原発事故後、放射能の影響で全村避難となった福島県飯舘村で、仮設住宅で暮らすことになった70代の女性2人の日常を追った映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』から7年。シリーズ第2弾となる古居みずえ監督の『飯舘村 べこやの母ちゃん――それぞれの選択』が3月11日から公開となります。マガジン9の連載「一枝通信」でもおなじみの渡辺一枝さんも、やはり古居さんと同じく東日本大震災後から福島に通い、被災地の人たちの声に耳を傾け続けてきました。震災から13年、いまもなお福島に通い続けるお二人に、それぞれのご経験、感じてきたことについてお話しいただきました。
女性でなければつかめない視点
――東日本大震災を機に、古居さんも渡辺さんもそれぞれ福島に通い続けていらっしゃいます。お二人はその以前からのお知り合いだそうですが、出会いのきっかけは何だったのでしょうか?
古居 最初にお会いしたのは、もうずいぶん前のことですよね。よくお会いするようになったのは飯舘村に通うようになってからですが、それよりずっと前に女性たちが集まる何かの会に呼んでいただいて、一緒にお話しした記憶があります。
渡辺 私はお会いする前から、みずえさんがパレスチナで撮影されたドキュメンタリー映画はすべて見ていて、この方は素晴らしいと思っていました。みずえさんはパレスチナでも飯舘村でも女性をテーマに撮影されていますよね。ガーダというパレスチナ人女性を追った映画『ガーダ パレスチナの詩』(2007年)のなかだったと思うのですが、占領下で苦しい生活をしいられながらも、それでも女性たちは料理をつくるという場面がとても印象的で、これはやっぱり女性でなければつかめない視点だと思いました。
2016年に公開された『飯舘村の母ちゃんたち』は、飯舘村から避難して仮設住宅に暮らす(菅野)榮子さんとよっちゃん(菅野芳子さん)のお二人の話ですけれど、これも本当に素晴らしくて。そのときにはもう今回の『飯舘村 べこやの母ちゃん』も制作しているとおっしゃっていたので、いつできるんだろう? ってずーっと待っていたんですよ。
渡辺一枝さん
古居 私、いつもゆっくりしか制作できないんですね。パレスチナでもなんでも、最初からテーマを決めて行くわけではないのです。行き当たりばったりで。でも、今回はコロナがあってしばらく飯舘村に行けなかった時期があったので、それで遅れたという言い訳もあります。前作から7年。私の人生短いんだから、これじゃ計算があわない(笑)。
実は、今回の『飯舘村 べこやの母ちゃん』は、前作の『飯舘村の母ちゃんたち』よりも前に撮影を始めていて、東日本大震災と原発事故のあと10年以上撮り続けてきたものです。ただ、最初の1年はさまざまな動きがあったのですが、それぞれが仮設に避難したり、移住先に行ったりすると、そこでの生活が繰り返されていくので、表向きには変化がなくなっていったんですよね。とくに仮設住宅に避難されたあとは、おばあちゃんたちも外に出なくなってしまって、何を撮っていいかわからなくなり悩んだ時期もありました。お訪ねしても「撮るものなんか、何もないわよ」と言われたり……。
渡辺 でも、それぞれのみなさんの日々の暮らしが映画にはちゃんと現れていて、それがとても心に響いてきました。みずえさんが通い続けて来たからこそ撮れた日常が、この映画の見どころだと感じました。
映画『飯舘村 べこやの母ちゃん』より©️MizueFurui2022
一番大変なときに、その場にいさせてもらった
――古居さんが、飯舘村で撮影を始められたきっかけは何だったのでしょうか?
