第199回:五輪、コロナ、戦争……(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

春が近いけれど……

 腰痛がただ事じゃなくなった。それでも、少しは運動しなさいと、医者に言われて、そろりそろりと近所を散歩。座っていれば楽なので、車の運転は支障ない。そこで、近所の公園まで車で行って、公園を少し散歩、というパターンが続いている。
 家の近所も、むろん散歩コース。仲良しの近所のご老人(ぼくももう後期高齢者だが、ぼくより年上なので、敬意を込めて「ご老人」と言わせていただく)と、立ち話する。そのご老人宅の河津桜が、ほんの少し咲き始めた。うん、もう春も近い。心なしか、風にちょっぴりやわらかさを感じる。
 我が家の庭の隅の沈丁花が、これも微かにつぼみを膨らませ始めた。いい匂いが漂いだせば、春だ。半野良猫のナゴは、今日も食っちゃ寝食っちゃ寝のグータラ生活。ホッカイロを入れてあげた猫小屋で、日がな一日トロトロ気分。でもこいつももう15歳を過ぎている。いつまでぼくらを楽しませてくれることやら……。
 世の中、疲れそうなニュースばかりだから、たまにはこんなふうに身の周りを見回してみるのもいい。

熱狂五輪の後味悪さ

 やっとオリンピックが終わった。あの放送の騒がしさにはうんざりしていたのだ。とにかくうるさい。「やった! やりましたっ! 〇〇選手、涙の銅メダルだあーっ!」の絶叫アナウンサーと、「もう、〇〇さんのここまでの苦労や頑張りを思うと、言葉もありませんね、涙が出ますっ!」と、感動に感動を重ねあげる名も知らない解説者。その感動場面を、何度も何度も再放送するテレビ局。
 すっかりスポーツ・チャンネル化したNHKなどは、ついに20日は熱狂、お昼のニュースを吹っ飛ばしてカーリング中継。いや、決勝進出で舞い上がったのは分かるよ。けれど普通なら、12時になったら中継はサブチャンネルへ誘導して、定時のニュースはやるのが当たり前だった。それがこのありさま。開いた口が塞がらなかった。コロナもウクライナもカーリングよりは価値がないとNHKは判断したんだろうな。では何のために、あんなにたくさんのチャンネルをNHKに与えているのか?
 新聞を開けば、これまた感動の「押し売り新聞」。どの一般紙もまるでスポーツ新聞かと思われるような紙面作り。ぼくは、こんな「感動漬け」になるために新聞をとっているんじゃない。スポーツ面は飛ばしてしまうから、いつもより読む分量が半分になっちまった。購読料を半分返してほしいようなもんだ。でもさ、人間って、そんなに簡単に「感動」するもんかね。ぼくは、感動はめったにしないものとして、大事に取っておくもんだと思っているのだが。
 それに、今回の「北京五輪」では、とくにオリンピックというものが持つ政治性と、バッハ会長らを筆頭とする利権集団の異様さ、さらには国家がすべてに優先するという悪しきナショナリズムの発揚が、まさに醜悪なまでに可視化されたのだ。
 国家に押し潰されたフィギュアの、幼いといっていい少女の悲しみと苦悩。人権弾圧を覆い隠して、開会式の最終聖火ランナーにウイグル族の選手を走らせるという演出。それを指揮したのが、あの映画の名匠チャン・イーモウ監督だったということの驚き。
 いかにオリンピックというものが、政治と利権と虚飾に満ちたものだったか。少し考えれば分かる。
 懸命に闘った選手たちには、ぼくはもちろん敬意を表する。ただ、裏に隠れているそういう現実にも、少しは目を向けるべき時じゃないのか。
 札幌冬季五輪招致なんて、狂気の沙汰だと思う。

