第49回:「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」傍聴記「孫たちと津島に帰れるのはいつですか」(渡辺一枝)

 1月は裁判が続きます。13日、16日は原発避難者の住宅追い出し裁判が福島地裁、東京地裁と続き、これは前回の「一枝通信」で報告しました。
 18日は東京高裁で、原発事故刑事裁判控訴審判決がありました。新聞など報道でご覧になったかと思いますが、一審の東京地裁の不当判決をなぞっただけのあまりにも杜撰な審理で、不当判決でした。この判決を不服として、検察官役の指定弁護士側は24日に最高裁に上告しました。津波対策を怠っていた東電幹部3人に責任が無いなどということは、断じてあり得ません。審理を尽くさず政権におもねるばかりの裁判は許さないという、大きなうねりを作っていかねばならないと思います。
 そして19日には仙台高裁で、原発事故によって避難を余儀なくされた浪江町津島地区の元住民たちが、損害賠償などを求めて東京電力と国を提訴した「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第2回控訴審がありました。その傍聴報告です。

「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」第2回控訴審

 仙台高裁101号法廷で、午後2時半に開廷された。傍聴席79席で、傍聴希望者78名だったので全員、傍聴席に座ることができた。記者席は12席用意されていたが、埋まったのは5席のみ。
 原告の意見陳述、原告代理人意見陳述の内容を以下に記載する。

●原告意見陳述:三瓶春江さん(津島地区住民)
孫たちと津島に帰れるのはいつですか

 「原発事故から12年になろうとしています。12年前の私の家族は、上は78歳の義理の父、下は5歳と3歳の孫たちの4世代10人家族で暮らしていました。
 義父の名前は『陸』といいます。とても穏やかな人でした。津島が大好きで大切に思う義父は、津島のために何かできることはないかと、いつも考えている人でした。津島の自宅には、義父が集めた津島にまつわる資料がたくさんあります。津島の『生き字引』と言われるほど津島のことをよく調べ、津島を誇りに思っていました。
 津島には開拓者が多く、若い頃の義父は開拓組合に勤め、津島に入植してきた人たちの世話をしてきました。苦労をしている開拓者が少しでも楽になるようにと知っていることすべてを指導しました。こうした働きぶりが認められ、31歳の時に浪江町役場に移り、津島や町民のために定年退職まで勤めました。役場からも、津島の皆さんからも『困ったことがあったら陸さんに聞け』と、慕われ信頼される義父と家族になれたことが幸せです」

「その義父が4年前に、ふるさと津島に帰ることなく、避難先で生涯を終えました。みんな津島から離れて各地でバラバラの避難生活をしているのに遠くから来てもらうことは申し訳ないと思い、誰にも訃報の連絡をしませんでした。
 自分のふるさと津島を、あんなに大切に思ってきた義父が避難先で亡くなるこの無念さを、『皆さん、ご自分の親だったらどうですか』。きっと、自分のふるさとで、自分が建てた家で、みんなに見送られて生涯を終わらせてあげたいと思いませんか。私達は、それができなかったんです。
 無口な義父は『帰りたい』とみんなの前で話す人ではありませんでした。そんな義父が入院した時には、医師からもう永くないと言われ、義父に呼びかけても反応がないほどでした。でも、私が義父の手をさすっていた時、急に私の手を強く握り、『帰りたい。帰りたい。連れて行ってくいろ〜〜』と最期の力を振り絞って言いました。この時の義父の声が、今もまだ耳から消えません。『今日は遅いから明日津島に行こうね』というと安心したのか眠りにつきました。その2日後に亡くなりました。それが義父の最後の言葉でした」

「あれから4年、義父はまだ津島に帰っていません。納骨していないのです。誰も住んでいない津島に義父を納骨するなんて寂しすぎて、できません。
 義父の願う帰還は、家族全員が津島に帰り、近所の人たちも帰り、孫やひ孫が山や川で遊べる津島であり、彼岸やお盆になれば、津島のみんながお墓参りに来てくれる津島です。住民が誰一人いない。子や孫、ひ孫までが安心してお墓参りもできない津島に納骨しても義父が喜ぶはずがありません。義父が大切に見守ってきた孫やひ孫たちが帰れないほど、高い線量の津島の土に眠ったとしてもいずれ義父は、無縁仏になってしまいます」

