長谷川さん宅のひなげし畑。奥にフレコンバッグの山が見える

ビジネスホテル六角へ

 ビジネスホテル六角のオーナーで、「六角支援隊」隊長だった大留隆雄さんから電話があったのは、先月の訪問時からほんの数日経ったばかりの時だった。
 「一枝さん、ホテルを閉じる事にしたよ。まだ誰にも話してないけど、一枝さんには伝えておかなきゃと思って電話したんだ」と言う。ホテルの運営は数年前に息子さんに任せていた大留さんだが、それは実務に関してのことだった。ホテルを維持していく経営については、すっかり身を引くわけにはいかなかった。
 原発事故後、南相馬市ではさまざまな作業や工事が必要とされていた。除染や復旧作業だが、市内には作業員のための宿泊施設が次々と造られていった。ビジネスホテル六角も、いつも満室状態だった。それらの作業や工事の現場は南相馬市内ばかりでなく隣の浪江町にも需要が多かったが、実際の作業や工事は、より原発から遠い南相馬から進められていった。除染や復旧作業ばかりでなく、俗に“復興”の象徴とされるような新たなハコモノ建築作業もあった。しかし、作業現場が南下していくに従って、作業や工事のための宿泊施設も浪江町に建設されるようになった。こうして南相馬の宿泊施設の利用者は減っていった。
 六角も、この1、2年宿泊を断られることは皆無で、直前の予約も受けていた。ことにコロナ禍になってからは利用者は激減状態で、私が行った時にも駐車場に利用者の車を見ることは殆どなかった。大留さんが店じまいを決断したのは、コロナが収まっても、ここでホテルを維持していくのは厳しいだろうと判断してのことだった。

ビジネスホテル六角

 「息子ともよく話し合って、赤字を出さないうちに閉じる事にしたよ。あんまり色々な人に話すのもなんだから言わないけど、長野の人たちにはついでがあったら一枝さんから伝えてください」と、大留さんは言った。長野の人たちというのは、雑誌『たぁくらたぁ』の編集長や他の人たちのこと。『たぁくらたぁ』は私も編集委員の一人になっている、信州発産直泥付きマガジンと称するミニコミ誌で、大留さんのインタビュー記事が載ったこともあるし、編集長らが取材の際に六角に宿泊したことも度々あった。
 先月の訪問後にそんな電話をもらっていたので、大留さんがどうしているのか気がかりで、この日訪ねたのだった。ホテルの入口には「本日の受付は終了しました」の札がかけられ、扉の鍵は閉まっていた。裏の自宅の方へ回ると、ちょうど大留さんのお連れ合いのサキさんが外に居て、久しぶりの挨拶もそこそこに、すぐに大留さんに私が来たことを伝えに内に戻った。
 ホテルの入口が開いて、いつものように食堂で大留さんと話をした。大留さんは目が痒くてしょぼしょぼするのだと言って、ティッシュペーパーでしきりに目の縁を擦っていた。
 「僕が元気なうちは、続けていたかったんだけどね。息子ともよく話をして、止める事にした。息子は何か仕事を探すと言ってるし、仕事しなきゃいけないでしょう。だけど息子が仕事に出ちゃうと、僕たち二人だと病院に行くのも買い物に行くのも歩いては行けないしね。色々考えないとならないんだ」
 タクシーを使うといっても、駅前にタクシー会社はあったけれど呼んでもすぐには来てくれない。営業時間も早朝や深夜はやっていない。以前私が午後7時過ぎに電話したら、もう営業は終わっていた。原町はさほど過疎地とは思えないけれど、それでもこのような状態だ。過疎地の交通問題は喫緊の問題ではないだろうか。原発被災地が抱える大きな問題だとも思う。