コロナ第7波の恐怖

 コロナ感染はなかなか収まらない。
 専門家は、「ピークアウトしつつある」と言うけれど、感染者数はかなりの高止まり傾向で、重症者数や死者数はどんどん増えている。ピークアウトだということで、まん延防止等重点措置なるものを早々と解除する自治体も出始めた。
 しかし……と、シロートのぼくでも心配になる。
 もうじき3月、学校などでは「春休み」の時期に入る。するとどうなるか? いわゆる「人流」(このイヤな言葉、最近はあまり見かけなくなった)が当然増える。若者たちが動き出す。オミクロン株というのは感染しても症状は軽く、重症化率も低いということから、気軽に出歩く。さらに、サラリーマンの異動時期、歓送迎会も増えるだろうし、花見の宴会だって、今年は盛り上がってしまうだろう。
 まん延防止等重点措置の解除とこれらが重なれば、結果は言わずとも分かる。軽症の人が自宅にコロナを持ち込んだり、店などで感染を拡大したりする可能性が大きい。それが家族の、ことに高齢者や基礎疾患のある人にうつれば、一気に重症化し、死に至るケースも出てくる。このところの死者数の急増は、その現実を映し出している。
 第7波が来る。ぼくは、そう予測する。
 「シロートの予測などなんの役にも立たない」とバカにされるだろうけれど、多分、この予測は当たる。第7波は来る!
 昨年暮れ、かなり感染者が減数したときに「これで収束へ向かうだろう」と、専門家たちの中にも楽観的観測を言う人は多かった。だけど、ぼくは「第6波は来るだろう」と思っていたし、そう書きもした。さまざまな規制の解除と年末年始の休日が重なるからだ、と考えたからだった。
 もし、それを岸田政権も感じ取って有効な対策を打ち出していたら、この第6波のような惨状を、少しは防げたかもしれない。せめて、必要な検査態勢を確立しておくとか、ワクチンの3回目接種の効率化を進めておくくらいの施策はとっておくべきだった。そんなことは、これまでの2年間の経験から、それこそシロートのぼくでさえ分かっていたのだ。それを、極めて優秀な官僚たちや、それを差配する政治家たちがなぜ分からなかったのか、なぜ気づかなかったのか。
 つまらぬ政争に明け暮れ、近づく参院選に目を奪われ、やたらと強気の改憲論などを振りかざして、政治家本来の使命である「国民の生命財産を守る仕事」もそっちのけの人間たちばかりが目立って仕方のない国会議事堂。だからぼくは、アレを「石棺」と呼ぶ。巨大な棺桶はチェルノブイリだけではなく、福島事故原発にも必要だと思うけれど、それより先に、日本では東京のど真ん中に、すでに存在してしまっている。

海の向こうで戦争が始まる

 戦争が始まりそうだ。いったいどうしたことだろう。
 22日の報道によれば、ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ東部のロシア系住民の多いドネツク地方とルガンスク地方の独立を承認したという。ここはすでに「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」を名乗る武装勢力が実効支配していた地区だ。そこにプーチン大統領がお墨付きを与えた。他国の領土に手を出して、自国の都合のいいような支配下に置く。まさに植民地争奪時代の列強がやったことと同じだ。
 それにアメリカやEUが反発するのはよく分かる。
 しかし、今回のアメリカの出方も、ぼくにはなんだか胡散臭く思えるのだ。本来「軍事情報」であり「秘密情報」であるはずの相手方の動きを、微に入り細にわたって、これでもかこれでもかとマスメディアにリークし続ける。当然、メディアは大々的に報じる。これでは不安を助長し、愛国心を煽る結果になるのではないか。
 中間選挙を控えていながら支持率の低下に悩むバイデン大統領の究極の支持率アップの手段が戦争だとしたら、こんな不幸なことはない。強い指導者像を呆れるほどに誇ったトランプ前大統領のマネなどしないでほしいと思う。

 岸田首相への提言。
 安倍晋三元首相を、プーチン大統領への使者として送り込んだらいかがか。プーチン氏との会見回数がほかのどの国の首脳よりも多いことを自慢していた安倍氏ではないか。「ウラジーミル、ともに駆けて駆けて駆けぬこうではないか」などと、恥ずかしいセリフを臆面もなく発することのできる安倍氏だった。
 この際、ぜひプーチン氏と膝突き合わせて、戦争をしないように説得してほしい。ロシアに言われるがままにカネをつぎ込んできた成果を、ひとつぐらいは見せてほしいものではないか。

 1962年、当時のフルシチョフ・ソ連首相がキューバへのミサイル配備を行おうとし、当時のケネディ米大統領が猛反発、核戦争の瀬戸際と言われた「キューバ危機」を髣髴とさせる現在のウクライナ情勢。
 1990年からのソ連邦崩壊により東西冷戦は幕を閉じたと思ったのに、中露対欧米という「新冷戦」の構図がまたしても浮かび上がってきている。

 ずいぶん前に、村上龍に『海の向こうで戦争が始まる』という小説があったけれど、今回は決して対岸の火事じゃない。我らのこの国へだって波及する。
 人間というものは、進歩しないものだなあ……と、庭の猫や野鳥たちを眺めながら、ぼくはしみじみ絶望の淵をのぞき込んでいる。

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!

       

鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。