第14回:被災地ツアー報告②「語らなければ伝わらないと思って、語り部活動を始めた」(渡辺一枝)

7月22日〜24日の日程で訪れた、被災地ツアー報告①の続きです。

浪江町──「オリンピックの陰で忘れられた福島」

 更地になった今野さんの自宅跡を見て、浪江町役場前の仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」でトイレを使う。避難指示解除になった時、ここに仮設商店街ができたことが、どんなにありがたかったことか。昼食もここでとることが出来たし、トイレも使うことができた。一時帰宅の町民の方達も、同じ思いだったのではないか。だがそう思う一方で、誰もが悔しくやりきれない思いを抱いたことだろう。
 「なみえ創成小・中学校」と併設の「浪江にじいろこども園」を見て過ぎ、請戸地区に向かった。
 ここでは、「浪江の復興は請戸港から」を謳って漁港の復興工事が進められ、今は水産加工場も市場もできた。請戸小学校は震災遺構として残すことになり、そのための工事中だ。津波を受けた他の地域と同様に、ここでも高い防潮堤が築かれ、かつては見えていた海が、今は見えない。
 海が見えるから異変を察知できるのに、海を見えなくしたことでかえって危険だという、海辺で生きてきた人たちの声は届かなかった。
 請戸川の鮭の簗場は、季節にはずいぶん賑わったと六角支援隊の荒川陽子さんから聞いたことがある。鮭や筋子を廉価で買えて、また食堂で食べる昼ごはんも楽しみだったと懐かしげに語るのを聞いたのは被災から2年後のことだった。その年には鮭の遡上が伝えられ、翌年も、その翌年も伝えられた。だが数年前から、もうそれは話題にはならなかった。稚魚の放流がされていないから、もう鮭も帰らない川になってしまったのだろう。川面にクレーン車が運転台をめり込ませて、逆立ちしたように斜めに埋まっている。被災した時のままの姿で捨て置かれていた。持ち主がわからず、処分もできずに10年経った。「オリンピックの陰で忘れられた福島」を象徴するような光景だった。
 「道の駅なみえ」に寄ってから、浪江小学校解体現場へ行った。ここでは、写真家の中筋純さんが、解体の様子を撮影している。中筋さんは2013年からずっと浪江に通い、町の変貌の様子を記録してきている。今野さんの自宅解体の様子も撮影を重ねて「9年目の津波」という動画に残して記録している。私は先月の福島行の折にも純さんのこの撮影現場を訪ねていたが、その時はまだ校舎は残っていて、まさに大型の圧砕機が校舎の壁に喰らい付き、引き剥がそうとするばかりの時だった。ツアーで訪ねたこの日には、もう校舎は影も形も残っていなかった。コンクリート片の山がそこここに築かれていて、工事関係者たちがショベルカー、クレーン車、キャタピラー、ダンプカーなど工事車両の間を動き回っていた。
 校舎は跡形も無くなったが、校門と門を入ってすぐ右手の少年と少女の白い立像は残すらしい。駅の方から幼児を連れた女性がやってきて、門の向こうを覗き見ているので今野さんが「卒業生ですか」と声をかけた。そうだと答えた彼女に卒業年を問うて答えを聞いた今野さんは、友人の名をあげて「Mちゃんと同期かな?」と言った。女性は「Mさんは1年先輩です」と答えた。私が「学校が残っていたら、坊やもここに入学したのでしょうね」と言うと、「はい、そのつもりでした」と答えが返った。母子2代の学舎になる筈だった校舎は消えてしまった。校門の前で並ぶ母子の写真を、彼女のスマホに収めて渡すと、礼を言って母子は去って行った。大粒の雨が降り出して、私たちも急いで車に戻った。
 大熊町の大野小学校は校舎を遺構として残し、ベンチャー企業の拠点にするという。浪江小は、そんな方法が検討されることもなく150年の歴史を閉じた。どす黒いような政治の計算を思ってしまう。現在、この周辺の地価はだいぶ高騰しているらしい。米国のハンフォード地域との連携協力のもとに、大学を誘致する話も持ち上がっているらしい。それならここに遺構などが残っていては、邪魔なばかりだ。しかも、よりによって核施設のあるハンフォードだ。
 そればかりではない、解体に取り掛かった時期を考えてもまた、政府のあざとさを強く感じる。この地区でのオリンピックの聖火リレーの出発点は、この浪江小学校だった。解体工事に取り掛かる前、以前の姿のままで校舎が残っていた時に聖火はここを出発した。その映像記録は、校舎をバックにその前を走者が走っている様子で残されたことだろう。解体工事に取り掛かったのは、その直後からだった。

