第28回:ふくしまからの日記──飯舘村「私の人生の中で持ってる宝物を、みんなにお裾分けしながら共に生きようと思ってる」(渡辺一枝)

 今年1月下旬の福島行の報告が、こんなに遅くなりました。飯舘村の菅野榮子さんを訪ねた日のことを書きました。今回もまた少々長い文章ですが、「榮子節」をお届けします。

玄関前には手押し車が

 昨年11月の訪問時、玄関に姿を見せた榮子さんに「お元気そうで良かった」と声をかけると「元気でねぇんだ。家ん中でジャガイモみてぇにゴロンゴロン転ぶんだ」という答えが返った。それで案じていたのだが、寒さが厳しい間は子どもの家に行っていると人伝に聞いて、安堵していた。年が明けて小正月が過ぎた頃、どうしているかしらと思って電話をしてみたら、「テレビ見てっと毎日コロナのことばっかりで、4桁単位で、1000人単位で感染者が増えてっから、怖くって村に帰ってきた」と元気な声が返った。それを知って、1月24日に榮子さん宅を訪ねてきた。
 玄関の外には手押し車が置いてあった。今までには見たことがなかったものだ。玄関を開けると、上り框には縦枠の手すりが据え付けられてあった。元々バリアフリーに設計されていて横に手すりは付いていたのだが、それだけでは足りなくなったようだ。
 居間に落ち着いて新年の挨拶もそこそこに、早速榮子さんは話し出した。昨年の暮れになって雪の日も続くようになり、母さんが一人でいるのは心配だからこっちにおいでと、娘から連絡が入った。それで息子に迎えに来て貰って埼玉にいる娘の家に行って過ごしていたのだが、テレビでは日々新たなコロナ感染者数が発表され、その総数が4桁にもなっていく情報を見ているうちに、人口の密集している地域にいるのが怖くなって、2週間で帰って来てしまったのだという。
 村に居ればテレビで同様のニュースが報じられても他人事と思っていられただろうが、人口も多い都会で、娘の家族は仕事や学校で外出する機会が多いから、感染者が日毎に増加しているニュースを見たら、心中穏やかではいられなかっただろう。「おっかなくなって、帰って来ちゃった」榮子さんだった。
 「私もまぁ、歩けなくなっちゃったの。前に進もうと思ったら後ろに行っちゃって尻餅ついた。ほれから歩けねくなって、だから芳子さんとこにもあんまり行かねぇし、まぁ困ったなと思って。だからこの辺に手すりつけてね。
 私は10年も20年も、年寄りを介護したんだよ。2組の年寄りを看取ったんだよ。本当になんとも、自分がその立場になっちまったんだなんて思いながら居る。自分の身になったんだなぁって」

「お前も俺の歳になってみろ」

 「うちのお爺ちゃん(榮子さんのお連れ合いの父親)おしっこ漏らすようになって、家の中おしっこ臭いようになったから 『じいちゃん、私が仕事行っているうち、いま着ているやつ全部脱いで、新しいのあっこさ揃えておいたから、こっちからずっと順に穿いてくとちゃんと元の服になっからね』って言ったのな。ほして帰ってきてみたらそっくりしてんだよ(着替えずにそのまんまなんだよ)。冬の頃だから炬燵だったからな。寒くはねぇけんど、なぁ。がっかりして『まったく、ほんになぁ』って言ったらそれだけ聴こえてよ、『にしゃ(主、お前)もオレの歳になってみろ』って言わっちゃった」
 そう言って榮子さんは「ふ〜っ」とため息をつき、言葉を続けた。
 原発事故の起きた後をどうやって生き抜いてきたか、それを伝えたいと思って取材を受ければ話して来たし、集会で発言もしてきた榮子さんだが、不整脈が出たり脈拍数が高かったり、血圧も芳しくないのだという。病院で診察を受け医者から処方された薬を飲むと、薬が合ったようで体調は少し落ち着いている。その医師から紹介状を書いて貰って、同じ薬を村の診療所で1ヶ月分出して貰ったという。そして、榮子さんの話は続く。
 「肉体労働者と知的労働者では歳のとり方、老化の仕方なんぞ違うんだな。そう思ったよ。知的労働者の人たちだって重労働でねぇから腰も脚も痛くねぇかって言えば、そうでもない。まぁ、いま観察週だから、できるだけいろんなとこ行かないだりして(行かないようにして)、頑張ってみっかなって」。そう言って、コロコロ笑う榮子さんだった。