「こうした悩みに苦しんでいるのは、私達家族だけではありません。津島地区の菩提寺は長安寺といいます。私達と同じく原発事故から避難をした長安寺は、事故後に福島市に分院を作りました。
 この福島分院には、原発事故のせいで津島にも避難先にも納骨できないままの遺骨が100柱以上もあるのです。この中に義父もおります。12年が過ぎようとしている今でも、この苦しみから抜け出せていません。亡くなってからも津島に帰りたいと思っていることを決して忘れてはならないのです。
 今も亡くなる人は増え続けています。子や孫たちに、つなげられなければ津島がなくなってしまう。そんな現状から救ってほしくて、私たちは津島の完全な除染を求めているのです」

「津島の我が家の柱には、孫の成長の印があります。孫の名前と日にちなどを書き、1歳の誕生日には歩けもしない孫を抱き抱え柱に印をつけ、2歳になれば自分で立つことができると、はしゃぐ孫を『動かないで』と転ばないように支えながら、家族が印をつけます。3歳になると、つま先立ちをして大きく見せようとする孫を『ズルしてる〜』と家族で笑いながら印をつけたものです。しかし、2011年からの印はなく、帰るたびに柱を何度見ても印は増えません。空白のままです。
 事故当時は幼かった孫も今では高校生になり、身長も180cmを超えました。原発事故さえなければ、我が家の空白の柱にこの12年間の成長の印、幸せの思い出が刻まれていたはずです。
 家族の幸せの象徴であったこの柱もいずれなくなります。家族の幸せな暮らしがあった我が家は、この12年間で床も天井も抜け落ちて以前の姿はありません。周囲の家はほとんど解体され、我が家を見た人たちから、あまりの酷さに『解体しないの?』と聞かれるほどです。
 義父が、苦労をして建てた家を解体するなんて本当はしたくありません。それ以上に解体をしない一番の理由は、原発事故によって平穏な私たちの生活を奪われた現実をより多くの皆さんに見ていただきたい。原発事故の恐ろしさを知ってほしいからです。
 見なければわからないこの現状、自宅に広まるカビの臭いも、イノシシなどの獣があたかも自分の家のように入り込み、自宅は荒らされ、あちらこちらに散らばる汚物の酷い臭い、そして山に覆われた津島という地域の除染の在り方も、聞いただけではわかるはずがありません。
 津島を視察に来た人たちは、みな『聞いていたものとは全然違う。やっぱり見なければわからないねぇ』と、驚いて帰ります。
 どうか、裁判官の皆様、津島に来ていただき、義父が建て、家族の幸せな思い出が詰まっている我が家を解体する前に見ていただけませんか。津島に足を運び、原発事故がもたらした津島の現状を見てください。原発事故の被害を直視してください」

「国や東電は、私たちの平穏な暮らしを奪ったのに(年間被ばく線量を)1ミリシーベルトまで下げようとする努力もしない。そんなことがあっていいはずがありません。私達は、今ふるさと津島に帰れない原発避難者です。私達の存在はこの国の中で、もういないものとされたのでしょうか。
 国が帰還できるという20ミリシーベルトは、安心して子ども達が帰れる線量ではありません。帰れない若者は避難先に残り、高齢者ばかりが津島で暮らすとなれば二重生活になります。そうなれば、家族の、津島のさらなる分断にもつながります。せめて帰還困難区域である津島も同じ年間被ばく線量1ミリシーベルトにしてから帰還解除とするべきだと思います。そうでなければ若者たちはふるさと津島で安心して生活ができません。
 孫やひ孫が安心して帰れる時が、義父の願っていたふるさと津島に帰る時だと思います。被ばくの不安がない、家族全員で、津島住民みんなで、楽しかったふるさと津島で暮らせるようにしてください。
 再び、我が家の柱に私の孫やひ孫の成鳥の印を毎年付け続けられる、そんな家族の幸せな生活ができる津島になれば、きっと義父も津島のお墓で安らかな眠りにつけると思います。そんなふるさと津島にしてください」

