※「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」については、第49回、第52回、第59回などをお読みください。
*
まず、当日の法廷での原告および代理人の発言を以下にまとめる。
私は原告の古山久夫です。
私は、福島地方裁判所郡山支部の第一審で、陳述書を提出し、2019年9月19日に原告本人尋問でも証言をしました。
原発事故当時の同居家族は、父・優、母・ミツ子、私、妻・幹子、長男・優太、長男の妻・瑠璃、であり、全員がこの裁判の原告となっています。
事故当時、私たちは、津島で和牛畜産業の仕事を家族で営んでおり、母牛に子牛を生ませ、その子牛を育てる「繁殖」と、市場で買った子牛を大きく育てる「肥育」の両方を行っていました。
原発事故後も、自分の生きる道は牛飼いしかないと考え、いわき市に牛舎を建設し、様々な困難を乗り越えながら、牛飼いを続けています。
2019年には、少しずつ仕事も軌道に乗り始め、当初は繁殖牛約80頭、子牛約50頭を飼育していましたが、現在は順調に事業を拡大し、260頭の繁殖牛、140頭の子牛を飼育するにいたりました。
現在6人の従業員を雇用し、家族含め総勢10名体制で畜産業を営んでいますが、昨今の円安の中で、飼料となる輸入とうもろこしの高騰、燃料代の高騰で厳しい経営を強いられています。
長男・優太は、2019年7月17日に甲状腺がんの手術を行いました。原発事故後、長男は原町にある牛舎の預託牛約200頭の面倒を見るため、飯舘村の公道で車中泊をしたり、牛舎に泊まり込んだりしながら高線量の放射能汚染の中で2011年7月ころまで生活をしていたのです。
手術当時、長男には小学3年生をはじめとして3人の子どもがいました。長男は、手術の前日、妻の瑠璃を連れだし、「最後の晩餐」と称して大好きだったラーメンを食べに行きました。もしものことがあったら3人の子どもたちのことをよろしく頼むと、泣きながら、ラーメンを食べたそうです。幸い長男は、現在のところ、再発も見られず元気に働いています。孫にも、のう胞が発見され、今のところは元気でいますが、孫たちの将来の健康がとても心配です。
私の父・優は、若い頃は炭焼き仕事の貧しい生活の中で、出稼ぎをしながら家族を育ててきました。辛い出稼ぎ生活からなんとか脱却したい、と父が昭和30年頃から始めたのが畜産業の仕事でした。1975年には、私も父の畜産業に合流し、その後長男・優太も加わり、親子3代にわたり牛飼いとして生活をしてきました。
父は、津島の自宅の裏山に入ってわらびやタラの芽などの山菜、キノコなどを採るのが大好きでした。いわき市に避難してからも、早く津島に戻りたい、というのが父の口癖でした。
2022年3月20日のお彼岸の日、足が不自由になっていた父・優(当時89歳)は、夕方6時頃、一人でいわきの今の自宅の裏山に山菜採りに出かけてしまいました。今まで足を踏み入れたことのない不案内な山です。父は、裏山を眺めている間に、いつしかなつかしい津島の裏山の光景と重なり、津島にいた当時を思い出し、いてもたってもいられなくなったのでしょう。小雨の降る寒い日で、気温は5度くらいの日でした。日がくれても、父は帰ってきません。近所に住む妹を呼んで家族6人総出で1時間半ほど捜索をしましたが、父は見つかりません。そこで警察署に電話して警察官4名に出動してもらい夜10時過ぎまで捜索をしましたが、やはり見つからず、捜索は一時打ち切りとなりました。
翌朝8時から地元の消防団にも出動を要請して捜索を行うことになりました。
この時点で、私を含め家族は、父の死を覚悟しました。
翌朝、私たち家族は、消防団の捜索が始まる前、日が昇った6時前から、山の中を捜索しました。そして6時45分頃、足の悪い父が、600メートルほど分け入った山の土手の下に転げ落ちて顔も手足も傷だらけでうずくまっているのを発見しました。
消防団の人を呼んで担架で自宅まで運んでもらい、そのまま病院に救急搬送となりました。
幸い命に別状はなかったのですが、自宅での生活は危険ということで特別養護老人ホーム(「オンフール双葉」)に入所させてもらうことにしました。
母・ミツ子も体調を崩し昨年、同施設に入居することになりました。
母・ミツ子に面会に行くと、「津島に乗っけてくれ」と車で津島に連れて行ってほしいと言われます。「今日は荷物がいっぱいだからだめだ」と言って断るのですが、悲しそうな母の顔を見ると本当に切なくなります。
津島の自宅は、今は藪の中で近づくこともできず、だれも管理しない建物は12年の歳月を経て朽ち果ててしまっています。とても両親を連れていける状態ではありません。
妻・幹子は、浪江町の加倉地区から津島に嫁いできました。妻の実家と津島の自宅は、車で30分の距離で、事故前は妻の実家の両親とは頻繁に行き来をしていました。事故後の3月15日、私と妻は、両親を妻の妹が住む埼玉県の大宮へ避難させました。白河市まで私が車で連れていき、妻の妹に引き渡しました。
