昨年5月25日、在外日本人国民審査権に関する大法廷判決が出ました。15人の最高裁判事全員一致による戦後11件目の法令違憲判決で、弁護士の吉田京子さんはこの訴訟を代理人として闘われました。また、昨年8月には受刑者の選挙権を制限する公職選挙法の憲法適合性を問う訴訟を提起されています。これらの訴訟の意義についてお話しいただきました。[2023年1月14日(土)@渋谷本校]
「これは憲法に違反するのではないか」
この在外日本人国民審査権訴訟の発端は、2017年10月の衆議院総選挙でした。その日、東京は大雨で、私は傘をさして投票所に行きました。そして帰宅してフェイスブックを見ると、友人の投稿が目に入ってきたのです。当時ブラジルに住んでいた日本人の友人ですが、サンパウロに投票をしに行ったところ国民審査の投票ができなくて、「もしかすると、これは憲法に違反するんじゃないでしょうか」と書いていました。
このとき私は初めて、海外に暮らす人は選挙の投票はできても国民審査の投票はできないことを知りました。ほぼ同じとき、アメリカに住む別の友人もデトロイトの領事館へ投票に行って国民審査ができないという経験をして、首をひねって帰ってきてフェイスブックを見たそうです。
このブラジルとアメリカにいた私の友人は2人とも弁護士ですが、お互いに面識はなくフェイスブック上の友達でもありませんでした。しかし、私がブラジルの友人の投稿に「いいね!」を押したことで、アメリカに住む友人のタイムラインにもその投稿が流れていました。その友人が立派だったのは、ブラジルからの投稿を読んでコメント欄に「私もきょう投票に行って同じことを思いました。違憲訴訟しませんか」と書いたことです。私はそれを見て非常にびっくりしました。カジュアルに書いていましたが、違憲訴訟は簡単なことではありません。しかし、「やるとしたら私がやらなきゃ」という気持ちがあり、私も「やります」とコメントしていました。それが、この訴訟の始まりです。
この弁護士2人がまず原告になりました、そこに当時アメリカ・ニューヨークに住んでいらした映画監督の想田和弘さん、そしてブラジルに住んでいた別の2人も加わって、原告5名になり、最終的に弁護団も6名になりました。
国家賠償請求の大きなハードル
なぜ在外日本人は、国民審査の投票ができなかったのでしょうか。別に禁止されていたわけではありません。実は、海外から選挙の投票ができるという法律はあっても、国民審査ができるという法律がなかったからなのです。法的に言うと、権利はあるのに権利行使ができない状態でした。
どうやってこれを争うかと考えたとき、初めに思いつくのが国家賠償(国賠)請求だと思います。在外日本人が国民審査の投票をできるようにするための法律を国会が作ってこなかった。そのことが憲法に違反するとして、立法不作為で国賠請求する方法です。ただし、国賠請求で勝訴するためには、それが単に憲法違反というだけではなく、憲法違反が国会にとって明白だったにもかかわらず、長期間その状態を改正することを怠ってきたことまで立証できなくてはいけません。そこで初めて国賠法1条1項が適用できる仕組みになっています。
ここに大きなハードルがあって、先例を見てみますと、憲法に違反するとか違反する疑いがあると裁判所が認めても、国賠法1条1項までは認められないという判例がいくつも出てきます。それどころか、裁判所は憲法違反かどうかの議論をせず、「国が長期間放っておいたとまでは言えない」というだけで請求を棄却できてしまうのです。
私たちの訴訟の目的は、最終的に在外日本人が国民審査の投票ができるよう制度を変えることでした。裁判所が正面から憲法の議論をして違憲を認めれば、国賠請求で負けてもそこから議論を喚起し、制度を変えていけるかもしれないと考えていました。しかし、裁判所が憲法の論点に触れることなく国賠請求を棄却すれば、議論を始めることすらできない恐れがあったのです。