トロロ飯

 「野池さん(雑誌『たぁくらたぁ』編集長)来た時な、今野(寿美雄)さんと一緒に来るって言うから『じゃぁ、お昼に来らっしゃい。ご飯作っとくから』って、何にもねぇけんじょ米と味噌あるからって。したところで、トロロまんま作って食べさせたんだな。そしたら長野へ帰って、トロロまんま食べてきたって仲間さ言ったんだって。したら仲間が、『僕も行って食べたい』って。
 そのトロロは自分で作るのが楽しくて作ってきたの。トロロは下さ伸びてくから、ほんなに畑の面積要らなくて穫れんのな。20本位植えれば、一輪車でびっちり1台くらい穫れるんだよ。すって卵を入れて、麺つゆの美味しいものでも買っておいて、適当にこの辺痒くなんねぇくらいの濃度に薄めて食べんの。
 私ら、山の自然薯な、食べてきたからな。山の自然薯はまた粘りが強くって美味しいの。
 麦蒔き終わるっていうと、爺ちゃんが『麦蒔き終わっから、今日オレは昼間っから芋掘りさ行ってくるから』って、山さ行ぐの。麦蒔き終わっ頃にちょうど芋が育ってんのな。
 そういう生活で、私ら命を繋いできたんだよな。
 いろいろ考えながら生きてるけど、いま1日1日って1日単位を重ねて、1年単位で生きたいなって。あと5年だの3年だのって言わねぇで、1年単位で。原発事故でいろいろな人に出会った。その人らが先生。私の先生は何十人もいるって。それぞれの人と出会いがあったから、心が見える。自分の心もそこに出す。ドキュメンタリーだって、自分の心と重なるように作るんだな」

自然の中で育てられた

 「一人暮らしの人は、冬の期間だけでいいからグループホームみたいなのがあるといい。諸経費は負担すっから、光熱費だの食うものだの費用は出すから、年寄りが退屈しねぇで過ごせるようにするのが、地域で生活支援の一つの在り方だよな。
 娘の家さ行ったけど、『おめぇらも働いてんだから』って言って2週間で帰ってきちゃったけんど(この冬に娘の家で過ごしてきたことを言っている)、したら『ばあちゃんも一人で居られるうちは認めるわ』って娘も言わっちゃった。
 私は思うよ。考える力があるから、心に思ったことを行動できるから幸せだなぁって。だけんじょ思うようにいかなくても、思うようになんかなんないよ、ほいでも闘うところは闘うからな。そんなんでいろいろ勉強させらっちゃったなぁ。
 こういう自然の中で、私は心を育ててもらった。こういう雪深いところで戦争があったから、戦争なんて嫌だったよ。ほんと嫌だったよ。大きな戦争があった中で、父ちゃんもいないとこで幼少期は育ったっていうことだって、やっぱり戦争は嫌だってことを、はぁ、死ぬまで思ってるわけだ。
 まぁ、ほういうことだの自然にあるものを利用して食べられるものを昔の人に教えられて、味噌とジュウネン(エゴマのこと)だの米さえあれば生きれるって、教えられっちきたんだよ。お浸ししたり、豆腐和えしたり、ジュウネン和えしたりして味を違くして食べてきたわけだよ。だからまぁ、やっぱり満足な自然がないと、人の心もちゃんと育たないよ。自然の中で生きるってことは、人の心を育てるって、私はそう思ってる。
 同じ花見たって、畑の土手に咲いたタンポポ見ても歩くだけだけど、山の中さ行って一輪のタンポポの黄色い花見たら、『わぁ、きれいだ』って思うべし、な? まぁ、そういう中で育ったのが宝ものなんだなぁって」