妻の両親は、結局浪江に戻ることはできず、父は2018年8月27日、母は2020年12月11日に、避難先の大宮で亡くなりました。父も母も浪江に戻りたいと言いながら亡くなりました。
妻は津島の自宅も、浪江の実家も失い、悔しい思いをしています。
今の国と東京電力には、どうしても言いたいことが2つあります。一つは、希望しないと除染をしない、という国の対応です。私たちからふるさとを奪っておいて、希望があれば除染する、というのは順番が逆ではないでしょうか。まずは、除染をして私たちが帰りたくなる環境を整備することが国の責任だと私は思います。
もう一つは、いつも津島が後回しにされていることへの憤りです。私は、牛を連れて津島に帰って畜産業を再開したい、と国に希望を出しています。しかし、新聞報道によると、国の基本的な対応は、双葉や大熊をやってから津島の白地地区の除染を行う、除染は早くても2025年以降になるというもの。実際いつになるかもわからない現状です。
これでは、津島の住民が年々高齢化し、亡くなる人が増えふるさとへ帰ることをあきらめるのを待っているとしか思えません。
裁判官には、どうか私たちのふるさとを取り戻したい、という願いをしっかりと受け止めて、国と東京電力の責任を厳しく認める判決を希望します。
1999年9月、東海村JCOの臨界事故が起きた。これを契機に原子力災害対策特別措置法(原災法)が成立した。原災法は、原子力緊急事態宣言の発出の他、緊急事態応急対策の実施等につき特別の措置を定めることにより原子炉規制法、災害対策基本法と相まって、原子力災害に対する対策強化を図り、原子力災害から国民の生命、身体及び財産を保護することを目的とする法律だ。
そこでは、国は緊急事態応急対策の実施のほか、原子力災害予防対策及び原子力災害事後対策の実施のために必要な措置を講ずることが求められ、災害対策基本法の責務を遂行しなければならないとされている。また、関係する都道府県や市町村に対し、これらが円滑に行われるよう勧告・助言することが定められ、主務大臣は、これらの対策の実施が円滑に行われるよう東電など原子力事業者に助言・勧告すべきことも定められた。
国は原災法が成立して以降、原災法に基づく「除染技術の開発義務」「原発の危険性を近隣住民に周知させる義務」「除染計画を立てる義務」「避難計画を立てる義務」「SPEEDIの結果を被災地住民に速やかに伝える義務」を怠り、その結果、第一審原告らは事故から12年が経過するにもかかわらず、今なお、ふるさと津島に帰還できず、また多大な被ばくをも余儀なくされ、いまだに苦しみ続けている。原告らの被害は甚大、長期、広範、多様だ。
もし、国に、何もする義務がなかったというなら、今後どのような場所で原発事故が起きても、除染されないまま放置され、ふるさとは荒廃し、死滅し、消滅するしかない。原発被害を最小限度に防ぐ努力を何もしなくても良いということになれば、もはや原発の再稼働など絶対に許されるべきではない。そのことを強く、第一審原告らは主張する。
国は原発は安全だと広く宣伝してきたが、実際に事故が発生したら本訴訟の他の類似訴訟でも、一貫して自己の責任を否定している。この主張は、過去には自らの知見が不足していたので、事故前には適切な対策が取れたはずがないというものだ。国の主張は交通事故を例にとれば、被害者が目の前に飛び出してくるはずはないと思っていたからブレーキを踏むなど思いもよらないことだった。だからブレーキを踏んで減速できたはずがない、というようなものだ。交通事故において加害者がブレーキを踏むことを思いつかなかったとしても、不法行為責任が否定されることはあり得ない。
被告国は第1準備書面で可搬式設備による津波対策について何も触れていないが、原審判決は、可搬式設備の有効性を認めている。東電が保有していた台数は、高圧電源車48台、低圧電源車79台におよび、2011年3月11日16時50分頃には、これらの車両を福島に向け集結させるべく指示を出していた。自衛隊からも低圧電源車が4台提供され3月12日午前7時18分までに福島第一原発に到着している。十分な可搬式設備による津波対策があれば、事故を避けることはできた。国も東電も、可搬式設備を思いつくことはできなかったと主張することはできない。
福島第一原発は、当初4mの想定津波高に対応するよう設計されていたが、2008年試算が15m超の波高の津波の襲来の可能性を明らかにしたため、4mの想定は崩れた。
被告らは(安全対策は)防潮堤の建設しかないと主張するが、しかしいつ津波が襲来するかは不明であり、防潮堤建設には年単位の時間と巨額の費用がかかり迅速な対応が必要な状況では不適切だ。原発の安全性確保のための機器類は「安全系」と呼ばれるが、これらの機器は「非安全系」とは機能確保・設計・検査の基準に大きな違いがある。そして防潮堤は安全系に分類されていない。防潮堤について安全系としての基準がなかった以上、国が防潮堤を安全対策の基本としたという主張を、そのまま受け入れることはできない。
