イギル・ボラさんに聞いた:虐殺の記憶を抱えた人々は、今をどう生きているのか──韓国軍によるベトナム民間人虐殺事件と映画『記憶の戦争』

かつてベトナム戦争のさなか、米軍とともに参戦していた韓国軍の兵士らが、現地の非武装の住民たちを虐殺するという事件が起こりました。戦後も韓国では大きく取り上げられることのなかったこの「ベトナム民間人虐殺事件」を、生存者らの証言を通じて描き出したのが、日本でも今年11月6日より全国順次公開される映画『記憶の戦争』。監督のイギル・ボラさんにとっては、ろう者である両親の日常を描いたドキュメンタリー『きらめく拍手の音』(2014年)に続く二作目の長編映画となります。なぜ、このテーマと向き合うことを決めたのか? お話をうかがいました。

祖父はベトナム戦争の「勇士」だった

──ボラ監督の最新作『記憶の戦争』は、ベトナム戦争に派兵された韓国軍によるベトナムの民間人虐殺事件(※)がテーマとなっています。このテーマに関心をもたれたきっかけからお聞かせください。

※韓国では1964年から73年にかけて、ベトナム戦争にのべ30万人以上の兵士を派兵した。その中で、韓国兵によるベトナム民間人虐殺事件が複数の場所で起こったといわれており、本作で取り上げられているのはその一つ、フォンニィ・フォンニャット村の虐殺事件(1968年)。これらの虐殺事件については、1990年代末から韓国の市民団体などにより調査が進められてきたが、韓国政府および韓国軍は事件の存在そのものを認めていない

ボラ 私の父方の祖父は、韓国兵としてベトナム戦争に参加した、いわゆる「参戦勇士」の一人でした。祖父の家には、当時政府から贈られたという勲章や表彰状が飾られていて、私は小さいころからそれを見て育ったんです。祖父は自分のことをいつも「軍人」ではなく「勇士」と呼び、ベトナムで戦った経験を誇らしげに語ってくれました。私もある年齢まではそのことに特に疑問も抱かず、ただ「おじいちゃんは勇敢な兵士だったんだ」とだけ思っていたんです。
 ところが成長するにつれて、ベトナム戦争についてそれとは違う「事実」を知ることになりました。一つは、高校の現代史の時間に学んだ、「ベトナム戦争に参戦したことで、韓国は急激な経済発展をとげた」という事実。そしてもう一つが、20代の前半にある本で読んだ「韓国軍はベトナムで民間人を虐殺した」という事実でした。
 それによって、私には三つの異なる「ベトナム戦争」像が見えてくることになりました。祖父が勇敢な兵士として参戦した戦争、韓国が経済発展するきっかけになった戦争、そして自国の軍が民間人を虐殺したという、非常に恥ずかしい事件が起こった戦争。その三つの姿が自分の中に共存している。とても混乱して、果たして何が真実なんだろう、そこで何があったんだろうという疑問が生まれてきたのが始まりです。

グエン・ティ・タンさん。『記憶の戦争』より

──監督がその本を読まれたころは、韓国社会では「ベトナムでの民間人虐殺」について、どの程度知られていたのでしょうか?

ボラ それより前から新聞などで少しずつ報じられてはいたので、進歩的なマスコミや知識人、市民運動家などの間では一応認識されていたと思います。ただ、広く知られていたとはいえないし、知って、そこからどうしたらいいのか、謝罪以外にできることはあるのかといった議論はまったくされていない段階でした。

──映画は、虐殺を生き延びた被害者の方たちの証言を中心としてつくられています。映画に出ている方たちとは、どのように出会われたのですか。

ボラ 「映画をつくろう」ということを決めた後も、真っ先に現場に行くということはしませんでした。まずは韓国でこの問題に取り組んでいる市民団体と連絡を取り、その活動に参加させてもらうことから始めたんです。
 映画の主人公3人のうちの2人、虐殺で家族を失ったグエン・ティ・タンさんと、韓国兵からの暴力による後遺症で視力を失ったグエン・ラップさんとは、その団体を通じて知り合いました。そしてもう1人、後で現地に行ったときに、私の両親がろう者だということを知っている人に「会ってみたらどうですか」と紹介してもらったのが、聴覚障害のあるディン・コムさんです。

──耳の聞こえないディン・コムさんが、身振り手振りで虐殺当日の様子を語る場面は、映画の中でもとりわけ印象的でした。監督が話される韓国の手話とベトナムの手話は当然異なるのでしょうが、どのようにコミュニケーションを取られたのでしょう。