浪江小学校の解体

 浪江町では、浪江小学校の解体が始まっていて、写真家の中筋純さんが記録を撮りに詰めている。
 私が中筋さんを知ったのは今野さんの紹介で、2016年に福島市で開かれた写真展「流転 チェルノブイリ&福島」を見た時のことだ。心を掴まれた。これから南相馬に行くという時だったので、バスの時間に急かされて会場を後にした。南相馬からの帰りにもう一度写真展会場に行った。チェルノブイリに通い、原発事故後は福島に通い、無人の地と化した場所を撮り続けている人の風景写真は、その土地の、またそこに暮らしていた人々の歴史や暮らしを静かに強く語っていた。文章もまた、心に沁みた。
 最初の出会いで純さんの写真にすっかり魅入られ、以来、純さん関連の催しにはほとんど参加してきている。幅広いジャンルのアーティスト達と共に催す作品展「もやい展」は、個々の作家の作品の素晴らしさはもちろんだが、その全体像、構成がまた素晴らしく、純さんはマルチアーティストだと思う。
 純さんは浪江町の避難指示が解除される以前に、継続的に一時立ち入りができる許可証を得ていて、人の姿が消えた浪江の街の様子、被災家屋が解体されていく様子を定点観測的に撮り続けてきた。町民の堀川文夫さん・貴子さんの自宅が解体されていく様子を動画に収めた「fine(フィーネ)2-2-A-219」、今野寿美雄さんの自宅解体を写した動画「9年目の津波」。原発事故は、住まいと、そこに住まう人とを引き剥がした。堀川さんの、今野さんの無念が伝わり、また壊される家の悲鳴も聴こえるように感じた。多くの人に見て欲しい動画だ。今度は浪江小学校が解体されていく様子を、純さんはどんな映像に仕上げて見せてくれるのだろう。
 10年が過ぎて浪江は、そこここが更地にされた。地元の人が買い物に行っていたスーパーも、あるいは毎月通った床屋や美容院も、子ども達が小遣いを握りしめてプラモデルなどを買いに行った商店も、今はもう跡形も無くなった。
 そして今、浪江小学校も解体作業の只中にある。親子2代で、いや3代で通った人も居たであろう小学校の校舎を、重機の爪がベリベリと容赦なく崩していく。コンクリート圧砕機が校舎の下の階から崩していくが、圧砕機の爪の左右にホースが延びて水を噴き出している。コンクリート粉塵が舞うのを抑えるためらしい。水には何か化学薬品なのだろうか、泡の成分を含ませているという。現場の監督者らしい人が「解体は雨の日の方がいいんですけど、今日は晴れているのでね」と言っていた。時折の休憩を挟み、その時には機械を運転する人も運転台から降りて仲間内で談笑しあい、そしてまた作業に戻っていく。
 圧砕機の爪が屋上部分の何本も並んだ金属製パイプをガシッと掴み、アームを上下左右に揺する。オレンジ色のパイプの束は、まるで身を捩るように大きく揺れながら引き剥がされ、コンクリートの瓦礫の向こう側にドサリと落とされた。抗う術を持たない巨人の髪を引っ掴んで腕を振りまわし、皮膚から髪を引き剥がして捨てていくようで、その無残な進行の様子を見ていると、私の体が強張った。

