第59回:「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」傍聴記「帰還を悩み、選ぶ権利すら実現されていないのです」(渡辺一枝)

 4月26日(水)は、仙台高裁での津島訴訟控訴審第4回期日でした。裁判所前の「片平さんかく公園」で開廷前に開かれた集会から参加してきました。

ミニ集会、入廷前行進

 この日の天気は全国的に雨予報。東京を出る時はポツリ、ポツリ程度だったが、新幹線乗車後、大宮を過ぎて小山あたりから窓の外はすっかり灰色に覆われて、100m先が見えないような空模様になった。細かい霧のような雨が辺り中を覆い隠していたようだった。
 この分では公園でのミニ集会はできないだろうな、どうするのだろう。仙台に着いたら原告団事務局長の武藤晴男さんに電話をして、どこに集まるのかお聞きしようと思いながら外を眺めていた。でも案ずることはなく、郡山に着く頃は辺りを覆っていた灰色は溶けて、遠景の山や近景のビル群が見えてきた。仙台駅に着いたら、雨は上がっていた。
 駅ビルの中の蕎麦屋さんで昼食を済ませて、片平さんかく公園へ行った。普段は会えないが裁判の日には会える人たちがいて、互いに挨拶を交わしながら談笑していたら、また雨が落ちてきたので、傘を広げた。
 13時きっかり集会が始まり、原告団の佐々木茂さんの進行で原告や支援者のスピーチが続いた。傘をさしていたのでメモは取れなかったが、原告団長の今野秀則さんの言葉が心に残った。
 「子どもの頃から、親やじいちゃん、ばあちゃんから『汚したら、掃除をしなさい。壊したら、元通りにしなさい』と言われて育ってきました。津島は東電の事故で放射能で汚され、除染されたのは地区のたった0.6パーセントの部分でしかありません。そればかりか教育現場でさえも、原発事故は無かったかのような教育が進められてきている。新しい原発をつくるとか再稼働の方向へ進んでいます。避難指示が解除されて、仮に元の家に帰っても生活再建の道はありません。亡くなった人も増えました」
 秀則さんの言葉からだけではなく他のすべての人たちのスピーチからも、国と東電に対する不信感と憤りが噴き出ていた。集会の後、裁判所の塀に沿ってほんの100mばかりを、横断幕やプラカードを掲げて、裁判所門前まで行進した。傍聴席は79席だが、かろうじて埋まる程度の参加者で、この日は抽選なしで全員が入廷できた。