古居 震災直後はとにかく現場に行かねばと、ジャーナリスト仲間の車に同乗させてもらって、宮城や岩手の被災地を巡っていましたが、映像ジャーナリストとして何をすべきなのか、答えがみつけられないまま1ヶ月が過ぎてしまいました。そのときに耳にしたのが飯舘村に全村避難指示が出たというニュースです。それを聞いて、長年通い続けてきたパレスチナの人々のことを思い出しました。七十数年を避難民として生きてきた彼らの姿が、故郷を追われる飯舘村の人々と重なって、飯舘村へ行こうと決めました。
――飯舘村は原発事故の放射能汚染によって計画的避難区域に指定されました。酪農が盛んな地域でしたが、乳の出荷も牛の移動も牧草をやることも禁止されて、酪農家や畜産をしていた方は生業を続けることができなくなってしまいました。
古居 避難指示が出た飯舘村に、最後まで残っていたのが牛飼いの人々でした。
渡辺 牛を置いていくわけには、いかなかったからですよね。
古居 そうなんです。ジャーナリスト仲間に飯舘村に連れて行ってもらったのですが、初めて行ったのが牛たちを屠畜に出す日でした。私は、こんなことが今起こっているんだってびっくりしたんです。牛を飼っている方にとって一番大変なときに、私はそこにいさせてもらった。それは偶然でしたが、すごくショックで。そのときに、ここで撮り続けたいと決めました。牛飼いの人々は、これからどういう選択をしてどんな人生を送っていくのだろうと、とても気になりました。
――映画『べこやの母ちゃん』は3章にわかれて、それぞれ3人の「べこや(牛飼い)」の女性たちが登場します。事故のあと、⽜を続けた⼈、やめた⼈。飯舘村を離れた⼈、戻った⼈と、その後に選んだ道はさまざまですが、古居さんは最初に出会ったときから昨年まで、ずっと撮影を続けていらしたんですね。
古居 べこやのお母ちゃんたちの思いや暮らしを映像に撮らせて欲しいと通っていました。飯舘村で私が最初にお会いしたのが酪農家の長谷川花子さん(第3章)で、その次の日に、やはり酪農をされていた中島信子さん(第1章)に出会いました。
第2章に出てくる原田公子さんは和牛の畜産をされていて、「計画的避難に伴う家畜方針説明会」に参加されていました。会場には東電の人たちもきて喧々囂々だったのですが、そもそも女性が少ないなかで「東電さんは金儲けのためにオール電化をしたわけでしょ。快適な暮らしが、(この事故で)私らは地獄になったんですよ」ときっぱり発言した女性がいて、それが公子さんだったのです。彼女はこのときすでに移住してでも牛飼いを続けると決意していたんですね。その強さに惹かれ、撮影をお願いしました。
渡辺 この映画は3時間ありますが、拝見していて全然時間を感じませんでした。映っているのは、彼女たち自身のそれぞれの思いや生き方ではあるんだけど、個人のことだけではなくて、自分の家族や牛たちのこと……そういった「生活」をまるごと背負っての彼女たちの思いや生き方なんですよね。だから、これもやっぱり女性たちの視点でなければ表現できない映画だなあと感じました。作ってくださって本当に良かったです。
古居 ありがとうございます。一枝さんも前からずっと飯舘村に通われているので、よく一緒のところにお邪魔することがあるんですよね。本当に一枝さんの取材力はすごくて、私がちょっとしか撮影していない間にも、「一枝通信」にはたくさんのことを書かれていらっしゃるなあと思っていました。
古居みずえさん
「原発事故前は、どんな暮らしをしていたのだろう」
古居 福島のみなさんが一枝さんに気持ちを吐き出されるのは、それだけの信頼関係があるからだと思うんです。誰が行ってもしゃべってくれるわけじゃない。一枝さんの書いたものを読んで、あとから「この人は、あの撮影の時期にはこういう気持ちだったんだ」と知ることもあるんです。『ふくしま 人のものがたり』という本も出されていますが、これが一枝さんの取材の形なんだなって感じました。私も人にこだわるのですが、一枝さんも人の人生を描いていらっしゃいますよね。
渡辺 私自身は、自分がジャーナリストではないと思っているのね。ジャーナリストの方たちは起きた出来事について、しっかりと伝えてくださる。ですが、私にはそういう力はないんです。起きたことそのものより、「起きたことがその人に何をもたらしたのか」のほうに目がいってしまう。何かが起きる前から、そこにいた人たちはそこにいて、その起きたことによって日常が変わっていく。その人のなかで、それがどういう風な歴史になっていくのか――そこが知りたいのです。
でも、どうしても同じ人に話を聞いても、朝と夕方では思いが揺れ少し変わっていたりするんですよね。原発事故のことにしても、2年前といま、事故直後と10年たったいまでは違うし、この先もまたきっと変わっていく。だから、何遍も通って話を聞きたくなるんです。