浪江小学校の解体工事の様子

 こうして町のシンボルが壊され、こうしてふるさとが消されていく。出かけてくる前に読んだ新聞記事は、廃校になった大熊町の大野小学校は校舎を遺構として残し、改修してベンチャー企業の拠点にすると報じていた。浪江ではそんな方策が取れなかったのだろうか。浪江小学校は、ここに在校したことがある人ばかりでなく町民たちみんなにとって、思い出深い学校だと聞いた。
 浪江では明治時代初期の頃から、毎年11月下旬に収穫を終えた祝いと冬支度を迎える市として、「十日市祭」が開かれていた。震災前には数百軒の露店が立ち並び、大層な賑わいだったそうだ。そのころは11月23日の勤労感謝の日を含めての3日間の祭りだったという。さらに当時はその十日市祭の日程に合わせて、浪江小学校と浪江中学校で町内の他校の児童・生徒の習字や絵画などの優秀作品が展示され、また浪小・浪中の子どもらによる演奏会などのイベントも催されていた。その日は休日なのには浪小・浪中の子どもらはイベントの出演時間には学校に居るのだが、他校の子どもたちは展示作品を見がてら、小遣いを握りしめて立ち並ぶ露店で浪江焼きそばを食べたりおもちゃを買ったりして楽しく過ごしたそうだ。この十日市祭は、浪江の人たちにとっての一大イベントで、浪小・浪中は大事なイベント会場の一部でもあった。そんなふうに浪江小学校は教育機関というだけではなく、町民にとってはいわば故郷のシンボルとでも言えるような存在だった。
 私がそこにいた間に解体の様子を見に来た人がいて、彼はYと名乗って撮影中の純さんと言葉を交わし、この学校の卒業生だと言った。側にいた今野さんも会話に加わり、Yさんは双葉高校で今野さんの後輩であることが知れた。3人の話の流れから、純さんが撮影中の浪小が消されていく状況を活写する映像の中で、Yさんもモデルになることが決まった。
 それはまた「fine」「9年目の津波」に続く素晴らしい作品になることだろう。そんなことを話している間に、また一人様子を見に来た人がいた。今野さんの知り合いだったらしく、親しく言葉を交わし合っていたが、「長女がここの卒業生なんだ。だからまだ見てられるけど、自分が卒業した学校だったら見てられないよ」と言った。
 この場所に流れた時間も、学舎から巣立っていった数多の子どもやその親たちの暮らしの軌跡も、これから紡がれていく筈だった未来も、それら一切とはまるで関わりなく解体作業は進められていった。純さんは校舎の建物が全て姿を留めなくなり、「瓦礫」とされた校舎の名残がすっかり片付けられて、そこが広い更地になるまで撮影を続けるだろう。私は、先の予定があるので、純さんにお暇をして現場を離れた。
 2019年の十日市祭に、私は来たことがあった。会場は、スポーツセンターの駐車場だった。会場入り口には黄色いバルーンの大きな門が設えられていた。生憎の雨の日だったが、それでも多くの人で賑わい、大堀相馬焼の店も何店か出ていたし、浪江焼きそばやその他の食べ物の店、野菜などの食料品を売る店、手芸品やゲームの店などもあった。町内の津島地区から日立市に避難した関場健治さんも野菜の店を出していた。
 十日市祭は、原発事故後に町民が一斉に避難した後も、町民の心を繋ぐべく、役場が避難した二本松市で「復興なみえ町十日市祭」として続けられてきて、2017年に帰還困難区域を除いて避難指示が解除されてからは、浪江町に戻っての開催が再開されたそうだ。私が行った2019年は、町に戻って3回目の市だった。再開された十日市祭は2日間になっていて、私が行ったのはその2日目だった。会場を歩いていると、「アレェ、元気だった?」などと買い手と売り手が交わし合う声が聞こえて、そんな言葉の調子に、かつての十日市祭の空気感を、私は思い浮かべた。だが、被災前に市が開かれ数多の露店が並んだ新町通りの商店街は、道路の両側に在った店舗はどこも解体されて、過ぎた日の賑わいを想い浮かべることさえできなかった。
 浪江小から次の予定地に向かいながら、十日市祭や浪江小に流れてきた歴史を想い浮かべていた。「あおげば西の山青く 海風かよう空晴れて 朝日あかるくさす庭に そびえる そびえる 浪江小学校/高瀬の川に若あゆの おどれる力身にしめて きたえ進まんほがらかに かがやく かがやく浪江小学校」──いつか聞いたことのある浪江小学校校歌の歌詞が、脳裏に浮かんだ。

