第97回:勘違いに基づくバラマキ批判(森永卓郎)

財政均衡主義理論が破綻した

 財務省の矢野康治事務次官が、「文藝春秋」に発表した論文で、「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです」と財政危機を訴えた。総選挙に向けてすべての政党が給付金の支給を唱えるなか、バラマキ合戦に警鐘を鳴らすために書かれたものだ。国家公務員は、不偏不党であることが求められる。財政政策は、選挙の洗礼を受けた国会議員が国会で決めるべきもので、単なる「使用人」が政治家の掲げる政策を批判する資格はない。しかし、矢野次官が、あえてそのタブーを犯したのは、相当あせっていることの証拠だろう。
 これまで財務省は、一貫して財政均衡を主張してきた。借金を増やすと、国債や為替が暴落して、日本をハイパーインフレが襲うと警告してきたのだ。
 しかし、そこに不都合な事実が発覚した。新型コロナの感染拡大に伴う莫大な財政出動だ。昨年度、日本政府は102兆円も借金を増やし、そこで発行された国債の半分近く46兆円を日銀が事実上引き受けた。財務省が掲げてきた財政理論に従えば、いまごろ国債の暴落と円の暴落、そしてハイパーインフレが襲っているはずだった。ところが、そうしたことは一切起きなかったのだ。
 この結果は、「自国通貨建ての国債を発行する限り、財政破綻はあり得ない」とするMMT(現代貨幣理論)を勢いづかせた。高市早苗自民党政調会長が自民党総裁選で掲げた「物価安定目標の2%を達成するまでは、財政均衡を凍結してでも、危機対応の財政出動を行う」との考えは、このMMTに沿うものだ。こうした新しい経済理論の台頭が、財務省にとって、第二の誤算だった。
 これまで財務省は、有力政治家にご進講を重ねることで、財政均衡主義を「布教」してきた。日本一頭のよい人たちの集まりだから、彼らの説得力は高かった。消費税引き上げに反対していた民主党(当時)の野田佳彦氏が、財務大臣になってご進講を受けるなか、増税派に転じて、三党合意の消費税引き上げにまい進したことが、その典型だ。
 財務省の熱心な布教活動は、一般国民にまで及んでいる。財務省のホームページには、「主に営利を目的としない各種説明会、職場での研修、ゼミ、学校等で、日本の財政について、財務省・財務局職員がご説明致します」と書かれており、誰でも財務省のご進講を受けることができるのだ。
 こうした努力の積み重ねは、世論にもつながっている。NNNと読売新聞が10月中旬に行った世論調査では、58%の国民が「国の借金が増えないよう財政再建を優先すべき」と答えたのだ。
 ところが、そうした努力にもかかわらず、与野党がともに大規模な財政出動を政策として打ち出し、財政均衡凍結を表明する政治家まで現れたということは、財政危機ではなく、財務省の危機なのだ。

リベラルにも根深く浸透する財政均衡論

 古今東西、不況を克服する手段は、金融緩和と財政出動の二つしかない。アベノミクスがデフレ脱却に失敗したのは、大規模な金融緩和に踏み切る一方で、二度にわたる消費税率の引き上げという財政引き締めに出たからだ。アクセルとブレーキを同時に踏むようなおかしな運転をしたから、経済が復活しなかったのだ。これは私が言っているだけではない。例えば、安倍政権の下で日銀副総裁を務めた岩田規久男氏は、近著の『「日本型格差社会」からの脱却』のなかで、デフレから脱却できなかった理由は、安倍政権が財政赤字の縮小に向かったからだと述べている。
 財政緊縮が人々の暮らしを困窮させているにもかかわらず、リベラル勢力のなかにも、財政均衡にこだわる人たちは多い。しかし、私はそうした考えは、日本の本当の財政事情を知らないことから生まれた、一種の誤解だと考えている。

2020年3月末 賃借対照表 (単位:兆円)