古居 私の場合は、最初のうちは起きている出来事、それこそニュースを追うことしか考えていなかったんです。でも、何回も飯舘村に通ううちに、原発事故が起きる前はどんな暮らしをしていたんだろうってことが、すごく気になってきました。
たとえば中島信子さんを見ていると、飯舘村の家や土地、故郷(ふるさと)に、すごくこだわっているのが伝わってくる。避難先からも、そして南相馬市に移住したあとでも、ずっと飯舘村に通い続けているんですよね。そこまでの思いはどこからくるのだろう、って知りたくなりました。でも、おばあちゃん(信子さんのお母さん)が亡くなるまでは、あまり家の話は聞けていなかったんです。
渡辺 そうなんですね。
古居 撮影の間におばあちゃんが亡くなってから、仏壇に子どもの白黒写真があることに気づき、満州から引き揚げてから亡くなった信子さんの姉たちの遺影だと知りました。信子さんのご両親は2人とも満州に行っていて、お父さんはシベリアで抑留もされた。そして帰国後に荒れ地だった飯舘を開墾して、牛を飼い、野菜を育てて、暮らしてきたんですね。飯舘村はまさに親の世代が汗水垂らして開拓して作った「故郷」なのだと知って、信子さんの故郷へのこだわりが少しわかった気がしました。
渡辺 長い時間軸の中で、初めて見えてくることってあります。私が関わっている「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」(※)の浪江町津島地区も、そしてこの飯舘でも、満州から帰国した人たちが山の木を伐採して伐根して、土を起こすところから全部やって、自分たちの「故郷」を一生懸命に作り出そうとしてきた場所なのですよね。
※原発事故によって避難を余儀なくされた浪江町津島地区の元住民らが、国及び東電を被告に事故以前のふるさとの回復と損害賠償を求めて訴えた裁判
映画『飯舘村 べこやの母ちゃん』より©️MizueFurui2022
共通するテーマのは「女性たち」と「故郷への思い」
古居 私はずっとパレスチナを取材して作品をつくっていますが、私のなかで飯舘村とも共通している部分があるんです。ひとつは女の人たちがテーマであること。それから、「故郷を追われた人たち」だと思うんですね。ガーダはいまパレスチナからカナダに移住したのですが、でもやっぱり故郷であるガザに通っているわけです。パレスチナでも、福島の飯舘村や他の地域の人たちからも、「故郷への思い」というのを、とても強く感じます。
渡辺 私自身は満州生まれですが、引き揚げてきてから小学校を6回も転校して、故郷というものがありません。帰属する場所がないことが、中高生のころは私のコンプレックスでもありました。でも、大人になってチベットに通い、あちこちに行くようになってからは、「故郷がないってことは、コスモポリタンでどこにでも行けるってことだから、それでいいんだ」なんて思うようになっていたのですが、この原発事故で再び「故郷って何だろう」と考えるようになりました。浪江町津島の裁判に関わるようになって、ようやく少しずつそれがわかってきたような気もしているんです。
古居 一枝さんが満州から戻っていらしたのは、まだ小さいときですよね。
渡辺 1歳半の赤ん坊のときです。
古居 飯舘でも、いま満州に行っていた経験があるのは、5歳のときに帰ってきた人くらいなんですよね。もっと上の世代の方たちに当時の話を聞きたいのですが、みんな亡くなっておられる。私も、だんだんと飯舘の歴史的なことを知りたいと考えるようになってきました。
――渡辺さんもチベットなど海外を回られて、市井の人々の声を聞き続けていらっしゃいますが、飯舘村の人々と重なるものを感じられますか?
渡辺 チベットのほかにも旧満州の取材をして残留日本人の話を聞いたり、中国の農村に暮らす人々の話なども聞いてきましたが、大きな力が小さく弱いものからかすめとりながら、なお力をつけていこうとする構造は、場所が違ってもどこも同じなんだなっていうのことを、すごく感じています。
私たちは絶対に当事者にはなれない
渡辺 学校で習う歴史っていうのは、やっぱり「出来事」なんですよね。「何年何月に何々があった」みたいな。それは歴史の年表ではあるけれど、本当は、そこで生きてきた人たちが、どんな暮らしをして過ごしてきていたのか、それが歴史じゃないのかなということを、私は若いときから感じていました。
子育てをしている頃から、ほとんどテレビは見なくなっていたのですが、さすがに東日本大震災のときはテレビにくぎ付けになったんですよね。最初のうちは津波の映像が繰り返されて、原発が爆発してからは白煙があがる映像が何度も何度も流れました。テレビでもずっと報道しているし、新聞にも一面に毎日大きくでていた。だから、何が起きているのかはわかるのだけど、それが胸のところでつかえているような感じで、自分の腹にまで落ちてこなかったんです。
古居 その気持ちはわかります。