●原告代理人意見陳述:菊間龍一弁護士
文書送付嘱託の必要性

 「令和4年7月13日株主代表訴訟判決は、東京電力は水密化を講じるべきであったし、そうすれば事故を回避することができた、したがってこれを怠った東電の元役員には任務懈怠が認められると判断した。裁判官は福島第一原発の敷地内に足を運び、現場を五感で認識し、確信をもって判断した。
 他方、最高裁判所第二小法廷は、なぜ誤った『事実認定』をしてしまったのか。その理由の一つは現場を自分の目で見ていないからだ。数多くの文章を読んだところで、それではどうしても机上の論の域を出ない。
 どれほど海が近くにあるのか、どれほど低い位置に電源設備が設置されていたか、どれほど大きな開口部がどれほど多く存在するのか。そしてそれを塞ぐためにどれほどの設備があれば足りるのか。
 本来なら自身の目で見ていただきたいが、もしそれが叶わないのであれば、少なくとも現場を直視した株主代表訴訟の成果を活かしてほしい。
 東電は、(水密化の必要性は)第二小法廷判決によってすでに否定された争点であると言うが、第二小法廷判決は、そもそも水密化の必要性、可能性及び容易性については何ら判断していない。また東電は、訴訟当事者間の合意の存在を指摘するが、当該合意が拘束するのは訴訟当事者であり裁判所ではない。そして、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律68条の2の定める秘密保持義務も『正当な理由がなく』漏洩することを禁止するのであり、株主代表訴訟と同様な条件で裁判上用いられるなら、『正当な理由』がないとは言えない。
 裁判官の皆様に問いたい。取り調べができる最良の証拠があるにもかかわらず、これを取り調べずに現場で何が起きたかを判断すべきだろうか。この控訴審が最後の事実審なのだ。しかるべき審理を尽くした上で、確信をもって正しい事実認定をしていただきたい」

●原告代理人意見陳述:白井剣弁護士
国の「作為」の違法

 「福島第一原発事故は、『天災』が引き起こした不可避の事故ではない。国の安全規制が適切であれば回避できた『人災』である。
 ところが昨年6月17日の最高裁判決は、国の責任を認めなかった。技術基準適合命令の権限を行使しても津波による浸水は避けられなかったと言うが、この判断は間違っている。
 しかし、仮にこの判断を前提にしても、だからと言って国の責任がなくなるわけではない。国の責任には別の側面がある。その一つが国の『作為』の違法である。津波による浸水を回避できたかどうかとは、全く別の議論だ。
 国会事故調査報告書は、次のように述べている。
 〈エネルギー資源の乏しい我が国の国策として原子力利用の推進がまず先にあって、推進のために国民と立地自治体に対して『安全の説明』が必要であるという文脈で規制が形作られてきた歴史的経緯がある。(中略)日本の規制当局は、推進が最優先であり、規制を導入することで過去の安全性に疑問符がつくことによる敗訴のリスクを避けるために、(中略)徹底的に無謬性にこだわり、規制を改善することに否定的であった〉」
 
「国策としての原発推進が最優先とされて、国民の生命・健康・財産を守るための安全規制は、原発推進を阻害しない程度に抑えられてきた。そのような原発推進政策偏重のもとで、国が『長時間の電源喪失』は『起こり得ない』とする指針策定と、『過酷事故』も『起こり得ない』とする決定を行なった。1990年と1992年のことだ。この2つの『作為』をもって、『違法な作為』であると私どもは主張する。
 核分裂反応を利用した原発は、運転停止後も核燃料は膨大な熱を発し続ける。冷却し続けなければ原子炉は崩壊熱で溶けて壊れ、冷却機能を失った原子炉は破損して大量の放射性物質を放出し過酷事故に至る。
 福島第一原発事故は、まさにこのような経緯で発生した。津波のために配電設備が水没し電源供給ができずに冷却機能を失ったためだ。過酷事故に至った原因は全電源喪失による冷却機能喪失だ。津波が来ても、冷却機能を維持し、あるいは早期に取り戻す対策があらかじめとられていれば、過酷事故は回避可能であるが、その対策がとられていなければ過酷事故は一気に進む。
 強調したい点は、全電源喪失と冷却機能喪失に至る原因は、大地震や大津波に限らない。重要なのは配電機能だ。電源が残っていても配電機能が全滅したら、電源供給は失われる。福島第一原発は多重性を考慮して、配電機能は2系統あった。ところが2つの系統が互いに区画されずに近接して配置され、しかも地下に集中していた。津波だけでなく排菅からの漏洩による内部の大規模な浸水でも、大規模な火災でも、あるいは大規模な集中豪雨でも、さらにはテロによる攻撃でも、すべての電源を失う事態が起こりうる脆弱性を抱えていた。
 原子炉は、核分裂反応によって生じる放射性物質を大量に内包している。重大な炉心損傷になれば、大量の放射性物質が放出される過酷事故に至る。そういう原理的・構造的な壊滅的危機が原発にはある。そうした事態を招かないよう、『長時間の電源喪失』と『過酷事故』のいずれについても『起こりうる』前提に立って、その対策を取ることが決定的に重要であり不可欠であった。
 ところが、原子力安全委員会は、長時間の全電源喪失も過酷事故も『起こり得ない』として、その対策を妨げる『作為』を行なった。1990年に長時間の全交流電源喪失を考慮しなくて良いとする指針を策定し、1992年に過酷事故を規制対象から外す決定文書を出した。この2つの『作為』だ。
 なぜこのような『作為』を行なったのか。それは冒頭に述べたように国会事故調が指摘する通り、『国策として原子力利用の推進がまず先にあって、推進のために国民と立地自治体に対して“安全の説明”が必要であるという文脈で規制が形作られてきた』からだ。
 1990年の指針策定については、その翌年から3年間、見直しが検討されたが、指針を変更しなかった。驚くべきことにその際、原子力安全委員会は東京電力と関西電力に、『今後も長時間の全電源喪失を考えなくても良い理由を作文するように』と指示した。
 1992年の決定については、2007年にIAEA(国際原子力機関)からシビアアクシデント対策を求められた際にも、やはり変更しなかった。その当時の原子力安全・保安委員会の委員長が、電事連の会合で『既存炉が到達できないことを要求するつもりはない。お互い、訴訟リスクを考慮に入れて慎重に考えていきたい。(中略)悩みどころは一致していると感じた』と述べたことが記録に残っている。
 1990年の指針策定と1992年の決定の2つの『作為』こそ、運命を左右するターニングポイントだった。そのせいで、長時間の電源喪失も過酷事故も、『起こり得ないこと』になった。これらに対する対策を取らずに原発が運用された。これでは過酷事故に至るのは必定であり、それが深刻な人権侵害を惹き起こした。2つの『作為』の違法性は明らかである」

