衆院選以降、強まる「改憲に向けた論議を」の声。もちろん、必要に応じて憲法を変えることは否定されるべきではありませんが、具体的な、しかも法律ではどうしても対応できない問題を解決するためではなく、「変えること」そのものが目的になっているかのような「改憲論議」は、あまりにもおかしいと感じます。同時に、「憲法に緊急事態条項がなかったから十分なコロナ対応ができなかった」など、事実に基づかない主張がまことしやかに語られていることにも、危機感を抱かずにはいられません。
「憲法についての論議を」というならば、まずは憲法の意味や役割について、十分に知ることが必要なはず。ここでは、マガ9がこれまで掲載してきた、そして再度多くの人に読んでもらいたい、「憲法」に関連するコンテンツを不定期で紹介していきます。
今年12月9日、大阪高裁は、「卒業式の国歌斉唱時に起立せず、起立斉唱の職務規律に従うかの意向確認にも答えなかったことを理由に定年後の再任用を認められなかった」という大阪府立高校の元教諭に対し、損害賠償を支払うよう府に命じる判決を出しました。地裁判決からの逆転勝訴となる画期的な判決ですが、一方で「意向確認自体は憲法19条が定める思想良心の自由には違反しない」とされたことはとても残念でした。
1999年に「国旗及び国歌に関する法律」が定められた際、政府は「君が代の斉唱や日の丸の掲揚を強制するものではない」と明言していました。しかし実際には、大阪や東京などで、何人もの教員が「君が代を歌わなかった」「起立しなかった」ことを理由とする処分を受けています。式の進行を妨害したわけでもない、授業などの本来業務を放棄したわけでもない、ただ静かに自身の意思を示しただけの人を処分することが、本当に「思想良心の自由に反しない」のでしょうか?
今回紹介するインタビューは、2007年掲載のもの。政治団体「一水会」創設者で、「日本一の愛国者」を自認する鈴木邦男さんに、「愛国」についてお聞きしています。「思想良心の自由」とは何か、「愛国」とは何か、改めて考えてみたいと思います。
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2007年8月1日UP
鈴木邦男さんに聞いた(その2)
愛国とは、強要されるものじゃない
憲法違反の公安警察を、まず逮捕すべきだ
──鈴木さんは前回、憲法を改正するなら、表現の自由をもっと幅広く認めるべきだ、とおっしゃっていました。しかし、現実にはマンションの郵便受けに「イラク派兵反対」のビラを配っただけの人が逮捕されるなど、近年どんどん締め付けが厳しくなっているという気がします。
合法のはずのデモをやっても集会をやっても、公安警察に眼をつけられて弾圧されるということがひどくなっている。デモなんかやるのにも、ものすごい面倒くさい手続きが必要で、その上バチバチ写真を撮られたり、挑発されたり。だったらそんなの一切出ないで隠れて非合法闘争をやろうとか、ネットでやろう、ということになりますよね。
──ネット上での政治的な発言が活発化、あるいは過激化しているのは、そういった理由もあるのかもしれませんね。
鈴木さんは『公安警察の手口』という本の中で、「治安の悪化で現場の警察官の人手不足が深刻になっている状況下でも、公安警察はそちらに余剰人員を回したりせず、自らの巨大な組織を守ろうとしている」という批判をされていましたね。
だって、60年代後半の学生運動と比べたら、今なんて政治的な活動に参加している人は、右翼と左翼両方合わせても1万分の1くらいでしょう。それなのに、公安の数は変わらないんですよ。
──実際問題として、そこまでの数が必要なんですか?