小高へ──横田さんのバラ園

 浪江から南相馬市に戻って小高地区に向かう途中に、広く更地になった場所があった。そこはライスセンター(籾の乾燥・籾すり・袋詰めなどを行う施設)が建てられる予定地だという。そう聞けば、なんだか気持ちが落ち着かない。戻る人がいても高齢者で、彼ら個人では米作りは難しいだろうから、組織を立ち上げてのことになるのだろう。圃場整備して1枚の田圃を広くして大型機械を使っての米作りになるのだろう。農薬などはどうなのだろう? ライスセンター建設が、復興につながるのだろうか?
 そんなことを考えながら進むうちに、横田芳朝(よこた・よしとも、76歳)さんの自宅に着いた。
 専業農家だった横田さんは、原発事故後に埼玉に避難した。小高の県道34号線沿いの畑で野菜や梨を栽培していたが、畑は放射能で汚染され、500本ほどあった梨の木は手入れができぬまま病気になり伐採した。2016年7月に避難指示解除となり、畑は表土を剥ぎ取って土を入れ替えて除染されたが、営農再開は諦めた。だが、このまま土地を荒らしたくないと、バラ園にすることを思い立った。花苗やバラを販売する知人にバラ園の設計を頼んで苗も提供して貰い、手入れ法も習った。さいたま市から車で通い整備と手入れを続け、5000平米ほどあった畑をバラ園に変えた。
 私が初めて横田さんに会ったのは2019年の11月に小高の自宅を訪ねた時で、もうとうに日暮れて夜だったから、バラ園は見ていない。その後もなかなか訪ねられず、今年5月の福島行の折に、バラが咲いている頃かと訪ねたのだが、広い敷地に植えられたバラの木はどれもが、もう開くのを待つばかりになった大きな蕾だった。横田さんも自宅には居られず、避難先の埼玉からまだ来ていないらしかった。
 そこから1カ月、今はどうかと訪ねた。ああ、残念ながら花はすでに終わっていて、横田さんはお連れ合いの裕子さんと共にバラ園の手入れをしているところだった。次の季節にまた美しく花咲くようにと、咲き終えた花殻をつけた枝枝を短く刈り込んでいた。バラは枝が伸びるのが早いので、バラ園全体をしっかり整備していく必要があるから、横田さんはこうして埼玉から通ってきて、バラ園の手入れをする数日間を自宅で過ごす生活を続けている。「もう歳だから、いつまで続くかなぁ」と、横田さんは言った。
 そして別れ際に、「四季咲きのもあるから、こっちにきた時は寄ってみて下さい」と言った。
 そう、冬のバラも良い。だからまた寄ろうと思うが、やっぱり春爛漫のバラ園を見たいから、来年5月下旬に、また訪ねよう。

神山の土取り現場

 双葉屋旅館女将の友子さんから、小高の土取現場のことを聞いたのは、先月来た時だった。
 「あんまり車も通らないから見る人もいなくて、そんなところでドトリしているんだよ」。最初に聞いた時にはドトリが分からなかったが、その後すぐに土取り、採土のことだと判った。「昨日計測に入った場所で神山っていう所だけど、山を削って、あれじゃぁ雨が降ったら崩れてくる。神山、神様の山を削ってるんだよ」と、友子さんは言った。その現場を見たかった。
 行ってみたら、なるほど酷い状況だった。その辺り何ヵ所にもわたって草木の生える山が削られ、削り取られた断面は土が剥き出しになって、雨が降り続けば土砂は流れて道を塞ぎ、断面から山は崩れていくだろう。ここから運び出された土は、公園の造園とか、道路や建物の建設などの“復興事業”に使われる。めちゃくちゃな話どころか、これはもう犯罪と言えるのではないか。採掘している山々は地権者もはっきりしていないか、あるいは国有地などだろうか。土地の所有ということも考えるべき問題を多く孕んでいるが、今はそれを置いても、この環境破壊の有様を見れば、このドトリは断じて許されないことだ。7代先までの未来を見通す為政者がいないことが、本当に悔しい。

「ドトリ」の現場。土が剥き出しになっている

 友子さんは言う。「この間の地震(今年2月13日の福島県沖地震)だって、ああバチが当たったって思ったけど、神様の山を崩したりして今度はまた、もっと酷いバチが当たるんじゃないかと思って怖い」。ああ、バチが当たるなら権力の維持と金儲けばかりに心を配り、保身だけを考える為政者たちにこそ、バチがあたれ! と思う。憤りは収まらず、削られた山々を思うと悲しく苦しくてやりきれない。私はたまに来て現地のこうした様子を見るだけだけれど、ここに暮らす友子さんや現地の人たちは常にこんな光景に接しているのだ。そして「バチが当たる」と恐れているのだ。こんな酷い話って、あるだろうか。