津島訴訟控訴審第4回口頭弁論期日

 原告の柴田明範さん、原告代理人の菊間龍一弁護士の意見陳述を転記する。

原告意見陳述:第一審原告 柴田明範

 第一審原告柴田明範です。私は、昭和41年に赤宇木の農家に生まれました。昭和34年に祖父の亀寿が津島に入植して、7年が経った頃です。この当時の赤宇木は、ほとんど山しかありませんでした。私は、19歳の時に南津島で三代続く農家に生まれた妻と結婚し、原発事故の起こる日まで45年間ずっと津島で生活してきました。私達夫婦は、祖父の代から山間部の所々に少しずつ開拓された田畑を引き継いで、兼業農家として野菜などを作っていました。
 畑では、大根、きゅうり、白菜、なす、じゃがいも、トマトその他の季節に応じた野菜や果物、リンドウなどの花を作っていました。作った農作物は、選別などの準備をしてから、出荷していました。こうした作業は、妻の友人と一緒に行っていました。私たちの仕事は、会社に勤務するのとは異なり、仕事というよりも生活そのものであったのです。出荷しない分は、知り合いから譲り受けた大きな業務用冷蔵庫に保存して、家族で食べていたのです。例えば、ジャガイモは、夏に採ったら翌年の3月ころまでは芽を取りながら保存できました。
 米は近隣に住む知り合いの農家から毎年一年分を予約し、秋に購入して食べていました。私たち家族は、自分たちで山を持っていたので、山菜を採ることができ、春から秋まで豊かな食生活を送ることができました。子どもたちにも山菜が採れる場所を教え、将来、受け継いでいく予定でした。春は、フキノトウ、ワラビ、タラの芽、秋はキノコが豊富に採れました。親戚や知り合いに、キノコを採りにつれてってくれといわれ、一緒に採りに行くこともありました。山は広いので、闇雲に入っても迷子になってしまいますし、蛇も出ますから、私たち夫婦が連れて行くのです。娘が幼稚園のころ、コウタケが食べたいから連れて行ってくれと言ってきて、一緒に行ったのは良い思い出です。たくさん採れた時は、近所の家々とも分け合ってました。直売所で販売することもあり、それを買ってもらえる楽しみもありました。その他の農作物は近隣住民と交換して入手していました。
 冬になると妻が味噌を作り始めます。手回しで豆を潰す機械が家にあったのです。味噌は、夏を越して1年で作るものと、さらに2年越すと食べられるようになる3年味噌と、2種類を作っていました。作った味噌は赤宇木の婦人部で出したりもしましたし、味噌漬け今年はやっているのかと、欲しい親戚が貰いに来てもいました。今でも季節が巡ると、昔から採ったり作ったりしていた旬の味を思い出します。
 生活用水としては、沢の水や井戸の地下水を使用していました。津島の設備業者にお願いをして、自分たちで持っている山の高い場所に掘ってもらった井戸です。
 私たち家族の食生活は、肉や魚を除けばその地にあるものでもって完結していました。
 私たちの自宅は赤宇木の山間部にありました。赤宇木には田植え踊りや盆踊りがあり、代々受け継がれていました。道路清掃や草刈りのボランティア活動や赤宇木産の野菜を使った子ども育成会主催のバーベキュー大会やキャンプ等の赤宇木固有の行事もあり、津島で暮らす親子が皆家族のような交流を続けていました。
 津島地区の住民全体が家族のような関係であり、日々の家の行き来や農作物の交換、赤宇木や津島地区で行われる行事やその準備にあたる共同作業が、津市地区の住民同士の交流にとってかけがえのない機会でした。
 こうした私たちの生活の根幹は、今回の事故により、突如として失われました。避難先を転々とするうちに親しかった住民はバラバラになりました。家だけではない、日々の仕事道具も、今まで食べていたものも、家族と歩いてきた道の景色、山の陽射し、風の匂い、草を踏む音、それら全てが一日にして奪われ、別の何かにすり替えられたのです。
 私の二女の結美は、避難先に転校した学校で、浪江町から来た子がばい菌扱いされているのを目の当たりにしたことで、中学校には3年間通うことができず、家にこもるようになったばかりか、一時期は何も食事できない状況にまでなりました。
