保険会社勤務を経て30代半ばで弁護士になられた冨永さんは、会社員として身に付けた能力が弁護士の業務にも生きていると感じることが多くあるそうです。当時の具体的なエピソードを交えながら、弁護士としてどんな能力や知識が大切なのか、そして期待される役割についてお話しいただきました。[2021年8月21日@渋谷本校]
大手保険会社を辞めて弁護士に再挑戦
私は東京海上火災保険株式会社(現在の東京海上日動火災保険株式会社)という損害保険会社に勤務していました。損害保険会社というのは、事故が起こった際に保険金をお支払いするという商品を売っている会社で、典型的なものは自動車保険や火災保険といった商品になります。
会社の約9割が営業部門で、残りの1割弱は実際に事故が起こった時に内容を調査して、保険金を支払うことができるかを査定する部門になります。私はその査定部門の仕事をしていて、火災保険、傷害保険、機械保険など、自動車保険以外の査定はほぼ担当しました。
一旦はそうして会社員になりましたが、実は就職前に弁護士を目指して司法試験を2回受験しています。そのときは合格に至らず諦めたのですが、なぜまた弁護士を目指そうと思ったかというと動機は大きく3つあります。
一つは、実際に社会に出て大きな会社に入り、組織で働くことの難しさを感じたことです。自分なりに仕事へのプライドや正義感をもっていましたが、それを組織の中で貫くことはなかなか難しいことでした。パワハラのようなこともありましたし、商売ですから政治的な判断での意思決定もあります。そうしたことに対して納得感がもてず、社会に対する矛盾を強く感じることがありました。
二つ目に、保険会社では専門家の力を借りることがよくあります。そのなかでも一番よく使うのは弁護士です。保険金の支払い過程で、契約者などと紛争になることがあるからです。もちろん基本的に社員が対応するのですが、交渉がこじれたときや保険金詐欺が疑われる場合には、専門家の力を借りて事案を解決していきます。弁護士だけではなく、機械保険や土木工事保険、建設工事保険など、専門的な知識が要求される案件については、技術士といわれる方たちの協力を得ることもありました。
そのような方々と一緒に仕事をするなかで、専門家が知識や経験の裏付けをもって自分の意見を言い、それを貫けるところに魅力を感じました。私も会社の中で一生懸命働いているつもりでしたが、なかなか意見が通らず、しがらみのなかで違う方向に進んでいくのを体験すると、非常にストレスが溜まるものです。そういうなかで専門家の仕事の仕方がよく見えました。
そして三つ目に、大学時代に一緒に司法試験の勉強をしていた友達の中には、ずっと勉強を続けている人たちもいました。その友達が徐々に受かっていくのをみて、「自分も、もう一回受けたら受かるのではないか」と思ったんですね。司法試験制度改革で、昔に比べると受かりやすいという状況もありました。結婚をしていたので家族の理解が得にくいところもあったのですが、もう一度チャレンジしようと思い会社を辞める決断をしました。
組織のなかで働くうえで「必要なこと」
その後、運よく2回の受験で合格できましたが、あらためて思うのは、会社で仕事をするなかで身に付けた能力が弁護士としての業務にも生かされているということです。保険会社で働くことで、組織で働くうえで必要なことについても学びました。
たとえば、会社のなかでは「組織としての意思決定」が必要になってきます。司法試験の受験勉強をしているときは、いつ何を勉強するか全て自分1人で決めますよね。しかし、会社に入って仕事をすると1人で完結するものはほとんどなく、チームで行います。では、方針を決める時に誰の判断で決めていくのかというと、大事なことほどトップの人たちが決めていくのです。
そのときに迅速で的確な判断をするために必要なのが権限の配分です。会社の中で行う事業活動の一つひとつを、トップである社長が全部把握して判断していたら会社は回りません。重要性の低いものや影響の少ないものは、どんどん部下が判断して処理を進めていかなくてはいけません。そのように権限の分配をすることで、上の方にはより重要な案件だけがまわっていきます。
そのためには、各階層で判断をしながら、本当に大事な情報が早く的確に吸い上げられてトップが判断できるようなシステムが構築されていないといけません。そこで会社には稟議制度というものがあります。