双葉屋旅館で

 「希望の牧場」の前を通り、小高へ向かう。牧場へ寄る時間はないので、車窓越しに牛たちの姿を見て過ぎる。神山地区の土取り現場を通る。山を削って採取した土を盛って、復興祈念公園の「鎮魂の丘」「希望の丘」が築かれるのだ。飯舘村のパークゴルフ場同様に、「復興事業」は自然破壊を隠す。いや、自然を破壊するのが復興事業と言っていいだろう。
 小高から埼玉県岩槻市に避難した横田芳朝(よしとも)さん(第8回参照)のバラ園の花は、色とりどりに咲き競っていた。横田さんは被災前にはここで梨と野菜を栽培する専業農家だった。避難指示が解除され畑は除染されたが、営農再開は諦めた。だが先祖伝来の土地を荒らすわけにはいかず、思い立ってバラ園にした。毎月岩槻から手入れに通って、バラ園を丹精している。
 6時前に、この日の宿の小高駅前の「双葉屋旅館」に着いた。
 夕食時は、賑やかだった。南相馬在住の高村美春さん、元原子力発電従事者の白髭幸雄さん、フォトジャーナリストの片岡遼平さん、そして中筋純さんも加わった。ツアーの企画には「夕食後に南相馬在住の被災者からお話をお聞きします」という項目を入れてあった。それで南相馬在住で語り部をしている美春さんには、予め夕食時に来てくれるよう頼んでおいた。すると二つ返事で受けてくれて、晩も一緒に泊まって翌日の行動も共にしてくれると言った。なんと嬉しいことだったろう! 私は白髭さんには双葉屋さんで何度かお会いしているが、彼の体験と活動も、ぜひ参加者に聞いて欲しかったし、遼平さんの活動も、大いに知って欲しかった。

高村美春さんの話

 美春さんは震災時4歳の息子を、彼一人だけで避難させた。そのことで非難を受けたが、子どもを守りたい一心でのことだった。原発事故を受けて避難するしかないと思ったが、母子共に避難するか、それとも子どもだけでもかと思い悩みながらの選択だったが、どちらにしても望んでのことではなかった。
 自分は何を恐れ、何から逃げたいと思っているのか、己自身を知りたかった。これから福島はどうなるのか、福島で生きるにはどうすれば良いのか……、事故後25年経ったチェルノブイリの今はどうなのか、人々の暮らしや、子どもたちはどうなのかを知ろうと思い、2012年2月にチェルノブイリに行った。
 内部被ばくから身を守るために、調理師免許を取った。また子どもたちの食育の一環で、できることがあるのではないかとも考えたからだ。それまでは当たり前に食べていた山菜やキノコが、食べられなくなった。放射能は食を含めて郷土の暮らしや文化を消していくということに、強い危機感を覚えた。食を通じて、文化の継承もしていきたかった。
 2015年には除染士の資格を取り、除染作業員になった。そして除去土壌の仮置き場に行きガスを測るモニタリング作業に携わった。仮置き場に入るには除染士の資格がないと入れず、仕事でなければ入ることもできなかったのだ。自身の目で仮置き場を見たかったし、放射線量を測りたかった。被災前の暮らしを壊した“敵”の正体を、この目でしっかり確かめたかった。イチエフ(福島第一原発)も仮置き場も、情報を得て知識として知るのではなく、自分の感覚で実感として捉えたかったからだ。
 そうした仕事を経ながら生活している場の線量を測ってきて、同じく飯館村で生活の場の線量測定を続けている伊藤延由さんと知己になり、共に各地に出向いて福島の現状を伝える語り部活動をするようになった。語り部活動は、2012年6月にブラジルで開かれた「リオ+20環境サミット」で福島の現状を訴えた時に、語らなければ伝わらないのだと思ったことが契機になって始めたことだ。双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」ができてからは、そこでの語り部もしている。