ボラ コムおじさんが使っている「言葉」は、実はベトナムの公式の手話とも違うものなんですね。おじさんは学校にも、手話教育の機関にも通ったことがなく、周りにも手話を使う人がいなかったので、手話を習得する機会がなかったと聞きました。彼が使っているのは、ホームサインとかサインランゲージとか呼ばれる、家族や身近な人と意思疎通するために自ら作り出したサインのようなものです。
 だから、最初は大変でした。これが「虐殺」、これが「銃撃」、これが「お母さん」……というふうに単語を一つひとつ確認しながら、手話や絵や、身振り手振りをまじえて少しずつコミュニケーションを取っていきました。
 コムおじさんの証言はとても貴重なものですが、歴史の事実として、あるいは証拠資料として公式に記録されることはとても難しいと思います。彼が使っているホームサインは公式な言語ではないし、的確に通訳できる人はほとんどいないからです。けれど、映画というメディアの中でなら、彼が虐殺の様子をどのように見たのか、どう記憶しているのかを伝えることができる。その意味でも、コムおじさんという人を映画の中で紹介するのはとても重要だと思いました。

ディン・コムさん。『記憶の戦争』より

1年以上、カメラを持たずに通い続けた

──取材は、どのように進められたのでしょうか。つらい経験を話してもらうということで、困難な点もあったのではないですか?

ボラ ドキュメンタリーを撮影する上でもっとも大切なのは、登場してもらう人たちとどのような関係を築くかです。特にこの映画は「虐殺」がモチーフであり、登場人物たちは実際にその虐殺を経験した人たち。さらには、撮影する側の私はいわば加害国から来た人間ですから、取材を進める上では本当に細心の注意を払いました。
 最初に現地に行ったときは、カメラは持っていったけれど一切その場には出しませんでした。いきなり撮影をするのではなく、彼ら、彼女らと一緒に時間を過ごすことが大事だと思ったからです。ただ話をしたり、法事などの儀式に参加したりしながら1年以上を過ごした後に、ようやく本人たちの同意を得て、本格的に撮影を始めることができたのです。

──話を聞く上で、心がけておられたことなどはありますか。

ボラ 生存者の方たちにとっては、虐殺事件当時の話をするというのは「その日に戻ること」です。そのときの空間にもう一度自分の身を置いて、そこに戻ったような気持ちで話さなくてはならない。ふだんは記憶に残したくない事実を日常生活の中に持ち込むという、非常につらい時間を強要することになるんですね。
 韓国から人が話を聞きに来るということがわかると、生存者の人たちは皆さん、「虐殺についての話をしなくてはならない」と考え、そのための心の準備をすることになります。そして、話し終わって私たちが韓国へ帰った後、今度は虐殺の事実を自分の記憶からもう一度外すという作業をしなくてはなりません。当事者にとっては非常に長くてつらい時間だろうと思います。
 撮影のために証言を聞くのはもちろん大事だけれど、当事者の人たちにそうしたつらい思いを味わわせることが、果たして倫理的なことといえるのだろうか、と感じるようになりました。ですから、この映画では虐殺だけに焦点を当てて詳細にその様子を聞き出すようなことはしていません。むしろ、被害を受けた人たちが今、どんな生活を送っているのか、どんな生き方をしているのかを映画にしたいと考えたのです。

──市民団体が主宰した「市民法廷(※)」の場面でも、事実認定や裁判そのものの流れよりも、原告として出席したグエン・ティ・タンさんの発言がクローズアップされていたように感じました。

※市民法廷……2018年4月に韓国・ソウルで開かれた民間の模擬法廷で、正式名称は「ベトナム戦争時期の韓国軍による民間人虐殺真相究明のための市民平和法廷」。韓国政府に対するベトナムでの民間人虐殺の責任を問うもので、主審は政府の責任を認める判決を出した(民間法廷のため、法的拘束力はない)

ボラ もっと裁判の結果に焦点を当てて、痛快な終わり方にすべきだったと思う人もいるでしょう。でも私は、もっとも重要なのはタンおばさんがベトナムから来た理由だと思いました。彼女が法廷で「もしこの場に私の母を殺した人、村を襲撃した軍人がいるのなら、この場で私の手を握って謝ってほしい」と、自分の望みを語ったこと、それこそがこの映画でもっとも映さなくてはならない部分だと感じたのです。

グエン・ティ・タンさん。『記憶の戦争』より

──市民法廷の場面でも、タンさんを迎える韓国の市民団体のメンバーや女子学生たちなど、女性同士のつながりがとても印象的でした。撮影監督やプロデューサーなど、制作スタッフはすべて女性だったそうですが、それが映画に与えた影響はあったのでしょうか?