 また、事故当時中学生であった長女の侑香は、甲状腺にのう胞が見つかり、自分は結婚できるのか、子どもを産めるのか、今なお不安を抱えています。侑香は、過酷な避難生活の中で耳が急に衰えて行く高齢の避難者を目の当たりにして、言語聴覚士を志し、専門学校に入りました。しかしながら、在学中、唐突に起立性調節障害に見舞われ、3年間休学してリハビリを続けましたが、快復せず、退学を余儀なくされたのです。
 今回の事故から12年が経ちました。「津島の子どもたち」というのは、今はもういません。当時の子どもは成人していますし、成人していない子たちも、小学校に上がるころは既に二本松などに避難して移り住んでいたからです。
 同じ事故被害者である私の同級生の中には、「俺は、今は福島で立派に家を建てて暮らしているんだ」と言う人もいます。気丈ですが、しかし彼も、ふるさとを奪われたために前を向かざるを得なかった者に過ぎません。今回の事故がなければ、津島の地域で、津島の住民と、普通に暮らしていたはずの人です。都市型の生活を「普通の生活」として政府に強いられ、受け入れざるを得なかった人です。私たちの間では、最初に申し上げた生活こそが、普通の生活でした。
 裁判を始めた時から何も変わりありません。私たち夫婦は、津島に戻りたいです。子どもたちには今の生活があります。なので、子どもたちにまで、津島に戻ろうと言えるわけもありません。しかし、だからといって、時間の経過や世代の交代が、原状回復として国や東電がすべき除染を、しなくていいという理由にはならないはずです。そうではない。そもそも、私たちにおいては帰還を悩み、選ぶ権利すら実現されていないのです。私たちの世代も、子どもたちも、今の生活は、決して自分の意思で選び取ったものではない。だから、津島に戻って生活するという選択肢の回復を求めています。
 事故当時、私の父の輝男は、肺の疾患のため南相馬市内の病院に入院していたので、すぐに迎えに行ったところ、職員から、「放射能が入るから病院の扉を開けられない」と言われ、門前払いに遭いました。やむをえず父を病院に残したまま私たち家族は避難するしかなかったのです。
 ひと月ほど県外避難をした後に、二本松市の岳温泉の避難所に身を寄せてから父を探し、方々尋ねて廻り、福島県相馬市の廃校の校舎に避難させられたと聞いたので様子を窺いに向かったところで、ようやく再会できました。父は主治医から、肺疾患で温度差は大敵だと忠告されていたにもかかわらず、この時は、狭い教室の中で毛布を2枚だけ敷いて寝かされている状態でした。私は愕然として、岳温泉地区の避難所に連れて帰りました。その後も避難先を転々とし、郭内公園の仮設住宅に3年住まわされましたが、その環境というのは、むごいものでした。ある朝、目が覚めると、仮設住宅に父がおらず、探し回ったことがあります。周辺の人伝手に話を聞いたところ、明け方の4時ころに、父は仮設住宅を出て、浪江に帰る人に頼み、津島まで送ってもらって行ったということでした。晩年は、自分の意思で、是が非でも津島に居ようとしたのです。こうした避難生活の無理がたたり、私の父は、2015年1月20日に亡くなりました。
 今回の事故から今日までの間に、去っていった世代もいます。被害者は皆大人になり、それぞれ自立して生活を営んで行きますが、今回訴えを起こしている私たち全員にとって、ふるさとは津島しかないのです。
 妻は旧姓を坂下といいますが、現在、その実家を相続しております。夫婦合わせて2軒分の土地の名義が今も津島にあります。ですので、私たちの世代がいるうちは別として、その後、いったい誰が管理するのか。一向に見通しは立たず、不安が残り続けます。被害者がそれぞれ津島に帰るか帰らないか、農業に復帰するかしないかといったことは、その家や農地を持っている人が判断することであって、加害者は、判断の土台を壊したのですから、それを修復するのが当然のことです。今の世代や、後の世代が農業をやらないなら、除染も必要ないといった考え方は、到底受け入れられません。加害者の立場で、そういったことを決めつけてはいけないはずです。むしろ被害者にこそ、津島に戻り元の生活を送るかどうかを選び取る権利がなくてはなりません。
 どうか、私たちの正当な権利の実現を認めてください。そして、元に戻す責任から逃れることに終始する国と東電を、正当に裁いてください。