同慶寺と藤島昌治さんの思い出

 今夜の宿の双葉屋旅館さんへ向かう前に、道筋にある同慶寺に寄った。本堂のすぐ裏手に、何か新たな建物が造られている最中だった。2011年の地震で傷んでいた本堂の修復は既に終え、震災から10年が経ったこの3月に無事落慶法要を済ませた。だが先に記したように2月13日に震源地福島沖、最大震度6の地震に見舞われ、相馬家歴代藩主を祀る五輪塔のいくつかは石が崩れたままだった。御住職の田中徳雲さんは留守のようだったので、この寺の檀家だった藤島昌治さんの墓参りをしてから帰ろうとした時に、徳雲さんが帰ってきた。
 藤島昌治さんは原発事故後に小高の自宅から避難して、同じ市内の寺内塚合第2仮設住宅に入居し、仮設住宅の自治会長をしていた。仮設住宅退去後の住民たちの暮らしを案じて、望む人たちが共同で暮らせるようなシェアハウスを構想して、署名活動をして、市と交渉もしてきたのだが、市議会では構想案が超党派で可決されたものの建設実現には至らなかった。藤島さんご自身も病に倒れ、2019年末永眠された。ご遺骨はこの同慶寺に眠っている。
 徳雲さんに3月の「命の行進 2021」に参加できなかったお詫びを言うと、「それよりもご体調はどうですか?」と気遣ってくださった。
 「命の行進」は命の大切さを訴えて主義主張、宗教宗派、人種の壁を超えて、共感する人たちが共に各地を歩くもので、東日本大震災後は毎年被災地の慰霊供養のために歩いている。2008年に日本山妙法寺(法華宗系の宗教団体)の僧侶によって平和を念じて始められた。徳雲さんも毎年参加されていて、今年も同慶寺から請戸までを歩かれた。私も今年は一緒に歩くつもりでいたのだが、2月に乳がん手術をしたばかりだったから参加できなかった。それで徳雲さんが問うてくださったのだ。経過は良好で、全く心配ないことをお伝えすると、「良かったです」と喜んでくださった。
 それから徳雲さんと一緒に藤島さんの墓前に行き線香を手向けると、徳雲さんは般若心経を唱えられた。朗々とした徳雲さんの声が夕暮れの空に響いた。私はその声に耳を傾けて唱和しながら、亡き藤島さんの笑顔を胸に蘇らせた。
 墓前から建設中の建物の前に戻り、何ができるのか伺うと慰霊棟だと答えが返った。預かっているご位牌とご遺骨を収めるための建物とのことだった。未だに避難先に位牌を運べずにいる人も少なくなく、また津波で墓が流されて無くなっていたり、土壌が汚染された元の墓所に遺骨を収められずにいたりなどで預かっているものが本堂にあるが、それらを安置する部屋を造っているという。宮大工さんの仕事で実に丁寧な仕事ぶりで、見ていて飽きず完成が楽しみだと、徳雲さんは言った。材木に鋸を引き、切った木材を打ち付けていく様を短い間だが私も眺め、徳雲さんにお暇をした。

双葉屋旅館

 双葉屋旅館に着くと、先月お会いした元原子力発電従事者の白髭幸雄さんがこの日もそこに居た。この日もやはり、各地の土壌や植物の放射線量を測定して、小高地区の飯崎(はんざき)の自宅に帰る前にここで夕食をとっていく白髭さんだった。
 白髭さんから、「2021年5月度測定結果」のプリントを頂いた。飯崎の自宅に設置したシンチレーションγ線スペクトロメーター(ウクライナ製)で測定した結果だ。双葉町や原町区の高倉、浪江町大堀などなど各地の土壌、飯崎の自宅の掃除機のゴミ1年分、山菜のシドケやコゴミ、フキ、ウド、ワラビなどなど、測定日、採取日などを列記しながら数値が記録されていた。自宅の掃除機のゴミからは、セシウム137が4779ベクレル/kg検出されていた。白髭さんは避難先の千葉から測定のために小高の飯崎の自宅に毎週来て過ごすが、測定結果から判るように、決して安全安心な場所ではない。だが、ここに帰還して暮らしている人も居る。

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 6月15日の報告は以上です。翌日は富岡町を経ていわき市小名浜に行きましたが、その報告は次回に譲ります。

一枝

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。