●原告代理人意見陳述:大塚正之弁護士
第1審被告らの除染義務について

 「第1審被告らは、なぜ除染義務を負担すべきなのか。その根本的理由は、次の2点にある。一つは、除染しなければ原告らの損害は回復されないということ。もう一つは、除染しなければ原発の稼働はあり得ない、稼働させる以上、除染は不可欠であるということだ。
 第一に除染しなければ、原告らの損害は回復されない。原告らは訴訟提起前から、口々に事故以前の自然が豊かで、互いに強い繋がりのある津島での楽しい生活を取り戻したい、お金よりも、元の生活を取り戻すことが大切だと言った。原告らが侵害されたのは、抽象的一般的な平穏に暮らす権利ではなく、津島という固有のふるさとで平穏に生活する権利のことだ。数百年に及ぶ長い歴史と伝統があり、祖先が汗水流して開拓し造ってきた農地があり、家があり、山菜が豊富に採れる豊かで美しい自然があり、原告らは、途中で津島に住むようになった人々も含めて、この津島の伝統を受け継ぎ、津島の自然や周囲の人々としっかり結びつき、そこに有機的な繋がりを持って生活を続けていた。全国にそのように地域に根付いて生きている人々がいるからこそ、日本の伝統文化が現在に引き継がれているのだ。福島第一原発事故によって、津島の人々が奪われ、必死になって取り戻したいと思っているのは、この地と取り替えることができない固有の居場所、先祖代々、未来の子どもたちに引き継ごうと大切に守ってきた津島だ。そこで訴状では、『地域社会という固有の環境の中で平穏に生活する権利』、あるいは『固有の地域社会において平穏に生活する権利』と名付けて、その回復を求めてきた。この津島を除染しなければ、原告らは津島に住むことができない。いくら金銭をもらっても、津島という固有の地で平穏に生活する権利は絶対に回復されない。だからこそ、子どもや妊婦も含めて、みんなが安心して住めるよう放射線量を低下させることが必要不可欠なのだ。胎児は(年間)1ミリシーベルトを超える内部被ばくを受ければ、被ばくのリスクが生じる。だから1ミリシーベルト以下に放射線量を下げることが必要なのだ」