原告代理人:菊間龍一弁護士意見陳述

「株主代表訴訟判決」から見る最高裁判決の不当性
 
1 はじめに

 第一審で原告らは、第1準備書面において、第二小法廷判決の多数意見がいかに不当なものであるかを主張しました。
 すなわち、第二小法廷は、確立した過去の判例上の判断枠組みに反し、国の規定制限を定めた法令の趣旨、目的や、その権限の性質については一切言及せず、これらの法令解釈について何らの判断もしませんでした。また、仙台高裁、東京高裁、高松高裁が適法に確定した事実を無視して、結論ありきで、「法律審」であるにもかかわらず自ら誤った事実認定をしたのです。
 今回提出した第10準備書面は、この第二小法廷の翌月に東京地裁で言い渡された株主代表訴訟に基づき、やはり第二章法定判決の事実認定が誤ったものであることを主張するものです。

2 最新の科学的知見を考慮すれば敷地前面から浸水する津波への対策を講じた盖然性が高いこと

 地震活動の調査研究を行う地震本部は、2005年度から、東北地方に甚大な被害を引き起こした貞観津波のような地震の発生機序を解明する「5ヵ年調査」に取り組み始めました。それまでの研究においても、貞観津波について福島県沖にかけての断層モデルが提案されていたところ、「5ヵ年調査」によって、少なくとも北は宮城県・牡鹿半島西部から南は福島県・常磐海岸地域中部まで、その存在が地質学的に確かめられました。また、貞観津波のような津波が、各地で過去に繰り返し発生していることが地質学的に検証できました。
 とりわけ、2008年に公表された「佐竹論文」は、津波堆積物の分布を説明することが出来る波源モデル2つを提示するものでした。
 東京電力らが「佐竹論文」の示した波源モデルによって概略計算したところ、福島第一原発の敷地前面の津波水位がO.P.(小名浜港工事基準面)で+8.6mから9.2mとなる結果になりました。また、津波評価技術の手法による詳細パラメータスタディを実施した場合、さらに2、3割程度は津波水位が上昇する可能性が高いものでした。つまり、詳細パラメータスタディを行えば、O.P.+10.3mから12mの津波が敷地前面(東側)に到達する可能性が高いことを認識できたのです。
 したがって、国・東京電力は、長期評価に基づく試算によって敷地高を超えて浸水する津波の到来を予見することができたうえに、貞観津波の知見を併せ考えれば、その危険性はより一層高いものであることが認識できました。さらに、主に敷地南側から浸水する津波への対策だけという歪なものではなく、自然現象の不確実性に対する安全裕度も踏まえれば、当然、敷地前面(東側)から浸水する津波への対策を講じたはずなのです。長期評価に基づく試算のみをもって、敷地東側から浸水する津波への対策はしなかったはずであるから、本件原発事故の結果を回避することはできなかったという第二小法廷の事実認定は誤りです。

3 東京電力は先行して水密化等の措置を講じたはずであること

 国・東京電力は、本件原発事故以前の津波対策は、敷地高を超える津波の到来を防ぐことを基本とするものであり、具体的には防潮堤等の設置しか考えられなかったと主張します。
 しかし、本件原発事故以前でも、東海第二原発や浜岡原発では、敷地高を超える津波による浸水を前提として、水密化等の措置を講じていました。これらの原発ではできたことが、福島第一原発ではできなかったというのでしょうか。そのような主張は、国・東京電力いずれからも特にありません。
 また、水密化等の措置を講じる際には、一定の安全裕度をもって行われます。一般的には、想定される浸水深による静水圧の3倍の静水圧を見込んで設計がなされます。さらに、想定される浸水深についても、1.5から2倍程度の安全率を見て設計することが通常です。そうすると、例えば、主要建屋付近の浸水深が2mと想定されるのであれば、9mから12mの浸水深による静水圧に耐えられるように設計がなされるのです。
 そもそも、柏崎刈羽原発の地震対策など、原発の安定的な運転にさまざまな課題を抱えていた東京電力が、防潮堤等の設置が完了するまでの間、福島第一原発を津波に対して無防備なまま放置したり、逆に、その長期間、何らの措置を講じることなく福島第一原発を一時停止したりしたでしょうか。本来あるべき原子力事業者としての東京電力を想定すれば、当然、速やかに水密化等の措置を講じたでしょう。また、安全を軽視して利益の追求を優先した現実の東京電力を想定したとしても、防潮堤等の設置が完了するまでの長期間、無策でただ無為に福島第一原発を一時停止したまま時の経過を待つはずはなく、まず先に水密化等の措置を講じた上で、安全性を訴えていたでしょう。
 したがって、敷地高を超えて浸水する津波を予見した東京電力は、まずは先行して水密化等の措置を講じたはずなのです。そして、安全裕度を踏まえた設計がなされることから本件原発事故の結果を回避することはできたのです。試算による主要建屋付近の浸水深と、本件津波による主要建屋付近との浸水深度を単純に比較して、安全裕度を考慮せずに、本件原発事故の結果を回避することができなかったという第二小法廷の事実認定は誤りです。