白髭幸雄さんの話

 2011年3月11日、白髭さんは福島第一原発の構内にいた。この日は元請け企業の資材倉庫で担当者と共に在庫調査をしていた。2時46分,それまでに体験したことのないような地震を感じて倉庫の外に出たが、立ってはいられずしゃがみ込んで揺れが治るのを待った。南相馬市小高区飯崎(はんざき)の自宅に戻り、家と家族の無事を確認した。
 12日に1号機が水素爆発をし、原発から半径20キロ圏内に避難指示が出た。自宅は17キロ地点だったが、高齢者と身体障害者を抱えていたので“自己責任”で自宅待機を選んだ。
 しかし14日の3号機爆発を受けて避難を決意し、15日に20キロ圏外へ逃れ、そこで数日過ごした後22日に千葉県へ避難した。22日の避難途中で会社から業務への復帰命令が届いたが、家族の避難を済ませてから26日に単身で福島へ戻った。以来、家族は千葉県の避難先に置いての単身赴任で、週末に家族のもとへ帰る日々を続けている。
 3月26日からの2週間は、Jヴィレッジでの管理業務に当たった。作業員の身体洗浄が仕事だった。その後の2週間くらいは免震棟での管理業務に就き、これは出入り管理や身体スクリーニングの仕事だった。
 5月20日頃から11月末まではゼネコンへ出向して、1号機のカバーリング工事に当たった。水素爆発で原子炉建屋5階のオペレーションフロアより上部が吹き飛び露出してしまったのに対応するために、仮の屋根カバーを付ける工事だった。放射線量が高い場所での工事だったが、恐れよりも使命感が勝り「やり遂げねば」の思いが強かった。現在はそのカバーは外されて、別の素材で建屋全体が覆われている。
 12月から翌年以降、ゼネコンによる除染業務(浪江・広野・楢葉)や地元の生コン組合・建設会社の放射線管理業務にあたってきた。これらはいずれも出向しての仕事であった。
 2015年10月には以前の会社を退職して、出向先であった生コン工場の社員として放射線を含めた管理業務にあたっている。
 放射線管理の仕事というのは測定結果を記録、報告し、それによって基準値を超えないように管理する仕事だ。しかし白髭さんは、事故後に事故前の基準値がどんどん引き上げられていくことに憤りを覚えた。また、規制が緩められて避難指示が解除されて住民の帰還が勧められていくことに危機感を感じて、個人的にボランティアで放射線測定を続けて記録し、情報を発信している。
 単身赴任状態はすでに10年が経つ。南相馬の家にはウクライナ製のシンチレーション測定器があり、これは飯舘村野手神の伊藤延由さんの「いいたてファーム」で京都大学の今中哲二さんを中心に開かれていた研修に参加していた時に、今中さんから紹介されて入手したものだ。白髭さんは空間線量や土壌、植物などの放射性物質濃度を測定していて、被災前には季節になれば当たり前に採取して食べてきた蕗や蕨などの山菜やキノコ、ヤマメなど渓流魚や、樹木、家庭の掃除機内の集塵など多岐にわたるものを測っている。そしてそれらを月毎に表にして、発信しているが、これは原発事故の被害実態を伝える貴重な記録だ。

片岡遼平さんの話

 フリーランスのフォト・ジャーナリストの遼平さんは、「原子力資料情報室」、「NPO人権センターHORIZON」のスタッフだ。3・11後は南三陸にボランティアに入り、以来南三陸へも通い続けている。線量測定や取材で福島に来ることも多く、今回はたまたま私たちのツアーと遼平さんの取材と日が重なって、しかも二晩とも宿泊場所に同じ宿を選んでいたという偶然が重なった。それで、日中は別行動だが夕食の膳は一緒に囲んだ。
 遼平さんからは、彼が書いた文章が載っている機関紙や冊子を時々いただいて読んでいた。父親が部落解放同盟の埼玉県委員長で、遼平さんもその組織で働いている。私が遼平さんと初めて会ったのは、小高で介護施設「彩葉(いろは)」を立ち上げた大井千加子さんに会いに行った時だった。今野さんの紹介で遼平さんも同行することになり、遼平さんはお父さんが介護関係の仕事にも関わっているということで、千加子さんの話を興味深く取材していた。以来時々顔を合わせていながら、ゆっくり話す機会もなく過ぎてきたが、今回は色々話を聞くことができた。

中筋純さんの話

 浪江小解体現場で会った中筋さんは、今夜は車中泊をすると言っていたのを双葉屋さんに一緒に泊まるようにと誘ったのだ。
 純さんは浪江小の撮影現場から移動してまた別の場の撮影を済ませてからの到着だったので、みんながあらかた食べ終えた頃に席に着いた。連日の屋外での撮影ですっかり日焼けしている。先月(6月)の私の福島行は15、16日だった。15日には浪江小の撮影現場で純さんに会っていたが、その時にはすでに解体が始まって何日か過ぎていた時期だったから、純さんはもう1ヶ月以上現場に詰めていることになる。日に焼けるのも無理はない。
 この春の「もやい展」(純さんが主宰した展覧会で、様々なアーティストが自身の表現方法で「フクシマ」を提示した)に合わせて刊行された純さんの写真集『コンセントの向こう側』(小学館)が、食堂の書棚にあったので、ツアー参加者の皆さんに紹介した。多くの人に手に取ってほしい写真集だ。

 「被災地ツアー」予定表では、この日に現地被災者から話を聞くということを予定していたが、それがこうして美春さん、白髭さん、遼平さん、純さんと4人ものゲストの話を聞くことができて実り多いツアーになったことが、とても嬉しいことだった。福島には美春さんや白髭さんのような人たちが居ることを、そしてまた遼平さんや純さんの活動を、多くの人に知って欲しいと願っている。
 「被災地ツアー」の報告は続きますが、1日目の報告は以上です。

いちえ

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。