私がやっていた査定の話をしますと、数十万円くらいの保険金の支払いであれば自分の判断で決裁ができました。それを超えると直属の上司である課長代理に報告して、課長代理の権限内で払うことになります。その権限も超えた額になると、さらに課長、部長、本店という風に稟議が上がっていきます。これは担当者にしてみると面倒くさいことでもあります。しかし、そうすることで、それぞれの経験や知見を生かしながらチェックを行えるので、最終的に会社として間違いのない判断ができるのです。
この話と近いですが「ホウ・レン・ソウ」という言葉があります。「報告」「連絡」「相談」ですね。これができない人は組織では生き残れないのではないかと思います。「報告」というのは、指示や依頼など何か任務を受けた人がその状況を知らせることです。一方、「連絡」は純粋に情報を共有することです。そして最後の「相談」は、物事を決定する際に他人に意見を求めたり話し合ったりすることです。報告をきちんとするのは当然ですが連絡や相談というのは自発的にやることなので、できる人とできない人に分かれます。
目的意識がしっかりしている人ほど、連絡や相談がきちんとできることが多いです。会社の中で自分に与えられた指示や命令が、全体の仕事の中でどういう意味を持つのか考えながら仕事をしているので、的確に連絡や相談ができるのです。ですから、仕事をするときに「何のために、これをやってるんだろうか」と考えることはとても大事です。
6回も書き直した稟議書から学んだこと
「仕事をするうえで大切な能力とは何か」をあらためて考えてみると、まずひとつには「全体像を把握する力・分析する力」があると思います。新入社員の頃は、とにかく言われたことをこなすことに精一杯で、全体は全く見えていませんでした。ある程度知識や経験が積み重なって、自分なりに仕事の全体図を分析できるようになって初めて、仕事の目的を意識できるようになったと思います。
次に「結論を考える力」です。先ほど稟議の話をしましたが、会社にいると恐ろしくたくさんの稟議書を書かされます。あるとき、直属の上司から稟議書の書き直しを6回もさせられことがありました。1回や2回直すことは結構あるのですが、さすがに6回は初めてでした。何度も書き直しをしたあとに、上司が「稟議書というものはこう書くんだ」と机の中から一枚の紙を出してきたんです。その稟議書を見た時には衝撃が走りました。「これぐらい分かりやすく書かないと、上の人は見てくれないんだ」ということが身に染みてわかったのです。
そのときに考えたのが「結論を考える力」の大切さです。それまで私は稟議書にすべてを盛り込もうとしていました。しかし書けば書くほどバランスが悪くなって、全体が分からなくなる。また結論も不明瞭でした。見せてもらった稟議書は結論が明確で、そこに至る道筋が端的にまとめられていました。この経験から、自分が考えたことをどう整理してまとめたら他人に上手く伝わるかを、すごく考えるようになりました。6回も書き直しをさせてもらったことは、会社人生の中でも貴重な財産だったと思っています。
この稟議書がうまく書けるようになったときに、「自分が学生時代に書いていた司法試験の答案は全然ダメだったんな」ということも分かりました。要するに、司法試験でも自分が勉強してきたことを「こんなに知っていますよ」と一生懸命に書いて、結論は自動的に出てくるものだと思っていたのですが、社会に出て実務を経験してみると、実は結論が一番重要で、その結論に至る筋道を端的に示すことが求められているのだと気づきました。司法試験は法曹の実務家になるための試験ですから、実務の処理に役立つ答案でなければ評価されないということをあらためて実感しました。
それから「他人を説得する力=交渉力」も必要です。火災保険一つとっても、お客様はさまざまです。企業の場合もあれば、一般のお客様の場合もあります。企業との交渉の場合は、理屈の話が通じやすいという特徴があります。保険の処理がこうで、計算方法はこうで、今回の事故に当てはめるとこうですよ、という理屈さえ通っていれば、それで終わるケースが多いです。
ところが、個人のお客様の場合はなかなかそうはいきません。理屈よりも、見積もり分の金額が全額払えるかどうかという結論部分がものすごく大事になるからです。この経験も現在の弁護士としての仕事に役立っていて、やはり企業のご依頼を受けて話をする場合と、個人のお客様と話をする場合では説得の仕方が変わってきます。