そのため、国家賠償請求だけでは足りないと私たちは考えて、「確認の訴え(※1)」をあわせて提起しました。実は、私たちよりも前の2011年に、東京地裁で同様の訴訟はすでにされていました。このときの判決では「違憲の疑い」とは言ったのですが、明白性がないからと国賠請求は棄却されています。また、原告が次回の国民審査のときに投票できる地位にあることの確認を求める「地位確認」の訴えも不適法却下されています。「法律上の争訟(※2)ではない」、つまり裁判の対象にならないという判断でした。これは非常にわかりにくい判決ですが、私自身はこのときの理屈は間違っていると思っています。
ただし、地裁レベルでもそういった判断がすでにあったわけですから、今回も地位確認ができるのかは非常に難しいところでした。
もう一つ、確認の訴えには「地位確認」のほか「違法確認」と呼ばれるものがあります。これは、次回の国民審査で原告に投票させないことは違法だということを確認する内容です。しかし、「地位確認」も「違法確認」も、それが法律上の争訟なのかという問題と「確認の利益」(※3)があるのかという問題がついてきます。
このとき私たちは、神戸大学の木下昌彦先生という憲法の先生に相談をしました。彼は私のロースクールの同級生で、親しい友人の一人です。彼を通じて他の行政法の先生がたにも助けていただきました。そうして最終的には、国賠請求と、地位確認と違法確認の2種類の確認の訴えを提起したのです。
※1:一定の権利または法律関係の存否に関する主張について判決を求める訴え
※2:当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、 かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるもの
※3:原告の法律上の地位に不安ないし危険が現に生じており、それを除去する方法として、原告・被告間で確認訴訟の対象たる権利又は法律関係の存否について判決することが有効適切な場合に認められる
国民審査権は選挙権と比べて保障が劣る?
東京地裁の一審判決が出たのは、2019年5月28日です。一審判決では、確認の訴えについては地位確認も違法確認もいずれも却下でしたが、国賠は認めました。在外邦人の国民審査権を制限するには、やむを得ない事由が必要だが、そういったやむを得ない事由はないということで憲法違反の状態であることを認めています。その上で違憲の明白性も認めて国賠法上の違法があると判断しました。これは勝訴は勝訴なのですが、確認の訴えの却下については納得できないところがありました。
この判決は、原告、被告双方が控訴して控訴審に移ります。控訴審の目標は、国賠の認容判決を維持するだけではなく、確認の訴えが認められることでした。控訴審では、神戸大学の興津征雄先生に意見書を書いていただきました。また、この一審判決は判例雑誌に掲載されて広く読まれましたので、複数の先生方が一審判決の法律上の争訟性の理解は明確に誤りだという評釈を書いてくださっていました。そうした評釈も裁判所に提出しました。
東京高裁での審理で裁判官が気にしていたのは、選挙権と国民審査権の関係でした。一審判決では、2005年の大法廷判決で選挙権の制限にはやむを得ない事由が要るとされたことを先例にして、国民審査権も同じだとしました。しかし、選挙権と国民審査権は憲法上、別の権利として書いてありますので、2005年に選挙権について打ち立てた審査基準が国民審査でも使えるという論証が必要でないかというお話があったのです。
国民審査権は選挙権と比べて非常に劣った保障しかない、というのが被告である国の主張です。その一つの理由は、国民審査は非常にまれな制度で他の国ではやっていないので、民主主義の本質に関わる権利ではないというものです。それから、憲法44条では選挙権の行使の主体について差別をしてはいけないと書いてあるわけですが、審査権については何も書いていないので、審査権の行使の主体を制限することについて憲法は緩やかに考えているのではないかというものです。
また、任命後しばらく選挙がない場合には、退官までに一度も国民審査を受けない裁判官というのも存在し得ます。歴史上、2名の最高裁判事が国民審査を経ていないそうですが、そう考えると必ずしも国民主権や民主主義にとって国民審査は不可欠の装置ではないのではないかというのが国の意見です。そして、そうであれば、その行使の主体は緩やかに制限され得るのではないかという理屈でした。
