リーガルテックとは、法律(リーガル)と技術(テクノロジー)を組み合わせた言葉で、法律に関わる業務をITを利用して効率化することを指します。大手法律事務所において約18年間、国内外の企業間紛争に携わってきた藤田美樹弁護士は、2018年に日本ではまだ数少ないリーガルテック企業「リセ」を立ち上げました。これからの法曹においては、どういった業務がどのような形でテクノロジー化されていくのか、その中で法務に携わる人はどのようなスキルを磨き、「人」ならではの高度な思考が必要となる業務を行っていくべきなのか、お話しいただきました。[2021年6月19日@渋谷本校]
企業間紛争に携わる弁護士として
私は2001年に弁護士になり、日本四大事務所の一つと言われる「西村あさひ法律事務所」に就職、アソシエイト弁護士として国内外の企業間紛争に携わってきました。入所した当時は景気がよかったこともあり仕事は非常に忙しく、毎日深夜残業、週末も仕事という状態でした。
そういうと過酷なブラック事務所と思われそうですが、私自身はそれほど大変だとは思っていませんでした。目の前の仕事に必死に取り組んでいるとあっという間に時間がたち、気がつけば終電を逃していたということもしばしば。もちろん睡眠不足でゆっくり遊ぶ時間などありませんでしたが、とにかく仕事を覚えたい一心だったので、長時間働かされてつらかったという記憶はありません。
また競争が激しいのでは、と思われがちですが、同期とは同じ案件に関わることは少なく、それぞれ自分の仕事に一所懸命で、互いに助け合ったり励まし合ったり、愚痴を聞いてもらったり、人間関係も良好でした。
そんな駆け出しのころ、苦労した仕事のひとつが翻訳でした。海外企業との紛争を扱う場合、裁判所に提出する書類はすべて翻訳しなければなりません。手本となるサンプルを集めて読み込み、それなりの形にするには、たった10行の委任状であっても数時間かかることもあります。手間も時間もかかる作業で本当に大変でしたが、経験を積むうちに、英文がすらすら読めるようになり、必要な言い回しが自然と出てくるようになって、こつこつ続けたことは確実に自分の力になるのだな、と実感しました。
アメリカでのリーガルテックとの出合い
2006年から2年間、アメリカのデューク大学ロースクールに留学。そこでの経験が、のちのリーガルテック起業へのきっかけになりました。
法務の仕事は何事も調べもの、リサーチから始まります。まず法令を調べ、判例を調べ、論文を集めて、膨大な文献資料を集め読み込まなくてはなりません。そのため日本の法律事務所では夜中まで資料室にこもって、文献をめくって、該当する箇所を探し出し、コピーをとって……というリサーチ業務に忙殺されていました。
それがアメリカではパソコンを立ち上げれば、クリック一つで必要な判例や欲しい資料がたちどころに出てくるのです。さまざまな法務に必要な情報を集めたリーガル専門サイトが出来ていて、日本でやっているような手間と時間がかかるリサーチ業務は過去の話という事実に衝撃を受けました。
また裁判のためのツールもすべてデジタル化されていました。弁護士向けのサイトがあり、準備書面も、訴状、証拠もすべて電子化され、クリック一つで検索できるのです。それまで法律の世界は人間の言葉や感情や、機微を扱う分野だから電子化にはそぐわないと思っていたので、ここまでテック(テクノロジー)化できるのかとびっくりしました。
起業のきっかけになった2つのこと
帰国後はふたたび所属事務所に戻って、さまざまな企業間紛争案件に携わったのですが、その中である疑問を抱くようになりました。たとえば中小企業の方から「海外の企業との取引で思うような結果が出ず、契約を解除しようと思ったら多額の違約金を請求された」などといったご相談を受けた時のこと。契約書を見ると信じられないような内容で「どうしてこんな不利な契約を結んだのですか」と伺うと、「社内に専門家がいなかった、弁護士に相談する予算がなかった」というお返事でした。契約の時点で専門家がチェックしていれば、こんなことにはならなかったのに。紛争が起きる前に私たちに出来ることがあるのではないか。弁護士費用ほどお金をかけなくても、適切な法的アドバイスを受けられるサービスはできないものか。そう考え、予防法務の重要性を痛感するようになりました。
海外のリーガルテックの会社からの営業を受けたのはそんなときでした。提示されたひとつは、スカイプ経由で英文契約書を精査するというツール。これが非常にうまくできていて、法務の仕事もここまで電子化できるのかと、感嘆しました。
もうひとつは、法務デューデリジェンス業務をテック化したサービスでした。デューデリジェンスとは、相手の企業や投資先の価値やリスクなどを調査することで、当時はあらゆる紙の資料を段ボール箱何箱分も集めて、それを片っ端から目を通すという大変な作業でした。それをAIが一瞬で仕分けしてくれる。衝撃でした。もちろん人が見て判断しなければならない部分はたくさんありますが、類型的な業務、反復するような単純作業は、人間が疲れた頭でチェックするより、AIのほうが見落としもなく効率的ではないかと、リーガルテックの可能性を確信しました。