宝物のお裾分け

 「まぁいろいろあったけど、原発事故がなかったら、今野さんとの出会いも一枝さんとの出会いもなかったよな。人との出会いの中で、いろいろ教えられた。つくづくそう思う。年賀状書かねぇ、出さねぇってなったけど、年賀状来るのな。みんな出会いがあったことからだな。一言加えて書いてくれんのな。ありがたいなぁって、思うよ。味噌の里親や、凍み餅作りの人たちからも来るの。
 味噌は、桶で私のレシピで味噌作ってくれてる後継者もいるの。佐須の私らのレシピで作ったのは、(別のレシピでのものとは)塩も違うし塩の量も違う、塩分も違うからな。そいで作ったのを10kg買って娘に送ってやったの。娘、泣いてた。子どもの時からずっと馴染んでた味だからな。
 娘んとこ行く時、こっから菜葉(白菜)持ってったのな。息子が迎えに来てくれて息子の車で、途中で桶買って、娘んとこで白菜漬けてきたの。そうやって食わせたら、娘は仕事行く時もタッパーに入れて持っていったのな。職場の仲間たちが『美味しい。美味しい』って食べてるよって。手作りってのは、作った人の心が映るからな。
 まぁまぁ、そういうものは自然が教えてくれたんだ。育ててくれたんだ。漬物なんか子どもの頃なんかだって、嫁にきた頃なんかだって、味噌樽みたいな大きい桶に白菜漬けたんだよ。こういう寒いところだから発酵食品だからな。葛尾だとか田村だとか阿武隈山系の人たちは、似たようなもの作って食べてきたな。凍み餅作ったりトロロ食ったり、な。トロロってのは長い繊維なんだって。だからこういうとこさくっつくと痒くなんだよ。
 まぁ80年以上生きてきたから子どももみんな結婚して孫もいるし、これから生きるのは儲けものだって。私の人生の中で持ってる宝物を、みんなにお裾分けしながら共に生きようと思ってる。知らないでいたら勿体無いこといっぱいあっからな。漬物だって一番最初に水が上がってきたらそれを取っておいて自分の家の漬け汁作って、私は辛いの好きだから南蛮(唐辛子)入れて。甘いの好きだったら白い砂糖でなく黒糖を使ったり、あと酢を入れると酸っぱくならねくって日持ちが良い。あと味噌入れると、味噌をうんとでないよ。香りを入れるぐらいにパラパラっと味噌を振りまいてやっと、菜葉の香りが出るの。
 南蛮入れっと長持ちすんの。この南蛮も、紫外線当てて外でチリチリんなんくらい干すと、うんと香りが良いの。だから太陽は有難いんだよ。この家ではそこ(リビングルーム外のウッドデッキ)で干してんの。南蛮ぶっちゃいて(裂いて)中からババァと種出し落として、機械でガガァって粉にするの。蕎麦食べる人なんかは、自然の薬味が一番旨いんだって。飯舘には蕎麦打つ人が何人か居っから分けてやるの。
 紫外線当てたものは、いいよぉ。私にしかできねぇものいっぱいあったのを、みんなに教えて一緒にやってきたからな。良かったなって思ってる。ほうしてちゃんと手掛けてる人は、こうすっとこうだって、そこの中で覚えたんだよ。だから、あー、良かったなって思ってる。
 味噌もそうやって後継者が作ってるとこから買って、娘んとこへ送ってやったの。娘は『お母さんお金使って、こんなにいっぱい』って言ったけど『だから友達に分けてやれ』って。みんな爺ちゃん婆ちゃん居だから、子ども育てながら看護婦やってこれたんだべぇ。んだから、爺ちゃんだの婆ちゃんだのは昔の人だから、今のインスタントの味噌汁は食わんねぇんだ。だから、やったら貰った人が涙流してたんだって。だから、ほういう本物に出っくわしたってのは、そういうものがあるな」

みんなして生きる

 「私、種子島さ行った時、昔からの作り方の黒糖作ってる人との出会いがあったのな。登り窯みたいなのを造って、そこのお湯でサトウキビの汁を煮詰めていって、その人が作ってるの。地元の人が高齢者になってやらねぇもんだから、いわきから避難していった人たちが会社員にして貰って、そこで働いてんだよ。いわきから1団体って、5、6人だけどな。機械持ってる人たちだ。その人たちが何かして働かなきゃ生きらんねぇから土地借りて、サトウキビ作って、ほしてみんな自分達で生産してんの。ひとかけらちょびっと削って菜葉漬けたのに使ったら、ほんと良い味。
 それこそ日本の国でも当たり前に、世界と肩並べていかれるもの(原発のこと)持ち込んでるようだから。こんな島国でもな。だからそれなりに、これから生きる人がちゃんと勉強していかなきゃな。
 20歳前後の人たちが原発事故で避難した現況を語ったり、これからの未来の社会をどうすっかっていうのを語る時は、黙って聞いてんの。ちゃんとしたこと言ってるよ。こういう若い人たちが成長していくんだから、生活していくんだから、私らも若いうちから色々あって、ああだこうだって騒いできたよ。だけんじょも、その頃よりもまた一段と高いレベルのこと喋ってるわけだから、私らの時代とは違うレベルの高いこと喋ってっからな。そう思わないと生きらんねぇもんな。後退りするような世の中になるなんて考えたら、生きらんねぇもんな。
 みんなして生きる。右さ行くか、左さ行くかって時、多く集まった方がちゃんと伸びるんだからな。そいつは国民一人ひとりが判断すんだからな。私は、そう思ってる」