ボラ たしかに結果的には女性ばかりのメンバーになりましたが、特に「生物学的に女性のスタッフだけで映画を作ろう」と意図していたわけではありません(笑)。私が一緒に仕事をしやすいスタッフ、作業を進めやすいスタッフに声をかけていったらそうなった、ということです。
 ただ、これまで戦争や虐殺というものは、多くが男性の視点で語られてきました。それを非・男性の視点で見つめたらどうなるのだろうということは最初から考えていましたし、制作の過程でも「男性視点とは違う見方とはなんだろう」ということについて、スタッフみんなで悩み続けました。結果として、これまでにない切り口で戦争や虐殺というものをとらえることができたのではないかと思っています。
 たとえば、主人公を誰にするか、どういう人の話に耳を傾けるかという点によっても、映画のあり方は大きく変わってくると思うのですが、この映画では女性が語り、聴覚障害のある人が語り、視覚障害のある人が語っています。こうした人たちの声を伝えるということも、女性の視点だからこそ可能になったのではないかと考えています。
 また映画の中では、タンおばさんが亡くなった人たちを弔う祭祀に参加する様子を繰り返し描いています。しかしそれだけではなく、彼女が食事の用意をしたりと、家族の面倒を見るために立ち働く様子にもカメラを向けました。タンおばさんという人が、家族や共同体における自分の役割、女性としての役割を非常に大切にしている人だと感じたからです。そうした視点も、男性が撮る映画とはまた異なっていたのではないかと思います。

誰もが、常に加害者になる可能性がある

──かつてベトナム戦争に参加した元軍人たちが「虐殺などなかった」と主張する場面もありましたが、映画公開後の韓国国内での反応はどうだったのでしょうか?

ボラ 本当にさまざまな反応がありました。まず、10〜20代の若い世代からは、やはりこの虐殺事件について「知らなかった」「初めて聞いた」という声が多かったですね。教科書にも載っていないですし、主要メディアで大きく報道されることもないですから。
 それより上の世代でも「初めて知った」という声は少なくありませんでした。ベトナム戦争に参加した親戚や知人から聞いていた話と大きく違うというので「自分がこれまで聞いてきた話は何だったのだろう」と、新たに疑問を抱いた人も多かったようです。
 もちろん「じゃあどうしろというんだ」「戦争なのに、一人も殺さずにいられるわけがないだろう」といった反発の声もありました。「(英雄である)軍人たちを加害者や殺人者として扱うべきではない」という主張も聞かれましたね。
 ただ社会全体の流れとしては、こういった恥辱的な歴史の事実があるのであれば、きちんと謝罪すべきではないかという方向に向かっているように感じます。 

『記憶の戦争』より

──一方、日本では近年、日本軍「慰安婦」の存在を否定するなどの歴史修正主義的な動きが強まっています。自国の戦争責任との向き合い方について、どうお考えになりますか。

ボラ そこには、とてもシンプルな答えがあると思います。韓国で「MZ世代」といわれる、ベトナム戦争が終わってから生まれた世代の若者たちを見ればそれは明らかです。
 彼らの多くは、ベトナムでの虐殺の事実を知っても、「今まで日本が加害者で韓国はその被害者だと思っていたけれども、自分たちの国も同じようなことをしていたんだ。それなら、日本も謝るべきだし韓国も当然謝罪するべきだ」と、とてもクールに、シンプルに考えています。やったことはやったこととして、謝罪すべきところは謝罪する。そして再発防止のためにどうしたらいいかを考えるべきだ、というんですね。私たち大人も、そうした視点を持つべきだと思います。
 やったことを「やっていない」と包み隠して解決できる問題ではありません。そして、常に善良な人や民族、常に被害者であって絶対に加害者にならない国などというものは、世界のどこにも存在しない。誰もが加害者になる可能性があり、戦争というものもいまだに世界中で起きているわけです。私たちは、過去の事実を否定するためではなく、その事実をどういうふうに記憶して、同じ過ちを繰り返さないためにはどうしたらいいのかについて考えるために頭を悩ませるべきだと思います。

──ありがとうございます。最後に『記憶の戦争』というタイトルに込めた思いをお聞かせください。

ボラ ベトナム戦争はすでに終わった戦争ですが、「記憶の戦争」は今も続いています。映画に登場する生存者たち、ベトナムという国、韓国という国、それぞれが違う記憶を持っていて、その記憶による「戦争」を続けている。そのことをどう見るのか、私たちが歴史をもう一度見つめ直したときに、どのような記憶を残して生きていくべきなのか。映画を見た皆さんに、そう問いかけたいと思っています。

(構成・仲藤里美)


映画『記憶の戦争』
東京・ポレポレ東中野にて11月6日(土)より公開、他全国順次公開
公式サイト https://www.sumomo-inc.com/kiokunosensou

©Yoon Songyi

イギル・ボラ●1990年、韓国生まれ。映画監督、作家。ろう者である両親のもとで生まれ育つ。18歳で高校中退、東南アジアを旅した後、旅行記「道が学校だ」(2009)と「ロードスクーラー」(2009)を出版し話題になる。帰国後、韓国芸術総合学校で映画製作を学び、自身の両親を温かい視点で描いた『きらめく拍手の音』(2014)を制作。第14回山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品、第8回女性人権国際映画祭では観客賞を受賞した。2019年にオランダ・フィルムアカデミーを卒業した後、ベルリナーレ・タレンツ2020に選出され新プロジェクトが進行中。現在はソウルと福岡を拠点に活動している。日本で出版された著書に『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』(矢澤浩子訳、リトル・モア)がある。