資産の部 負債の部
金融資産 723 負債 1546
不動産等 300 資産負債差額 523
合 計 1023 合 計 1023

 財務省の「国の財務書類」という統計によると、国立病院や国立大学などを含む「連結ベース」で、昨年3月末の日本政府の負債は1546兆円となっている。一方、日本政府は1023兆円と世界最大の資産を抱えているから、ネットの負債(資産負債差額)は、523兆円だ。この額は、2020年度のGDP537兆円を下回っている。GDPと同程度の資産負債差額というのは、先進国としては、ごく普通の負債の水準だ。
 しかも昨年3月末で日銀が保有している国債は486兆円だ。日銀が保有する国債は、借り換えを繰り返していけば、事実上、元本返済の必要がない。しかも支払った利息は、国庫納付金として政府に還ってくる。つまり、国債は日銀が買った瞬間に借金ではなくなるのだ。
 この点は分かりにくいかもしれないが、ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツ・コロンビア大学教授も、「日銀と政府を統合政府として考えれば、日銀が保有する国債を負債としてカウントする必要はない」と言っている。
 もう一つの見方をすると、日銀が国債を引き受けて、代金として一万円札を発行した場合を考えるとよい。発行された一万円札は1万円として通用するが、一万円札の製造コストは20円だ。つまり、一万円札を発行すると、コストを差し引いて9980円の利益が生まれる。私はそれを「通貨発行益」と呼んでいるが、それは誰のものだろうか。私は国民のものだと考えている。そして、日銀が国債を引き受けた分は、この通貨発行益で相殺されるので、負債としてカウントする必要がなくなるのだ。
 そこで、資産負債差額から日銀の国債保有分を差し引くと、日本政府が抱える実質的な借金は37兆円と、ほとんどゼロになる。日本の財政は、主要国のなかで最も健全な状態なのだ。
 もちろん国債の中央銀行引き受けは、やりすぎると高インフレという副作用を招く。しかし、昨年度日銀は46兆円も国債保有を増やしたが、インフレの気配はまったくなかった。だから、個人的には毎年50兆円程度の国債を日銀に引き受けてもらっても、何の問題も起きないと思う。50兆円の財源があれば、政策の自由度は大きく広がる。万が一高いインフレが来たら、その時点でバラマキをやめればよいだけの話だ。無借金のいまこそ、財政出動に踏み切るべきなのだ。

50兆円でできること

 それでは、50兆円の財源があれば、何ができるのかを考えてみよう。第一は、消費税率をマイナス10%に引き下げることだ。消費税をゼロにするだけでなく、買い物をすると、10%の還元を受けられるようにするのだ。消費税は収入に対する負担率が低所得層ほど大きくなる「逆進性」があることが知られているが、消費税率をマイナスにすれば、低所得者ほど手厚い生活支援を受けられるようになる。現在の消費税収は地方分も含めると27兆円に達するから、50兆円程度の財源で、消費税マイナス10%の政策が可能になるのだ。
 第二の政策は、年金制度の抜本改革だ。自民党総裁選挙で河野太郎行革担当大臣(当時)が提唱した年金制度改革は、基礎年金を全額消費税財源の最低保障年金に変えるとともに、積立方式の所得比例年金を導入するというものだった。この提案は、年金制度改革としては、理想的なものだ。税財源の最低保証年金を導入すれば、年金の未納期間があったとしても、一律の年金が受け取れる。また、低所得者に大きな負担となっている月額1万6610円の国民年金保険料がなくなれば、低所得者の生活はすぐに改善する。また、所得比例年金を積み立て方式に転換すれば、現状程度の年金が将来にわたってずっと受けられることになる。現在の厚生年金月額は14万6162円、国民年金は5万6049円だから、専業主婦世帯夫婦の年金月額は20万2211円となる。けっして大きな金額ではないが、質素に暮らせば、ギリギリ暮らせる年金だ。
 問題は、この改革にどれだけの財源が必要になるのかということだ。まず、最低保証年金の導入に関しては、基礎年金と国民年金の受給権者が3629万人だから、毎月5万6049円を一律支給するために年間24兆4000億円の財源が必要になる。
 もう一つの問題は、積立方式への転換だ。もともと日本の公的年金制度は、積立方式を目指していたが、高齢者への年金給付を優先するため、積立金を使い込んでしまった。現時点で積立不足は750兆円に及ぶとされている。この積立不足を例えば30年かけて解消しようとすると、年間の負担は25兆円だ。
 つまり、最低保証年金の導入と所得比例年金の積立方式への転換は、49兆4000億円の財源で実現できることになるのだ。
 50兆円でできる第三の政策は、一律の現金給付を全員に行うベーシックインカム制度の導入だ。例えば1人当たり月額3.5万円の給付を行えば、貧困の問題も、老後の不安もかなり解消できる。一家4人で毎月14万円の給付が受けられるのだから、大都市にしがみついて、低賃金・重労働を続けるといった暮らしを避けられるようになる。地方の環境のよいところに移住して、有機農業をしながら、子どもを伸び伸びと育てるといったライフスタイルを選択できるようになるのだ。
 こうした政策が、国の財政実態をとらえなおすだけで、誰の追加負担も求めずに実現することができるのだ。だから、いま一番必要なことは、まじめに日本の財政状態を見極めることなのだ。

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森永卓郎
経済アナリスト/1957年生まれ。東京都出身。東京大学経済学部卒業。日本専売公社、経済企画庁などを経て、現在、独協大学経済学部教授。著書に『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)、『年収120万円時代』(あ・うん)、『年収崩壊』(角川SSC新書)など多数。最新刊『こんなニッポンに誰がした』(大月書店)では、金融資本主義の終焉を予測し新しい社会のグランドデザインを提案している。テレビ番組のコメンテーターとしても活躍中。