まったくいらないですよ。だけど、国際テロが、とかなんとか理屈をつけて仕事を増やしている。以前、公安の元幹部という人と対談をしたときには、「公安なんてもう必要ないでしょう」と言ったら、「いや、でもアルカイダとかに呼応する勢力が日本でもいるかもしれないし」と言っていました。さらには、「右翼は今だらしがない、右翼の本質はテロなのに、鈴木君のようにただべらべらしゃべってるだけじゃ駄目だ。本来の姿に戻れ」とまで言い出した。そういうふうに、公安が煽っているところもあるんですよ。僕はもう、そんな時代じゃないと思うんですけどね。
もちろん、公安が首相官邸を守ったりするのは自由にやればいいけど、「こいつは犯罪を起こすかもしれない」と、人間の良心にまで立ち入ったり、ビラ貼りやちらし配りという表現行為だけで逮捕するなんて、それはもう確実におかしいですよね。完全に憲法違反なんだから、本当はそんなことをやる公安をまず、人民の権利において逮捕しなくちゃいけないんですよ。
「安全を求める」気持ちが利用されている
──そうして政府からの締め付けが厳しくなっていることはもちろん問題ですが、それ以上に懸念すべきなのかもと思うのが、国民がそれをかなり簡単に「受け入れてしまっている」ことです。監視カメラの問題もそうですし、マンションのビラ配りの件もそうですが、「自由が制限される」ことに対しての不自由さ、怖さがあまり認識されていない、という気がするのですが。
僕は、学生運動をやったり右翼の運動をやったりしていた中で、さんざん公安にいじめられたり逮捕されたりしましたから、そんな締め付けや監視なんて冗談じゃない、と思います。でも、そういう体験はなかなか次の世代に伝わらないんですよ。
だって、一水会の後輩たちだって、僕が『公安警察の手口』を書いたときに、「どうして鈴木さんはそんな本を書いて、公安に対する憎悪を煽るんですか?」と言うんですよ。「だって、尾行とか嫌がらせとか、事実やられてるだろう?」というと、「何も感じません」。「街頭で演説しているときだって、公安が聞いてるだろう」と言っても、「でも、単なる聴衆の一人ですから」。これは駄目かなあ、と思いますよね。
ましてや一般の人は、右翼や左翼の活動家が「言論の自由の弾圧だ」とか「不当逮捕だ」などいろいろ言っても、「それは、おまえたちが捕まるようなことをあえてしているからだ」と思うでしょう。「自分たちは(そんな特殊な活動はしないから)警察がいてもらったほうがありがたい。子どもの安全も守れるし」と。そういう感覚なんですよね。
──自由というものが、これまであまりにも当たり前にあったから、それを制限されるということに対しての恐怖感や嫌悪感が薄いということでしょうか。
また警察が、そういう感覚を利用するのがうまいんです。マンションのビラ配りの一件にしても、やり方がうまいんですよ。住民のところに行って、配られていたビラを見せて「これを郵便受けに入れてるのは過激派ですよ。何人も人を殺してます。そういう奴にうろうろされてたら怖いでしょう? お宅にはお子さんもいるし」なんてことを言う。そりゃあ誰でも、「近寄らないようにしてくれ」と簡単に署名しますよ。その署名を根拠にして、公安が逮捕しちゃう。
署名した人たちが本当に「逮捕してくれ」とまで思っているかといったら、おそらく思ってないですよ。ただ、自分たちの幸せな家庭を守りたい、過激な人はなんとなく怖いから困る。それだけですよ。
──それをうまく利用しているわけですね。最近の、監視カメラの急増もそういう図式によるもののような気がします。
そうですよ。最初のうちはみんな「自分たちが監視されるなんて冗談じゃない」と思っていた。それがそのうち「防犯カメラ」になって、今は「セキュリティカメラ」。セキュリティならいいかな、なんてつい思っちゃいますよね。そういう市民感情をくみ上げるのが、警察は本当にうまい。と同時に、住民の側がそういう警察の力を求めてしまっているのも事実なんです。それがかなり怖いなあと思いますね。
──警察の力が強まることによって、自分が監視される側になるんじゃないか、窮屈な社会になるんじゃないか、という方向にはなかなか思考が行かない…。