三権分立と民主主義における大きな意味
ここからが私たちの反論です。では、国民審査がなかったらどうなるのでしょうか。そのことが国民審査権の意義をストレートに示しています。
国民審査がなければ、最高裁判事は内閣が任命して終わりです。内閣は全く自由に最高裁判事を任命できることになり、三権分立の法執行機関である内閣が、任命権を通じて裁判所を支配できることになります。そのように内閣が完全に人事権、任命権を掌握している裁判所が、内閣が作った法律について「これは憲法に違反するから無効だ」というような違憲立法審査権を行使できるでしょうか。そうなれば、裁判所は独立機関ではなくて、政府、内閣の下にある一つの行政機関と変わらなくなってしまい、三権分立は成り立ちません。
国は、国民審査が日本独特の制度だと主張しますが、これはミスリーディングです。民主主義を標榜する国で、日本でいう最高裁の裁判官を法執行機関、行政府だけで選んでいる例はありません。行政権、法執行機関と立法府とで任命権を分け合う、あるいは行政府が任命しても国会の承認が必要な制度になっています。そうすることで裁判所が行政権に従属しないようにしているわけです。そう考えると日本では国民審査がなければ、三権分立も民主主義もあり得ないと言えます。
もう一つ、これまで国民審査によって罷免された裁判官はいないので、実際には国民審査は機能していないのではないかという議論があります。しかし、たとえば私が住んでいるマンションは築15年超で一度も火事が起きたことはありませんが、だからと言って避難はしごは要らないのでしょうか。そうではありません。今後も火事が起きない保障はないからです。同じように、何か本当に問題が起きたときに、私たちが国民審査で裁判官を罷免できる権利はやはり必要です。
また、これまで罷免されていないのは、国民審査があることで、あらかじめ恣意的な任命がされないように抑制されているからだとも言えます。以前、一票の格差訴訟でどの裁判官がどんな判断をしたのかを発表して「この人にバツを付けましょう」というキャンペーンがありました。そのキャンペーン後の国民審査では、バツの数に有意な違いが出たそうです。裁判官も、判決の内容に応じてバツが増えることを気にしていると思います。そう考えると、たとえ罷免にならなくても国民審査は機能しており、意味があると思うのです。
このように選挙と審査は、国民主権・三権分立を実現するための両輪ですから、審査権の制限が緩やかに認められていいことにはならないと控訴審では主張しました。
一審判決とは真逆になった控訴審判決
私は一審判決直後にアメリカ・サンフランシスコに留学しましたが、控訴審判決が出たのはちょうど帰国後の2020年6月25日でした。留学中もオンラインで弁護団会議に参加していましたが、運の良いことに判決はすべて日本で聞くことができました。
ぜひ判決全文を読んで比べていただきたいのですが、控訴審判決では一審判決を破棄して全く逆の判断になっています。一審が認めた国賠請求は、請求棄却です。その代わりに、と言いますか、一審で不適法却下された違法確認の訴えを認めています。
地位確認は引き続き却下でしたが、次回の国民審査で原告に投票させないことが違法であるということを控訴審が認めたことになります。つまり憲法違反であることを前提にしつつ、法律上の争訟であること、訴えの利益があることを認めたことになります。この判決は大きな意味があります。国賠法1条1項の適用に踏み込まなくても、裁判所で憲法の議論をして憲法違反だと認めてもらうことができるということです。ですから、国賠だけではなく確認の訴えを通すことが非常に重要だったのです。
最高裁は事件を大法廷に回付し、最高裁の全裁判官15名の合議で判断されることになりました。私が最高裁判事の前に立って口頭弁論をしましたが、そのときの様子を神戸大学の木下先生がブログ(『2022年4月20日最高裁大法廷にて』)に書いてくれました。その一部を紹介します。
吉田弁護士は、居並ぶ裁判官たちを見渡しながら開口一番次のように述べた。