婦人会活動

 「婦人会の会長やってた時、会員1200人位いたんだよ。婦人会会長なんてなる気なかったけんど、婆ちゃんの介護してっ時で大変で、泣き泣きやったよ。村政なり国政に目を向けないと良い世の中は作れないんだっていうことで、婦人会の活動の一環として村の議会の傍聴をしましょうってことを掲げてやってきたんだ。村の議会で、本議会の中でいろいろな人がいるわけだ。ほして4つの行政区から、何人かの会員を議会傍聴に送り出した。そういう活動をやったんだ。そうやって、みんな勉強してやってきた。
 岩手の山ん中に第三セクターみたいなとこで作った宿泊施設さ泊まることがあったんだ。村の議員も行ったり、市民委員や役員だったりした人たちが、みんな混ざって行って、そこに暗くなってから入ったんだけどな。岩手と長野ってのは、農村の民主化運動が進んでるとこなんだな。ほして岩手に行って介護のことなどなんだの研修したり、いろいろ研修して、ほした時にオレは酒飲まねぇだけんど、みんなは榮子さんも飲めって。女は2 人しか居ねぇの。ほして飲めって言われて酒飲んだら赤くなったのな。すぐ赤くなんだよ。
 ほうやって議会の副議長やってた北原さんって人が隣に居てだったの。私より3つ上の人で、なんでも判る人と席一緒だったから、赤い顔になったついでに『飯舘村の議会は何なんだ』って言ったの。
 古参株の議員の人たちが後ろに席があって、新人が前の方さ座ってんの。後ろの方が古参株でその後ろに傍聴席があんのな。『何なんだ? 賛否取っときに見えたけど、本人の意思で立たせんじゃねぇんだな』って、オレ言ったのな。オラは戦争に負けた時3年生だったけど、それから民主主義の会議の運び方だの何だの習ってきたんだもの。私らより年上の人たちが民主主義のやり方習ってきたんだから、オレらよりちゃんと頭さ入ってっぺ。賛否取っときに後ろに古参株の議員らがいて前に若手の人が居っぺしさ。ほしてどっちさ決めたらいいべしさってウヤムヤしてんだな。議長が賛否取ったら後ろの人たちはサッと立ったんだけんじょ、若いひとたちは立たねぇんだよ。ほしたら『なにグズグズしてんだ。立て』って古参株が言ってんだよ。ほしたら若い新参の議員は、こうして後ろ向いてそろそろと立って、ほして議長が採決してんの。
 こんな話っちゃねぇべ? 一人ひとり私ら村民の代表だよ。一人ひとり、票入れてんだよ。その人が古参株の人に『立て。しゃがめ』って言わって決めてっとこ、どこにもねぇべ。ほういうふうに言って私が怒ったべ。ほしたら北原さんが『榮子さん、飯舘村の議員になる人は、その程度の人しか議員になんねぇんだ』って言うんだよ。『はあ、そうですか』って、私言ったのな。ほしたら助役も来てたべ。助役は『榮子さんがああ言った時くれぇ怖かったことはなかった』って。 
 私は癪に触ったからな。大事な協議・議事があって、それをどうすっかで村で決める時に、それを若造であろうが身体障害者であろうが、自分の心で立つんだべしさ。みんな選挙してんだぞ。そうやって、後ろの5年も10年もやってきた人に『何グズグズしてんだ。ホラ立て』って言わって、こうやって後ろ見て立つバカ居ねぇべ。私、バカとは言わねかったども、飲み会で赤い顔してほういうふうに怒ったんだ。だって、本当だもの」

人を育てるということは

 「そうんなことで、いろいろありながら85年生きてきたからね。
 赤い顔で怒ってから、北原さんに『榮子さんなぁ、飯舘村にはそのくらいの人しか議員になるっていう人は居ねぇんだよ』って言わっちゃってからは『はぁ、そうですか』って言うより他ねぇじゃねぇ。私が赤い顔して怒ったってよ。まぁ、そうやって6年間、婦人会長やったんだわ。婆ちゃん介護しながら、牛やりながら(このころ榮子さん夫婦は酪農業だった)。ほんで、爺ちゃんの介護入ってからみんなに協力してもらった。
 だけども、ほうやって協力してくれた人たちがみんな、うんと勉強になったって言ってくれた。みんなに責任部署置いて、みんなに責任持ってもらって、運営してきたよ。んだから責任持った人は責任あるもの、うんと勉強してかないと、人の前には立てないよ。だから、うんと勉強になったって。
 人を育てるっていうのは、そういうとこにあるんだな。私つくづくそう思った。なんでもできる会長は、オラ出来るからって、一人でやってくの。他の人相手にしてねぇから、なんでも一人で決めて、一人でやってくのな。まぁ、ほういうのも勉強になった。
 あんまり今は、はぁ、勉強なんてすることもねぇんだから、喋ることもねぇだし、自分の健康管理。自分の心臓と仲良くしなきゃだめだ。あの世の扉開いた時は、潔く行かにゃダメだ。灯が消えましたっていうんだ」