渡辺 それで、すごく知りたくて、福島に行きたいと思ったんだけど、「行っていいかどうか」も私のなかで答えが出てなかったし、最初は行く方法もわからなかった。いろいろなきっかけから、ボランティアという形で行き始めるようになりました。
そこで、みなさんのお話を聞かせてもらうようになっていったのですが、どんなに通っても、私たちは当事者には絶対になれない、「よそもの」なんですよね。そのことも自覚しながら、でも当事者の思いをやっぱり知りたいし、伝えていきたいし……というジレンマみたいなものが、自分のなかにすごくあります。
古居 ありますね。映画にも出てくる長谷川花子さんのお連れ合いで昨年亡くなられた長谷川健一さんは、自分で書いたり、映像も撮られたりしていましたけど、やはり当事者が自分の言葉でしゃべって、自分の言葉で書くものは力強いし、それは私が代弁しようとしてもかないません。
渡辺 それもあって、トークの会「福島の声を聞こう!」という当事者の方に話していただく会を重ねていきました。もう43回になります。当事者の方に話していただく場をつくりたい。だけど、みんながみんな自分で話せるわけでもないですから……。
古居 自分の生活でいっぱいだったりしますものね。
たくましく生きていく女性たちの力
――古居さんは、この映画で「私は3⼈の⺟ちゃんの、⽣き⽅は違うが、どんな状況下でも強く、たくましく⽣き抜いていく姿を描きたいと思った」ともおっしゃっていました。
古居 表には見えてこないかもしれないけど、福島でも怒りはあると思うんです。芯の強さ、生きる強さみたいなものを感じます。福島県三春町の武藤類子さんが、原発事故から半年経ったときに「私たちはいま、静かに怒りを燃やす東北の鬼です」とおっしゃいましたが、あの言葉が私はすごく好きで。「たくましい」と一言で表現するのも違うかもしれませんが、内側に何かを燃やしている姿も描きたかった。
べこやの「母ちゃん」たちの働いている姿は、とにかくかっこいいんです。腰が曲がって杖をついていても、いざ畑仕事となると動きが早いんですよね。避難先で何もすることがなくてこたつに当たっている姿とは別人です。べこやの仕事は、朝から晩まで365日休みがない。それだけでなく、家事も子育ても介護も全部母ちゃんたちがやってきた。その生きる力にはいつも圧倒されます。
渡辺 本当にそうね。
映画『飯舘村 べこやの母ちゃん』より©️MizueFurui2022
古居 一枝さんはずっと福島に通い続けて取材をして、それだけでなくデモやスタンディング、集会もやって、裁判の傍聴もされていらっしゃいますでしょう? すごいパワーだと感心しますが、どこからそんな力がでてくるのでしょう。
渡辺 私を動かしているのは「知りたい」という思い、ただそれだけなんですよね。とくに裁判では、抗っている相手が見えるんです。デモとかではなかなか見えづらい「相手」が一部だけれど目の前にいる。それで行っているところがあるんです。みずえさんこそ、重い機材を持ってお一人で現場を回るのは、大変なお仕事でしょう?
古居 応援してくださる方がいらっしゃるので、やめられないんです(笑)。前作をみて、「映画『飯舘村の母ちゃん』制作支援の会」というのができて、映画作りのためにお金を集めたり、車を出してくださったり、文字起こしなどをしてくださるボランティアさんが集まってくださいました。そのみなさんに支えられて、なんとか続けています。私自身はいま腰を悪くしてしまい、ここ数ヶ月は飯舘村には行くことができていないのですが、カメラだけはいつもバッグに入れています。
渡辺 みずえさんでなければ撮れない映画があると思います。ぜひ撮り続けてください。楽しみにしています。
(取材・構成/マガジン9編集部)
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古居みずえ(ふるい・みずえ) 1948年、島根県⽣まれ。アジアプレス・インターナショナル所属。1988年よりイスラエル占領地を訪れ、パレスチナ⼈による抵抗運動・インティファーダを取材。特に⼥性や⼦どもたちに焦点をあて、取材活動を続けている。他にもインドネシア、アフガニスタン、アフリカの⼦どもたちを取材。新聞、雑誌、テレビなどで発表。2007年、映画『ガーダ パレスチナの詩』制作。2011年、映画『ぼくたちは⾒た ガザ・サムニ家の⼦どもたち』制作。坐・⾼円寺ドキュメンタリー⼤賞受賞。2016年『飯舘村の⺟ちゃんたち──⼟とともに』制作。本作は『飯舘村の⺟ちゃんたち』シリーズ第2作にあたる。
渡辺一枝(わたなべ・いちえ) 1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満州各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。
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