4 おわりに

 国は、本件原発事故以前の考え方に基づけば、国が技術基準への適合を認めるはずのない水密化等の措置を東京電力が講じたはずはないとか、そもそも東京電力の役員の責任を認めた株主代表訴訟判決と国の責任を否定した第二小法廷判決は関係ないとか主張します。
 しかし、国の行使する技術基準適合命令とは、〈技術基準に適合するように「修理等」せよ。それが完了するまで「一時停止」せよ〉という抽象的なものです。そして、技術基準に適合する具体的な措置を検討し、実施するのは、原子力事業者である東京電力です。きっかけが自社の損害防止か国の命令化という違いがあるだけで、東京電力が津波対策として何を講じたかという点については、共通する事実と言えます。
 そして、津波対策の必要性を認識した東京電力が、まずは先行して水密化等の措置を講じたはずであり、それによって本件原発事故の結果を回避することができたことは、第10準備書面で主張したとおり、株主代表訴訟判決によっても裏付けられるものです。
 なぜ、東京地裁は、第二章法定判決の現れた翌月に、このような判決を言い渡すことができたのでしょうか。それは、法令の趣旨、目的に従って、原子力事業者の「あるべき姿」を求めるとともに、証拠に基づいて詳細に認定された「事実」に裏打ちされているからです。法令の趣旨、目的に一切目を向けず、誤った事実認定をした第二小法廷とは、まさに正反対といえるでしょう。
 私たちが裁判官のみなさまに求めるものは、「その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)裁判官の判決であり、第二小法廷の誤った判断に拘束される裁判官の判決ではありません。
 仙台高裁第2民事部は、先月、国が技術基準適合命令を発しなかったことは「違法な不作為」であり、水密化等の措置を講じていれば重大事故の発生を回避することができた可能性は「相当程度高いもの」であって、国の規制権限不行使は、「極めて重大な義務違反であることは明らかである」としながら、「しかし、…必ず本件津波に対して施設の浸水を防ぐことができ、全電源を失って炉心溶融を起こす重大事故を防ぐことができたはずであると断定することまではできない」と、たった4行で結論を翻す歪な判決を言い渡しました。さらに、岡山地裁では、第二小法廷判決を文字通り「コピペ」しただけの判決が言い渡されるに至りました。
 これまで主張してきたとおり、第二小法廷判決が裁判官を拘束する「判例」に値しないことは明らかです。そして、これに追従する下級審の判決では、社会が求める司法の役割を果たせません。まさに、「裁判官の独立」が問われていると言っても過言ではないのです。
 何としても、最後の「事実審」として厳正な事実認定をした上で、「憲法及び法律」に従って、公正な判断がなされることを求めます。

報告集会

*意見陳述についての解説 

 閉廷後の報告集会では、初めに弁護団から、この日の意見陳述についての説明があった。
 「原告の意見陳述は、原発事故は12年前の終わったことではなくて、(今も)これだけの被害が出ているのだということを原告自らの言葉で力強く丁寧に、しかし冷静に伝えられた。きっと裁判官の心にも届くだろうと思う。
 菊間弁護士の意見陳述は第10準備書面だが、これは最高裁が出した国の責任は認めないという判決をどう克服するかということを弁護団で審議して、これを乗り越えるために作成したものだ。主には株主代表訴訟を参考にした。
 株主代表訴訟は大変『面白い』訴訟だ。会社は株主がいて回っていくが、そこに雇われるようにして経営者がいる。『社長さん、私たちオーナーのためにこの会社を経営してくれよ』というように委任契約を結んで取締役になってもらう。ところがこの取締役が酷いことをしたらどうするのか、取締役の判断ミスで会社にダメージが生じた場合、それを正す方法の一つが株主代表訴訟だ。株主の中のごく少人数でも、あるいは一株でも持っていれば、あの取締役がけしからんことをしたから、この会社に大変な損害を与えた。これを取締役一人ひとりに会社に生じた損害を賠償させなさいという裁判だ。東電株主代表訴訟は、こういう裁判だ。
 一審ではおそらく訴訟史上最高の13兆円という賠償金を払えという判決が出た。金額の高さが世間の耳目を集めたが、この判決は3・11の津波は予見できたということ、そしてそれに対応する方法を東電は色々と積み重ねてきていて、そういうことを積み上げていけばあれほどの被害を生じなかったということを、大変緻密に証拠を積み上げて認定している判決だ。
 これだけ緻密な判決を株主代表訴訟では出している。それをこちらの法廷に引っ張ってきて、これをちゃんと使ってほしい。最高裁でのいい加減な事実認定とは、わけが違う。いわば、今の仙台高裁の裁判官を励ます内容という書面にしたいということで、弁護士たちが考えて作った書面の陳述を菊間弁護士がした」