「15名の最高裁判事の皆様。皆様に、私は今日、まず申し上げなければならないことがあります」
何を述べるのだ。この冒頭の一節から冷や冷やしたのは、私だけではないだろう。静まり返る法廷のなかで彼女はこう続けた。
「それは、今ここにいる皆さんは、国民の正式な信任を得ていないということです。誰一人として、憲法の定めるとおりの任命手続を経ていません。海外に暮らす人たちが、皆さんの任命について、それが正しかったかどうかについて判断し、意思表示する、国民審査の投票をしていないからです」
「どうして、ただ海外に暮らしているというだけで、彼らは国民審査ができないのでしょうか。それは、国が、海外に暮らす人たちを、そして国民審査権を軽視してきたからです」
こう言って弁論を始めてから、私が家族や友人と普段している「国民審査で誰にバツを付けたらいいのか、どう判断したらいいのか」という会話について紹介しました。具体的に目の前にいる裁判官のお名前を挙げて、「『宇賀克也先生はどう?』と友人に聞かれたら、私は『宇賀先生は、こういうことをしてきた、こういう人だよ』と話しています」と紹介していきました。そうやって順番に4名の裁判官の話を実名で紹介しました。裁判官の皆さんは非常びっくりされていましたが、喜ばれてもいたと思います。
そして最後に「こうした対話こそが私たちの民主主義の始まりです。私たちが、家庭で、社会で、ごく自然に経験している民主主義のための対話に、海外にいる人たち、これから海外へ行く友人たちを参加させてください。日本にいる私たちは、この対話から始めて皆さんを信任しました。今、その信頼に応えてください」と言って、私は弁論を終えました。
非常にチャレンジングな弁論でしたけれども、議論をしようという姿勢が感じられたと傍聴に来てくださった多くの方から好意的な反応をいただき、大きな手応えを感じました。
「簡にして要を得た論述」をもう一度
この最高裁の判決は、皆さんもうご承知かもしれませんが、2021年5月25日に出ました。この日、大法廷に15名の裁判官が順番に入ってきました。その中には、私が学生時代に教わった宇賀先生もいました。法廷が始まる前にマスコミが数分間ビデオを撮る時間があります。ほとんどの場合、裁判官はじっと動かずにいるのですが、この日は宇賀先生だけが、手元の文章を目でずっと追っておられました。
それを見たとき、私は非常に驚きました。判決は裁判長が読み上げるので、他の裁判官は自分の控えを読み返す必要はないはずです。ですから、もしかして宇賀先生が補足意見を読むのだろうかと思いました。しかし、実際には通常どおり裁判長が判決を読みました。それは15人の裁判官全員一致で、これは憲法に違反するという内容で、国家賠償請求も違法確認も認めました。私たちからすれば満額回答で、非常にうれしい判決です。ただ、私は宇賀先生がなぜ始まる前に手控えを読んでおられたのかがずっと気になっていました。
実は、この日読まれてはいないのですが、判決には宇賀先生の補足意見が付いていました。その結びの部分には、こうした訴訟に確認の訴えを使っていくのは望ましい方向だと述べられています。ここから裁判所の姿勢が分かるのですが、なぜ確認の訴えを今回認めたのかというと、そういう形で憲法的な救済を裁判所が与える責任があると考えられたからだと思います。この補足意見を読むと、今回の判決は宇賀先生が主導されたのではないかと感じられます。ですから、判決直前のタイミングまで判決文を確認せずにはいられなかったのではないでしょうか。
私はロースクールにいたときに、宇賀先生の上級行政法という授業を取っていました。その試験は非常厳しくて単位がとれない人がたくさんいましたが、私はA+という良い成績をいただいています。そのとき戻していただいた答案に、宇賀先生が手書きの赤ペンで一言、「簡にして要を得た論述です」と書いてくださっていました。
当時はロースクールができたばかりで、まだ旧司法試験もありました。ロースクールに行かずに司法試験の受験を続けている友人がいたり、あるいは学部時代に試験に受かって実務家になりつつあったりする友人もいて、流動的な時代でした。私自身、先のことが分からなくて、自分の能力や将来の仕事など、何もかもが不安でしょうがないときでした。そういうときに宇賀先生が「簡にして要を得た論述」だと書いてくださった言葉に、私は大変励まされるものがあり、ずっと覚えていました。
