『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗著/光文社新書)

 著者が全盲の木下路徳さんに、いま・ここにはないものや場所について頭の中で視覚的に思い浮かべること=想像力について話したときのことだ。小学校の時に弱視学級に学び、後に失明した木下さんはこう言ったという。
 「なるほど、そっちの見える世界の話も面白いねぇ!」
 私たちは、自分の見えているものを視覚障害者は耳や手足で補って把握すると考えがちだ。それは違う。町中のゆるやかな坂道を歩いているとき、目の見える人の視界は平地を伸びる道と左右に並ぶ店舗や街路樹だったりするのに対して、木下さんは自分がゆるやかな丘の上へ移動している姿を3Dのように把握する。
 木下さんは中途失明なので、丘のような三次元を思い描くことができるが、先天的全盲の人はどうだろう。
 視覚障害者のための生活補助用品に、はちまきのようにおでこに装着し、目の前の風景や映像を一瞬ごとにビットマップ化し、それを電気的な刺激に転換する装置がある。おでこはそれをスクリーンのように出力し、「物がそこにあること」「物が右から左へ動くこと」がわかるという。
 電車のなかで立っているとき、見えない人は足で列車の動きをサーチしている。スピードが遅くなることで次の駅に近づいているのがわかるだけでなく、線路のつなぎ目、ポイントの切り替え部などを察知し、電車の揺れに合わせて重心を移動したり、体勢を調整したり。リスクを予見するので、見える人よりも転ぶことは少ない。
 美術鑑賞も可能だ。5~6人のグループに見えない人が加わり、見える人が作品について言葉で説明する。その際には見えているもの=絵画の大きさ、色、モチーフといった客観的情報と、見えていないもの=感じたこと、印象、思い出した経験などの主観的情報を分けて話すのだが、客観的情報といえども、先天的全盲の人に色を説明する際、あなたは様々な言葉を駆使するだろう。主観的情報では絵画に触発された個人的な思い出などを聞くことによって、見えない人は「他人の目で物を見る」。お互いが補い合うことで、そこにたくさんの気づきが生まれる。
 ユーモアも大切だ。39歳のときにバイクの事故で失明した難波創太さんは、レトルトのパスタソースを使う際、形状が同じなので、ミートソースが食べたいときにクリームソースを温めてしまったりする。それを「くじ引き」のように「当たり」「はずれ」で喜んだり、残念がったり。匂いがしないのでネタがわからない回転寿司では、誰にも聞かず皿をとって口に運び、それが何であるかを当てる「回転ずしのロシアン・ルーレット」を楽しんだり。
 コロナ禍による3密回避が続くなか、視覚偏重の暮らしを強いられている私たちに、本書は、私たちが自分の身体の可能性をほとんど生かしていないこと、心の持ちようや考え方を限られた範囲内にとどめていることを教えてくれる。
 「『足が不自由である』ことが障害なのではなく、『足が不自由だからひとりで旅行にいけない』ことや『足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない』ことが障害なのです」
 著者の言葉を通して世の中を見直したい。

(芳地隆之)