*後藤秀典氏

 この日の裁判傍聴には、フリー・ジャーナリストの後藤秀典氏も臨席していた。後藤氏が雑誌『経済』(新日本出版社刊)の5月号に寄稿した記事のコピーが、参加者に配布された。その記事は、〈「国に責任はない」原発国賠訴訟・最高裁判決は誰がつくったか 裁判所、国、東京電力、巨大法律事務所の系譜〉で、後藤氏は記事をもとに、日本には五大法律事務所と呼ばれる巨大法律事務所があり、それらの法律事務所と最高裁・国・東京電力等電力会社の相互の人脈関係があることについて説明してくれた。
 例えば最高裁判事が経営していた事務所の弁護士が東電社外取締役になっていた事実や、原子力規制庁の職員が退庁して後に東京電力の代理人になったり、また内閣法制局局長官を務めた味村治氏は最高裁判事に就任すると、四国電力伊方原発1号炉訴訟などで原告・住民の上告を棄却し、退官後は原発の設計・建設・維持を業務とする東芝の社外監査役を務めたなど、ズブズブの関係があることを明かしてくれた。
 2022年6月に最高裁第二小法廷で判決が言い渡された原発国賠訴訟(原発事故の被害について、国に補償を求めた集団訴訟)では、菅野博之氏を裁判長とし、草野宏一氏、岡村和美氏、三浦守氏の4名の判事が担当した。菅野氏は判決を出した後で退官し、「長島・大野・常松法律事務所」の顧問となっている。この事務所は株主代表訴訟の東電側代理人を引き受けている事務所だ。草野氏は元「西村あさひ法律事務所」の代表パートナーだった人で、この事務所のパートナーの一人は東電社外取締役であり、また、岸田総理の妹の夫である可部哲生氏(元財務省理財局長、元国税庁長官)も、事務所のオブカウンセルとして関わっている。岡村氏は、「長島・大野・常松法律事務所」から2019年に消費者庁長官などを経て、最高裁判事に任官した。
 検事出身の三浦判事のみが、「国に責任あり」の意見を書いたが、3対1の多数決で判決は「国に責任なし」となったのだった。

●次回期日等

 閉廷後に裁判所と双方弁護団との間で行われた進行協議の結果が説明された。

 まず、津島地区での「現地進行協議」を行うということ。これは実際には裁判所による現地調査なのだが、その名目だと書類を提出などの手続きが必要になるため、進行協議を現地で行うとの名目で、5月26日に裁判官らは現地入りする。これに関して原告らは、ぜひ見て欲しい場所を設定し、そこでの説明なども考慮して時間配分を決めているのだが、なんと東電側は自分たちも各所でそれぞれ5分程度の説明をしたいと言い出したそうだ。原告弁護団は、呆れていた。例えば被害者の自宅跡で、東電は何を説明するというのだろう? この被害者には、賠償金を〇〇円支払った、とでも言うのだろうか? 短い時間内での現地調査なのに、そして該当箇所は原告が申し入れ裁判所もそこを見たいと希望した場所なのに、東電は時間稼ぎをして現地調査を妨害しようとでもいうのだろうか?  極めて面妖な申し入れだ。

 最後は、原告意見陳述をした柴田明範さんの先導で、みんなで「頑張ろう!」を三唱して閉会した。次回期日は、7月21日(金)14時半〜の予定とのこと。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。