防潮堤と比べれば(建屋の)水密化(圧力がかかっても水がもれないような構造にすること)はより安価で、より短時間で実施可能だから、むしろ水密化を選択する方が自然だ。福島第二原発は、水密化による津波対策が実施されていた。国の「およそ津波の敷地侵入を認めた上での水密化を対策として承認するはずがない」という主張は成り立たない。
国の第2書面は「長期評価」の内容が、設置許可の取り消しや規制権限行使の違法性の根拠となる知見ではないとして、その信用性を否定しているが、原告らの本書面は、この点を中心にして反論を行なっている。
国は、原子炉設置許可取消権限の行使で考慮すべき設置許可後の事情として「長期評価の見解」のみを取り上げている。しかし原告らは、設置許可処分が行われた後に、その効力を存続させるべきではない事情として「長期評価」の公表のみを主張しているのではない。原告らが主張しているのは、国策として原発設置を推進してきた国が、事故発生後に安全規制者として高度の安全確保義務を負っているにもかかわらず①「過酷事故は我が国では起こらない」という安全神話をふりまいてきたこと、②シビア・アクシデント対策を取らなかったこと、③長時間の全電源喪失対策を取らなかったこと、④津波対策を取らなかったことであって、国が「長期評価の見解」以外の点を全く考慮していないことを指摘しておく。
次に中心論点となっている「津波評価」の信用性について、地震本部の長期評価部会長を務め「長期評価」の作成を主導した島崎邦彦氏は、著書の『3.11 大津波の対策を邪魔した男たち』の中で、「長期評価」が高度な信用性、合理性を有する知見であるから、これに基づいて国や東電が津波対策を講じていれば、原発事故は防げたことを指摘している。
そして島崎氏が力を込めて明らかにしているのは、国や東京電力によって「長期評価」の警告を歪めよう、弱めようとする様々な動きがあったことだ。完成した「長期評価」に対し、防災担当大臣から文部科学大臣に対し、その公表に反対する申し入れがされ、公表にストップがかからないことがわかると、次に内閣府からの圧力により「長期評価」の前書きを変える動きが出てきて、津波対策を取らなくても良いかのような文章が付加されることになった。その後も、このような動きが続き、本件事故に至った。規制当局や事業者にとって、「長期評価」の内容が誠に「不都合な真実」であったことを物語っている。
原告らが現在も受け続けている被害の発生を、我が国において二度と起こさないようにするためには、国も東京電力も、「長期評価」が原子力規制に取り入れるべき理学的知見であり、これに基づいて対策をとるべきであったことを真摯に受け止め、これを出発点とすべきである。
5月に行われた現地進行協議について
この日、私は急いで帰らなければならず報告集会は途中で退席したので、報告集会のことではなく5月25日に行われた現地進行協議のことをお伝えしたい。
裁判官が被害状況の見聞のために現地・津島に赴いて「現地進行協議」が行われたのは5月25日だった。これは実質的には「現地検証」というべきものだ。検分して欲しい場所や事柄はたくさんあるが時間は限られているので、場所は10ヶ所に絞り、無駄なく全てを回れるようにと原告らは万全を期して、3月21日、4月29日、更には前日の5月24日と、リハーサルを3回行なったという。
当日は仙台高裁の裁判官3名、国・東電の訴訟代理人が各5〜10名、原告団は役員や実施協力した団員など約40名、弁護団20名の計70名前後が参加した。
訪問した場所は以下のとおり。
実施間際に東電が、それぞれの場所での説明を申し入れたため、時間が詰まった厳しいスケジュールになったが、原告団及び弁護団が役割を分担して連携して臨み、逆境をはね返す極めて円滑、効果的な現地進行協議となった。原告団の人たちによれば東電の説明は、津島の過疎化進行や多額の賠償金支払いの内容などを延々と行うもので、自らが起こした過酷な被害の現場ですべき内容とは到底思えず、怒りの感情を抑えることができなかったという。
各箇所で原告団の石井絹江さん、佐々木保彦さん、武藤晴男さん、井瀬信彦さん、福島衛治さん、横山周豊さん、三瓶春江さん、紺野宏さんが、それぞれの立場から過酷な被害や復興に向けた意欲、希望を訴えた。
この日の裁判官3名は、自分たちで用意した防護服を着て臨んだそうだ。つまり、それを着なければならないほど、放射線量が高い地域であることをしっかりと認識したということなのだ。
*
この現地進行協議が、判決に良い結果をもたらすようにと、願ってやみません。
次回期日は9月6日(水)、その次が11月8日(水)となっています。となると、もしかすると判決を下すのは現在の石栗裁判長ではなく後任の裁判官になるのかもしれません。石栗正子裁判官は来年3月で退任です。