原水禁国民会議顧問、広島県原水禁代表委員、前広島市長として知られる秋葉忠利さんは、さまざまな経歴をお持ちですが、もともとの専門は数学。2019年7月に『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』という本を上梓されています。「数学書として憲法を読む」とはどういうことか、そこから分かったことなど、数学者の視点から憲法を読み解いていただきました。(2022年2月12日(土)Zoomウェビナー)
憲法違反がまかりとおっている
本日のテーマである「数学書として憲法を読む」とは、一言で言えば日本国憲法を、数学書を読むように論理的に、素直に、謙虚に読み直してみましょう、という提案です。法律家をめざすかたはもちろん、主権者としての責任を果たしたいと思う市民の方にも、ぜひ聞いていただきたい話です。
では、なぜ今、憲法を数学書として読む必要があるのか。それは今日発生しているさまざまな政治問題の陰には憲法違反が隠れているのではないか、と思うからです。なぜこんなに堂々と憲法違反が横行しているのか、もういちど憲法を「数学書のように」読むことで、明らかになるのではないか。それが、数学者である私からの問題提起です。
安倍元総理の犯した憲法違反
憲法違反が疑われる最近の事例をあげてみましょう。一つ目は2020年2月27日に新型コロナウイルス感染拡大防止のためと称して出された、安倍総理(当時)による全国一斉休校宣言です。これは感染症対策本部や文科省、WHOなどの方針を一切無視した、科学的根拠のない総理の独断による突然の宣言であったことは、今日ではあきらかになっています。
安倍さんはなぜこんなことをしたのか。ここからは私の憶測になりますが、宣言の前日26日に北海道の鈴木直道知事が道内の公立小中学校の休校を、また千葉県市川市の村越祐民市長が市内の小中、幼稚園の休校を要請すると発表したことが、引き金になったのではないでしょうか。
あのとき、二人の首長はいち早くコロナ対策に乗り出した本当のリーダーだと評価され、賞賛の声が国民のなかからわき上がりました。その陰に国のリーダーたる安倍さんの存在感は隠れてしまったのです。
そこで安倍さんは、知事や市長より自分のほうが上だと示すために、「全国一斉」を宣言したのではないか。つまり自分の優位性の誇示のために総理大臣の権限を行使したのではないでしょうか。となるとこれは、「すべての公務員は、全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」と定めた憲法15条違反になります。
休校宣言は、子どもたち、先生、保護者など多くの人を大混乱に陥れただけでなく、結果として感染防止効果は限定的でした。公務員たる総理大臣が全体の奉仕者であるどころか、自分自身のために国の政治を動かしたとなれば、それはあきらかな憲法違反であると言わざるを得ません。
核廃絶に背を向ける日本政府も憲法違反
憲法違反が疑われるもうひとつの事例は、核廃絶に対する世界的な流れを、日本政府が阻止し続けていることです。
この10年を振り返ってみても、2013年にニュージーランドが提案した「核兵器の人道上の結末に関する共同声明」の署名を拒否(世論に押し切られて10月には署名)、16年には核兵器を包括的に法的禁止とする核兵器禁止条約締結の交渉を開始する国連総会決議に反対、17年国連総会で条約が投票に付された際には不参加、署名も批准もしないことを宣言するなど、日本政府はむしろ核保有、依存国の代弁者として、核廃絶への道を閉ざす努力を重ねていると言えます。
核兵器禁止条約は50か国の批准に達し2021年1月22日に発効しましたが、安倍元総理も菅前総理も、広島・長崎の「原爆の日」に行われる平和式典での挨拶で、この条約に触れることは一切ありませんでした。
考えてもみてください。日本は核不拡散条約の締結国です。その6条には「各締結国は、核軍縮競争の早期の停止及び核軍備の縮小に関する効果的な措置につき………全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について、誠実に交渉を行うことを約束する」とあります。
そして憲法98条には「2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とあります。
つまり、核廃絶への努力を阻み続ける日本政府は、核不拡散条約6条違反、さらにはその誠実な遵守を定めた憲法98条違反を、平然と続けていることになります。
99条は法的義務ではない!?