会社員時代に身に付けた力
「柔軟な判断力・決断力」も今の仕事に役立っていることです。たとえば事故の現場に行く前には、どういう契約内容か、どのような経緯でこの保険契約がついたのか、あるいは代理店はどこなのかなどを調べておきます。事前準備をしていないと現場で適切な対応ができません。どんなに準備しても想定外のことが起こることはあります。その時には、その場で判断をして解決していくという能力も要求されます。
また、「他人を上手に使う力・助けを求める力」もすごく大事です。性格にもよりますが、人に頼むことが恥ずかしく、うまく他人に甘えられずに頑張ってしまう人がいます。しかし組織の中では、自分の力量を知っていないと潰れてしまいます。急に他の仕事が入ってくるなど予想外のことが起きることも多いですから、そうした時に対応できずにパンクしてしまうんですね。自分の力を過信せず、みんなで仕事をやっているわけですから、力を借りなくてはいけない時には借りることも大切です。
それから、「情報の吟味・取捨選択」です。事故の報告があった際には、その時期や原因を確認する必要があるのですが、相手の説明が不正確だったり、中には保険金詐欺のような目的で嘘を言ったりする相手もいます。相手の話だけで判断したら、実態は全然違ったということを本当によく経験しました。こうした経験から、私は情報を鵜呑みにせず見極める癖がつきました。これらもすべて会社員時代に身に付いたことです。
弁護士業務に生かされていること
最後に、まとめになりますが、具体的に弁護士業務に生かされている能力についてお話しします。
まず企業法務全般においては、「お客様である企業が、弁護士の自分に何を求めているのか」をしっかり考えることが大事です。意思決定を最終的にするのは弁護士ではなく企業です。弁護士は専門家として、全体を見渡したときに見える結論と、そこに至る道筋をわかりやすく解説することが大事になってきます。
企業側もビジネスのことを考えて、弁護士が勧める選択肢をとらないこともあります。その際には、どんなリスクがあるのかをきちんと伝えて、そのうえで企業判断をしていただくというのが企業法務の本質だろうと考えます。それは最初にお話しした「全体を把握する・結論を考える」ことにも通じています。
それ以外にも、たとえば大型事件を扱う時には、何十人という相手から調査に必要な聞き取りをすることになります。1人から話を聞くのに最低でも1〜2時間くらいかかり、その記録も作らなくてはいけないので、とにかく時間がありません。全体像を把握して重要なところをおさえる聞き取り能力に長けていないと、効率的に仕事ができないのです。私の場合は、保険会社の時に大量に仕事を任されて、いかに効率よく処理するかということを日々考えて仕事をしていたことが役に立っていると思います。
相手と争う時に内容証明郵便を出したり、訴状などを作ったりするときには「文書作成能力」が必要で、やはり結論を考える力、端的に情報を伝達する能力が必要になります。「何を伝えれば相手に理解してもらえるのか」を考えて文書を作る基礎的な能力も、会社員時代に培われたものです。
そして、最後は「交渉力」です。訴訟で相手方に反対尋問を行う際には、事前打ち合わせがないので、どういう答えが出てくるのか当日まで分かりません。もちろん、ある程度シミュレーションはしますが、その場で判断して次の質問を考えていくことが必要になります。この証人尋問の際にも、会社時代にさまざまな契約者と交渉した経験が生きていると感じています。
司法試験の勉強をしている皆さんの中には学生ではない方も多数いると思いますが、今の仕事で経験していることが将来何かの役に立つと思います。勉強と仕事の両立は大変だと思いますが、一生懸命頑張っていただきたいというエールも込めて、今日のお話をさせていただきました。
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とみなが・しんたろう 1990年、東京大学法学部卒業。同年4月より1997年7月まで東京海上火災保険株式会社にて勤務。1999年10月司法試験合格。54期司法研修所修習生課程を修了後、2001年に第一東京弁護士会に弁護士登録。2001年10月より2002年9月まで椿法律事務所入所。2002年10月より、現在の弁護士法人松尾綜合法律事務所に入所。