「戦争をしやすい国にするために監視国家にしてるんだ」とか、「警察は軍事国家を目指してるんだ」と言っても、それは左翼の論理だとか、「過激派は野放しにしたら危ないから監視しなきゃいけないんだ」という反応が返ってきたりする。やはり思想戦争の次元では、警察のほうが勝ってますね。何か、もっと別の切り口で訴えていかなくちゃいけないのかな、という気がします。その上で「自分の問題だ」と気付かせなくてはね。
「愛国心」を測ることは誰にもできない
──さて、近年、卒業式などでの日の丸掲揚や君が代斉唱、また通知票評価項目への「愛国心」の取り入れなど、学校の現場を中心として、官からの「愛国心」の押しつけが非常に厳しくなっています。昨年末に「改正」された教育基本法にも、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」といった文言が加えられました。
鈴木さんは昨年出版された『愛国者は信用できるか』という本の中で、ご自身を指して「愛国運動を40年もやってきた、君が代は5000回は歌った、これ以上の愛国者はいないだろう」とおっしゃっていますが、こうした「愛国心」をめぐる状況については、どのように見ておられますか。
そもそも、愛国心なんていうのは精神の問題なんだから、「俺は愛国心がある、おまえはないだろう」とか比べること自体が不毛だと思うんですよ。僕が学生運動をやっていたときも、「俺が一番国のことを愛してる」とか、「天皇のためならいつでも死ねる、おまえにはそんな根性ないだろう」とか、そんな論争があったけど、結局声の大きい奴、しつこい奴が勝っていただけ。しかも、そうやって大きな声をあげていた奴らは、みんなとっくに運動をやめちゃいましたからね。愛国心なんて、誰かが測れるものじゃないんですよ。
──通知票につけるというのも、どのように判断しているんでしょうね。
「私は日本が好きだから」とか言えばAで、となりの何とかちゃんは自民党を批判したからDとか?(笑)
そもそも、歴史上の偉人を例に挙げて愛国心を教える、とも言われているけれど、誰を取り上げるのか。楠木正成とか乃木将軍とかを教えるんでしょうか。彼らだって、時代が変われば愛国者だし、また別の時代なら反逆者ですよ。新撰組だって、京都で天皇のために闘ったんだから、愛国者かもしれないですね。白虎隊とか、西郷隆盛とか。
そんなふうに、その時々の政府の判断で「愛国者」を決められたりしたらたまらない、と思います。
──今年の春、政府の教育再生会議が、「子育ての留意点や教えるべき徳目などを盛り込んだ」として「子育てを思う」と題する緊急提言を発表しようとしました。結局、あまりにお粗末な内容だったので、各方面からの反対の声によって断念しましたが、それに象徴されるように「正しい国民」とはこういうもの、という型に、どんどんはめられようとしている気がします。
以前、独身税をつくれという議論がありましたよね。少子化が問題になっているから、どんどん結婚して子どもを産め、独身は罪だから税金を取れ、と。そうなると、私なんかはもう、立派な非国民ですよ(笑)。「国民はどうやったら幸せになれるのかもわからないから、その道筋を我々政府が考えてやるべきだ」というふうに、思い上がっている気がしますね。
──そういえば、『愛国者は〜』の中で、日本には謙譲語があって、自分の身内や属するもののことは、愚息、弊社、なんていうへりくだった言い方をする。であれば、国についてだって、愚国、弊国とでも言えばいい。自分だけが高みにたって「愛国」、「この国を愛する」なんていうのは傲慢だ、と書いてらっしゃいました。国民も、政府も、どこか傲慢になっているということでしょうか?
そうかもしれません。本当は外に対してはへりくだって、弊国、愚国と呼ぶくらいでちょうどいいのに。安倍首相は「美しい国」というけれど、国家が美しくある、というのはちょっとどうかと思う。国民一人ひとりが、そして国家が謙虚である、そのほうがずっと日本的であり「美しい」のではないでしょうか?
※(その1)はこちらから読めます。
(すずき・くにお)1943年生まれ。1967年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社、その後1972年に新右翼「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)などがある。
※プロフィールは初出当時