こんな憲法違反が、なぜこれほどまでに横行しているのか。そんな疑問を抱いて「数学書を読むように」憲法を読み直してみて気づいたことがありました。それは「憲法99条『公務員の憲法遵守義務』の本来の意味がねじ曲げられている、ないがしろにされているからではないか」、数学的に言えば「定義からの逸脱」がまかり通っているのではないか、ということです。
99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とあります。ところが実際には、これと矛盾するような判例が出ています。
たとえば、国の自衛隊基地建設用地の土地取得に関連して自衛隊の合憲性が争点となった百里基地訴訟。1977年2月17日、第一審で水戸地方裁判所が下した判決は、99条について「国政運用の衝にあたる公務員に対し、憲法遵守・擁護義務を明示しているが、これは、道義的な要請であり」と言っています。また、その控訴審(81年7月7日)で東京高等裁判所は「(99条は)憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明にしたにすぎない……本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであって……」と述べています。
つまり憲法99条には「義務を負ふ」と書いてあるけれど、これは法的義務ではなく、道徳的な要請、倫理的なもの、違反したからと言って即罰せられたりするものではない」というのです。これはおかしい。憲法に明記されている「義務」は、法的義務以外にあり得ません。こんなことがまかり通るのなら憲法の存在や意味はどうなるのでしょう。
極端なことをいえば、「天皇には憲法を守る義務があると書いてあるが、これは道徳的、倫理的な要請にすぎないのだから、戦前のような絶対的権力者になってもらってもいいんだ」と解釈する人が出てきてもおかしくないことになってしまいます。
実は99条の「義務」の解釈については、判例だけでなく学説的にも「法的義務」だと明示するものは見あたりません。しかし数学書として読めば、「義務」はあくまで義務であって、それ以外の解釈はありえません。明らかに「定義からの逸脱」です。健全な社会を作っていくために、99条を法律的義務規定として再生させることが必要だと考えます。
数学書として読むためのルール
ここで改めて、「数学書として読む」ということについて、具体的なルールを説明しましょう。
いちばんの基本は、「置換禁止律」というルールです。すなわち「1+1=2であって、それを勝手に3に代えて読んだりしてはいけない」。憲法についていえば、条文の個々の字句はそのまま読まなくてはいけない、ということです。
例えば「国民」を勝手に「臣民」と読んだり、「永久」を「長い間」と解釈してはいけないのです。さらには、字句の意味から論理的に帰結される結論も変更してはいけない。置換は、厳密に言えば実質的な憲法改正になってしまいますから、細心の注意を払わねばなりません。
数学書として読むためのルールを、私は9つの律(正文律、素読律、一意律、公理律、論理律、無矛盾律、矛盾解消律、自己完結律、常識律)として提示していますが、ここではざっくりまとめて説明しましょう。すなわち、言葉の一つひとつの意味を定義・確認して、その意味通りに読む。書かれている文章を論理的に理解して、その文章から論理的に導かれる結果を大切にする。憲法は自己完結的な文書であると仮定し、書かれていることのみに依拠し、それ以前のもの(たとえば英語の原案)や、書いていないこと(自衛権など)を引き合いに出して解釈してはいけない。日本語の常識に沿って出来るだけ自然に解釈する――つまり「数学書として読む」ということは何も特別な読み方をしろというのでなく、むしろ文章を読む基本をきちんと守りましょうという、極めてシンプルな話です。
「死刑は憲法違反である」ことの証明
憲法を数学書として読むことで、さまざまな疑問、問題点に気づきます。
その一つとして「憲法は死刑を禁止している」という命題を証明してみましょう。根拠としては憲法の3つの条文があげられます。
13条 すべての国民は、個人として尊重される。(略)
25条 すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(略)
これを数学の命題を証明するように見ていくと
- これらの条文にある個人とは「生きている」人である。
- 「個人として尊重する」とは、「生きている人」として尊重すると言い換えられる。
- 「生きている人」の「生命」を奪うことは、「生きている人」の存在を無にすることである。
- それは「尊重」の正反対の行為である。
すなわち「死刑は憲法違反である」と証明できます。
数学書として読む立場からすれば「死刑は合憲である」という解釈(最高裁判所の1948年の判決など)は、論理矛盾の典型と言わざるを得ません。
憲法9条は変えられない
もうひとつ「憲法9条は、96条が定める憲法改正手続きの対象となり得るか」を検討してみましょう。
ご存じのように9条には「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は……永久にこれを放棄する」とあります。戦争、武力行使は永久にしないと宣言しているのです。もし仮に9条が改正されて、いつか戦争が出来るという内容になったとすると、「永久に放棄する」という、時間的にすべての未来を縛る力がある文言と矛盾することになります。
絶対的な限定である「永久に放棄する」を部分否定するような改正は、「永久に放棄する」という無条件で肯定するもともとの条文とは矛盾する。従って9条は96条の改正手続きの対象にならない。これが数学書として読む立場からの結論です。
このように憲法を数学書として読むと、さまざまな問題が見えてきます。条文を「字義通り」「論理的に」「自己完結的に」読むことで、皆さんが最初に憲法に触れた時の新鮮な驚きと感動を再体験して頂けるはずです。さらには現実の政治や裁判で行われている憲法解釈において、定義と論理という数学の基盤ともいうべき原則をもっと尊重すべきではないかという私の問題提起も、ご理解いただけるかと思います。
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あきば・ただとし 原水禁国民会議顧問、広島県原水禁代表委員、前広島市長、数学者。1942年東京生まれ。東大理学部数学科・同大学院修士課程卒業。マサチューセッツ工科大学(MIT)で Ph.D. を取得後、ニューヨーク州立大学、タフツ大学等で教鞭をとる。世界のジャーナリストを広島・長崎に招待し、被爆の実相を伝えて貰う「アキバ・プロジェクト」を創設・運営。広島修道大学教授を経て、 1990年から衆議院議員、 1999年から広島市長を 3期12年務める。市長在職中、平和市長会議会長を務め、世界の加盟都市数を 440から 5,000以上に。アジアのノーベル賞といわれる「マグサイサイ賞」(2010年)など、 多数の平和賞を受賞。『新版 報復ではなく和解を』(岩波現代文庫)、『数学書として憲法を読む』(法政大学出版局)など著書多数。