生徒会で学んだ民主主義

 「まぁ、それなりにこれからの世の中『新しい資本主義の在り方』って言うのが出てきたようだけんじょ、資本主義ってのは今まで一つしかねぇって思って生きてきたけんじょも、新しい資本主義っていうものだなって思いながら勉強してる。
 社会主義と資本主義って分かれて世界は動いてきたけど、新しい資本主義ってのはどういう形で進んでいって人の幸せを魅了してくれるんだか。だから私、鎌倉英也さんのアレクシェーヴィチさんと対談した本(『アレクシェーヴィチとの対話 「小さき人々」の声を求めて』岩波書店)読んで、3日くらい寝てたもんな。
 アレクシェーヴィチさんがソ連で有識者会議のメンバーになって出たんだな。プーチンの心に合わないことがいっぱいあんだって。ほいでドイツに亡命したんだよ。そういう国でねくってよかったなぁ、私らは。
 私の人生は学校さ行って、ようやく生徒会なんか誕生した頃だ。そうして生徒会の在り方があるわけだ。昭和11年生まれだから男の子なんか、生意気して歩くわけだ。私らより1級上の人たちや1級下の人たちは、お巡りさんが学校さ来て『学校の子どもたちがこういう事件起こしましたよ』って。今みてぇに殺したの何だのって大きい事件じゃねぇけど、コソ泥ぐれぇだわよ。ほういうことあって生徒会の係の先生が来て、こういうふうな指摘があったから生徒会でそういうことがないように、よく浸透させなさいって。ほんだから学級で、思春期で生意気に歩いてる奴いたら喧嘩したよ。ほいつは、よく押さえておかねぇと何すっか判んねぇから。ほいつらは、楯突いたって反論したって負けっから言わねぇ。だけんじょ『何も、正しいことは言ったっていいんだよ』って言ったの。『負けっから言わねぇんではねぇよ』って。んだから私ら学年からは、注意されるのは一人も出ねかった。1級上と1級下だった。
 まぁ、そういう軍国主義から民主主義に変わった、そういう教育受けながら何も知らないで食べるのに精一杯で、その頃は生きてきたわけだべ。開墾してじゃがいも作りながらやんなきゃなんねぇ時代だったから」

言葉で治める

 「そういう時代で、子どもは何人も居てきょうだい居て、そういう中で私らは育ってきたんだよ。だけど癪に触っときは、黙ってらんねぇから言ったべ。後で思った。ああ、あんなことお父さんにも言わねかったなって。今んなって考えてみっと、男の人は包括力があって私らの心よりは大人だなって思った、男の社会は。『飯舘ではこれぐらいの人しか議員になれない』って、そんなふうに言うんだもの、偉いべしさ。私は傍聴に行って様を見てきたから腹が立って、北原さんに言ったわけだ。ほしたらその人は私より年上で、副議長やってるくらいだべ。だから今は、立派な言葉だったなって。言葉でその場を治める、そういうこともあるんだよな。論じた時は、やっぱり言葉でその場を治める、そう言う才能を持った人がいないと喧嘩になんだよな。それを治める言葉をちゃんと使う道があったんだ。『じゃ、北原さんも同類か?』っては、私は言わねかった。『はあ、そうですか』って言った。
 議会傍聴してた時だったから勉強会で、こういうのを見たって私が言って、『これからの1票、選挙の1票を役に立たせんだ』って言ったの。いろいろあったよ」
 榮子さんのその言葉を聞いて私は思い至ったが、飯舘村では選挙の時の投票率が飛び抜けて高いと聞いたことがある。これは被災前の話として聞いたのだったが、その時の私は合併を拒んで「までい(丁寧)な村」として進む道を選んだ飯舘村民の意識の高さを思ったのだった。
 図らずも榮子さんは、続けてこういった。
 「そうやって日本の民主主義は進んできたんだ。軍国主義から戦争やって敗戦になって、デモクラシーのアメリカから進駐軍が入ってきて、学校教育の課程の中に織り込んできて生徒会作らせて、そういうのを実現させてやってきて、お母さんになった時、議会見させたらこういうことで、ほうやって日本の国は民主主義が進んできたわけだ」

 この日、榮子さんからはもっとたくさんを聞かせていただいた。それらはまた、後日に改めてお伝えします。長文お読みくださって、ありがとうございました。

一枝

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。