「除染を必要とする第二の理由は、除染は原発を稼働させる上で必要不可欠なことだからだ。被告・国が日本に原発を誘致する際、実際に原発事故が起きればどのような損害が生じるのかシミュレーションを実施し、その結果、国家予算の2倍の損害が生じることが分かり、米国と同様、原賠法(原子力損害の賠償に関する法律)をつくることが必要になった。原賠法の素案をつくった原子力災害補償専門部会(我妻栄部会長)は、次のように述べている。『万が一事故が生じた場合、計り知れない損害が生じるおそれがあり、しかも科学上未知な点が多い。したがって、政府が諸般の事情を考慮してわが国においてこれを育成しようとする政策を決定した以上、万全の措置を講じて損害の発生を防止するよう努める義務が政府にはある』と書いている。大きな事故が起きれば、広範な地域が長期間にわたって汚染され、被ばくした地域は除染をしない限り、住めないことはわかっていた。したがって原発を稼働させる以上、国は、事故が起きた場合に放射能に汚染された地域の住民が戻れるように除染することは必要不可欠な条件となっていた。被災住民が戻れることが可能なように除染することなく、原発の稼働を認めることはあり得ないことであった。
 しかし被告・国は、1979年にスリーマイル島原発事故が起きても、1986年チェルノブイリ原発事故が起きても、1999年、東海村JCO臨海事故が起きても、日本の原発は絶対に安全だと根拠なく言い続け、事故が起きた場合の準備を何一つしなかった。IAEAが安全基準を作り、その中で避難計画を立てるよう求めても、被告・国はこれに応じなかった。膨大な宣伝費をかけて日本では原発事故は起きないことにしてしまった結果、事故が起きた場合の対策を何もしないできた。政府には、国土を守る義務がある。津島のみならず、例えば玄海町、刈羽村、柏崎市、女川町とか、そうした市町村一つ一つを守る義務があり、除染しなければ、その義務は守れない。
 被告・国は本件事故後にようやく、IAEAの避難計画を導入し、原発から5km〜30kmの範囲では、原発敷地外に放射線が漏れ出た場合、毎時20マイクロシーベルトに達するまでは屋内に退去し、それに達した場合には、避難をする、一時移転をするという避難計画を各自治体に立てさせている。しかし、毎時20マイクロシーベルトというのは、年間105ミリシーベルトだ。津島地区が帰還困難区域に指定されたのは、年間50ミリシーベルトを超えているという理由による。この年間50ミリシーベルトの線量で12年近く経過しても戻れないのが、今の津島地区だ。年間105ミリシーベルトは、除染をしない限り戻れないのが実相だ。一時移転で済むわけが無い、私はこれまでに複数の原発設置自治体に行き、その話をしたが、避難した後戻れなくても良いと考える人は皆無だった。除染をして戻れるようにならないのなら、原発の再稼働を認めるわけにはいかないということだ。原発を稼働させる以上、事故があれば除染することは必要不可欠であり、被告国は、原発の稼働を許可した以上、その結果事故が起きた場合には近隣住民が戻れるよう除染することは当然の責務である」

「被告らに釈明を求める。被告らは津島地区を除染する義務はないと主張するが、今、同じような事故が他の場所で起きた場合、例えば柏崎刈羽原発の場合でも除染する義務はないということか。また今、原発所在地で放射性物質が津島のようにフォールアウトし、毎時20マイクロシーベルトに達したとして避難した場合、一時移転で戻れると考えているのか。
 戻れるとすると、なぜ、その半量しかない津島地区で12年が経過しても戻ることができないのか。これに対する回答は、原告らだけでなく日本全国の原発所在地の人々も関心を持っているので、慎重に考えて回答していただきたい。
 いずれにしても被告らは、本件原発を稼働させ、本件事故を起こした以上、原告らが津島に戻れるよう津島地区を除染する義務があり、被告らが除染を実施しない以上、裁判所は、その旨の判決をする必要がある」

私にとっての裁判傍聴

 裁判の傍聴を重ねる中で感じていることは、裁判は、時代劇で見るような情による裁きなどではなく、法によるものであり、法の解釈によって判断が分かれるということです。とはいえ、この判断には、裁判官の人間性も非常に大きく関わります。当事者が意見陳述において何を根拠にしてどのように論法を展開するかもまた、判断に大きく作用します。
 今回の津島訴訟の控訴審で、私は白井弁護士の意見陳述「国の『作為』の違法性」に、目を見開かされた気持ちになりました。これまで私が不注意であったのかもしれませんが、こうした観点からの論法に、初めて触れたような気がしたからです。
 前回の「原発避難者追い出し裁判」では「法の欠缺」が問題になりました。国際人権法に照らしても避難民の居住権は最重要の権利です。法の穴を埋める新しい法理が必要です。
 裁判傍聴を重ねる中で学ぶこと大きく、裁判傍聴は支援のためではなく私自身の学びのためなのだと再確認しています。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。