弁護士の助言を受けられなかったがために、紛争に巻き込まれてしまった中小企業、そして海外のリーガルテックとの出合い。この二つが私の中で結びついて、リーガルテック企業「リセ」を起業することになったのです。
多種多様な人々との出会い
それまでは会社の経営にもベンチャー起業にも、またITテクノロジーにも疎かったので、起業するに当たってはひたすら人に会って話を聞きました。AIの会社を立ち上げた人、システムエンジニアなど、片っ端から人に会って、こういうことをやろうと思っているのだけれどと相談し、アドバイスをもらいました。また海外のリーガルテックにはどんなサービスがあるかも、徹底的に調べました。
同時に、どのようなサービスが求められているのかを知るには使う人に聞くに限ると、100社以上にインタビューして技術者の方たちと話し合いを重ね、商品開発に努めました。
この新しい仕事を始めて一番変わったのは、弁護士時代とは比べものにならないほど、多種多様な方々と日々出会い、コミュニケートするようになったことです。初めのうちは、法律家と技術者には共通言語がないのでは、と思うほど意思疎通が難しく、苦労しました。また経営者として、技術者、営業マン、事務職などさまざまな職種の、価値観も多様な従業員と向き合うのも初めての経験で、戸惑いつつ学ぶという毎日でした。
拡大するリーガルテック市場
現在アメリカにはおよそ1000社、中国には300社、リーガルテックの会社があります。日本ではまだ数十社というところです。
「先進国」といえるアメリカでは今、どのようなリーガルテック商品が流行っているか、いくつか例を挙げてみましょう。
たとえば月額数千円で契約すると、遺言書や委託契約書など、一般の人々が必要とする書式のダウンロードができたり、30分限定でネット上のチャットで生身の弁護士に相談できたりするという、いわば「ネット弁護士を雇う」感覚のサービスがあります。専門弁護士監修のQ&Aも充実しています。知りたいことを検索すると、高度な専門性と最新の知見に裏付けされた答えが出てくるので、とても役に立ちます。
あるいは、通販サイトでの売買などEC業におけるトラブルをウェブ上で仲裁するというツールも好評です。ある程度基本的なことはAIがチェックし、最終的判断は人間がするという組み合わせで、経費節減と質の高い法務サービス提供の両立を実現しています。
アメリカでは、買収交渉などにおけるデューデリジェンスにも、リーガルテックは不可欠な存在となってきています。テック化による経費削減は、アメリカではもはや常識です。確かに質の面だけで言えばすべてマンパワーでやるほうがいいかもしれませんが、たとえば「90のクオリティの仕事を50の力でやる」のと「100のクオリティを100の力でやる」のを比べてみれば、90を50でやるほうが競争力という面では優れているといえるでしょう。
その分、アメリカでは受付やコールセンター業務などの単純労働がテック化され、失業する人が出てくるという社会問題も起きています。ですが日本では、むしろ少子高齢化による労働力不足が深刻で、それを補うためにもテックの重要性は増してくると考えられます。
「機械に人間の代わりは出来ない」という声は根強いのですが、人間対テックという対立軸で考えるのでなく、「テックを使いこなす人間」が求められているのです。類型的な業務、反復するような単純作業など、テックが得意とする分野はテックに任せることで、時短・省力化し、マンパワーのクオリティを上げる。テック+マンパワーが、これからのリーガル業界での成功の鍵になると確信しています。
わかりやすい例をあげれば、私が若い頃苦労した翻訳です。契約書一枚を英訳するのに人間なら1時間かかるところを、テックなら数秒、費用も人間の100分の1くらいで出来ます。精度の点でいえば人間にはかなわないでしょうが、費用と時間の点では圧倒的にテックが優位です。この数年、機械翻訳は格段に進歩しており、数年たてば少なくともリーガル分野では人間がやる必要はなくなるでしょう。
「リセ」の起業は、今から考えてもまったく未知の分野へのリスキーな挑戦ではありましたが、やってみると意外に出来たかなと思っています。一歩踏み出すのは勇気がいりますが、助けてくれる人は必ずいるし、子育て中の女性であっても道は開ける。起業には体力もいりますし、若いうちにそのチャンスがあれば、思い立ったが吉日で、失敗をおそれず踏み出してみてください。
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ふじた・みき 株式会社リセ代表取締役社長、弁護士(日本・NY州)。東京大学法学部卒業、デューク大学ロースクール卒業(LLM)、司法試験合格、司法修習を経て、2001年西村総合法律事務所(現西村あさひ法律事務所)入所。米国留学、NY州法律事務所勤務を経て2013年パートナー就任。 2018年退所、株式会社リセ設立。著書に『消費者集団訴訟特例法の概要と企業の実務対応』(商事法務、共著)など。4児の母。