ですから、大法廷でもう一度宇賀先生に会えることが分かったときに、私としては先生にもう一度、「あなたの答案は、簡にして要を得てる」と言ってもらいたい気持ちで弁論しました。
いまでは弁護士と最高裁判事ですから、個人的にやりとりすることはありませんが、あの法廷でのやりとりや先生の補足意見を見ると、ずっと努力してきたことが先生に伝わったのだと感じて非常にうれしかったです。そして、努力が実ったのは多くの人に助けていただいたからだということも強く感じた判決でした。
「かわいそうランキング」ではなく法が支配する社会
最後に、この訴訟後のことを少しお話しします。この大法廷判決は戦後11例目の法令違憲判決ということで大きく報道していただきました。それはうれしかったのですが、むしろ私はここで立ち止まれないという気持ちが強くなりました。
アメリカで言われている「大きくて黒い犬問題」というのを聞いたことがあるでしょうか。保護犬のシェルターで、大きくて黒い犬は里親が見つからないという問題です。保護犬を引き取るのは非常に善意ある人たちだと思いますが、小さくて白い犬ばかりが引き取られるそうなのです。その理由は「かわいそうに見えるから」だと言われています。
人間社会でも同じことが起きているのではないでしょうか。社会を良くしようと考える人たちは大勢いるわけですが、その興味関心はどうしても「美しい物語」や共感しやすい人たちに向かいやすい。しかし、それでは救われない人がいます。
よく似た言葉に「かわいそうランキング」があります。社会的弱者を救済する活動やリソースの配分を考えたときに弱者の中にもランキングがあって、同情を得やすい人、共感されやすい人が上位に来る。この言葉には、私たちがランキングをつけて「かわいそう」に見える人から救っていることへ皮肉が込められています。
私はこの「かわいそうランキング」が支配する社会に疑問を感じています。その根源には自分自身が「大きくて黒い犬」なのではないかという不安があるのです。大法廷判決後もこうした訴訟に関わり続けようと思ったのは、「大きくて黒い犬」も安心して暮らせる社会にしたいからです。
それが2021年8月1日に提訴した、受刑者の選挙権を奪う公職選挙法が憲法に違反することを主張した訴訟です。この訴訟はまだ始まったばかりです。
この訴訟の準備をしていたときのことをご紹介したいのですが、必死に資料を探していたときに、『憲法I』という4名の先生が書かれた本の中に、受刑者選挙権について明確に記載がされているのを見つけました。そのとき、私の胸に静かな喜びが走りました。なぜかというと、執筆者のひとりである高橋和之先生に、私は20年前に憲法を習っているのです。憲法を習っていた学生時代の友人に、在外日本人国民審査権の大法廷判決では助けられました。そして、始めたばかりの受刑者選挙権の訴訟でも、本を開くとかつての先生方が味方をしてくれていました。
つまり、20年前の私が勉強していたことが、そのまま今の訴訟につながっていたのです。研究者とか実務家といった垣根を越えて、法律を学び議論をしていくなかで、私たちは「かわいそうランキング」ではなく法が支配する社会をつくることができます。私もそうした知的な有機体の一員だということを感じました。
皆さんもいま一生懸命に勉強されているだろうと思います。きっとそれは20年後につながっています。勉強することさえ止めなければ必ず得るものがある。そのことを最後にお伝えしたいと思います。
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よしだ・きょうこ 弁護士、「高野隆法律事務所」パートナー、元裁判官。2005年東京大学法学部卒業、2007年東京大学法科大学院修了。2009年に裁判官任官、東京地方裁判所勤務。2011年に退官後、2013年に弁護士登録。2020年UC Hastings College of the Law 修了(LL.M., 刑事法専攻)。