法律も社会も変えられる~弁護士、国会議員、明石市長として~ 講師:泉房穂氏

兵庫県南部の明石市は、ここ数年、数々の画期的な政策で全国的な注目を浴びるようになり、「関西で住みたい街ランキング」の圏外から3位にまで急上昇しました。その牽引役が前市長・泉房穂さん。医療費、中学校の給食など「5つの無償化」に代表される子ども施策などを通じて、市の人口、出生数、税収を伸ばしたそのエネルギーの源とは? 今年還暦を迎えた泉さんの実践と哲学を語っていただきました。[2023年8月5日(土)@渋谷本校]

貧困と偏見、差別の中で過ごした子ども時代

 私は明石市の西部に位置する、播磨灘に面した二見町という貧しい漁村に生まれました。貧乏自慢をするわけじゃないんですけど、うちの親父は小学校を出て、漁師になりました。中学校はほとんど行っていません。なぜか。戦争で兄貴二人と義兄(姉の夫)を亡くしているからです。
 明石市内もたくさんの人が亡くなりましたが、うちの村ばかりやたらたくさん死んでるんです。貧乏な村やったからですよ。危ないところに行かされたからです。戦争は理不尽です。不公平です。金持ちは危ないところに行かない。うちの村の人ばかり危ないところに行って、みんな死にました。
 上のきょうだい二人が死んでしまったので、親父は小学校をでたら、家業を継ぐしかありませんでした。その3軒隣に住んでいたのが私のおふくろで、同じように貧乏な漁師の家でしたから、中学校を卒業したら、すぐ働きに出ました。その2人が結婚したときの誓いは「自分たちは勉強したくてもできなかった。だから一生懸命働いて、子どもが生まれたら、せめて高校には行かしてやりたい。そのために二人で働こう」というものでした。
 そこに生まれたのが私で、4つ下に弟が生まれました。弟には障害がありました。
 かつて優生保護法という法律があったのをご存じですか? 障害のある者は生まれてくるべきではない、子どもを作るべきではないという考えに基づいた法律です。これはナチス時代のドイツにもありました。ヒトラーはユダヤ人だけでなく、障害者もガス室に送って殺しました。なぜか。世の中にとって無駄だから、生かしておくのは税金の無駄遣い、という理屈です。
 日本にも戦後に優生保護法ができました。皮肉にも戦後初めて誕生した女性議員が中心になっての議員立法でした。障害のある子が生まれたら女性は苦労するから、女性の権利の確立のためにと作られた法律だったのです。その実態は障害者を差別するものだったのですから、歴史の悲劇と言うしかありません。

「がんばっても報われない」のは制度の問題

 弟が生まれた1967年は、その優生保護法が勢いを保っていた時代で、なかでも兵庫県はひどかった。当事の兵庫県知事は自ら音頭を取って、出生前診断で障害がわかった子どもの中絶を推奨するなどの「不幸な子どもの生まれない運動」という政策を推し進めていたのです。
 「障害のある子どもはかわいそうだから、生まれないほうがいい、生まれてきても死なせたほうがいい」。そういう空気の中で、うちの両親もいったんは弟を育てることをあきらめたのですが、結局「やっぱり死なせることはできない。障害があっても何とか育てる」と、病院の反対を押し切って家に連れて帰りました。
 ただでさえ貧乏なのに、障害児を抱えて、暮らしはますます苦しくなりました。「親父は一所懸命働いているのに、なんでうちの食卓にはおかずがないねん。弟が歩けないというだけで、なんでそんなに冷たい目で見るん?」。幼い私にとって世の中の差別や偏見、貧困は、抽象的なものではなく、実感そのものでした。
 弟は2歳の時、一生起立不能の障害2級と認定されました。母は絶望して自殺を図りました。そして私にこう言いました。
「どうしてあんたは弟の分まで持ってんねん。なんであんただけ足速いねん。なんであんただけ100点とれるねん。弟に返してやって。弟を歩かしたって、しゃべらせたって」
 理不尽な話ですよね。それができればやりたいと思いましたよ。でもできない。ならばテストで1点でも多く取って、少しでも速く走って、自分の人生をがんばってもできない人のために使おうと、10歳の私は誓いました。一生かけて冷たい世の中に復讐してやろう、と。
 「世の中冷たい」といっても、近所のおっちゃんおばちゃんは親切やし、学校の先生や友だちとも仲はいい。人が悪いわけではないのに、なんで? と考えました。10歳の私は言葉では分からなかったのですが、今考えるとそれは制度の問題だったのです。政治や制度、法律が理不尽であるがために、がんばっても報われない、障害があることで冷たい目で見られる。それを何とかしたい、自分の力で変えてみせると10歳の私は誓ったのです。それから猛勉強しました。ふるさと明石をやさしい街にしようという目標を設定して、その決意を原点に人生を歩んできたわけです。

憲法は美しい

 必死に勉強して東京大学に入りましたが、通い始めて愕然としました。周りの学生はみな、進学校から予備校に通ったり家庭教師をつけたりして勉強して合格し、親の金で生活していたからです。差別や貧困に対する経験も問題意識も、ほとんどの人が持っていませんでした。
 私は親の年収が低かったので、入学金も授業料も免除になり、給付型の奨学金をもらって勉強しました。当時は所得の低い家庭の学生が入れる学生寮もありました。だから私みたいな貧乏な家の子でも東大に行けた。今だったら無理かもしれません。明石市長になった後、高校進学のための給付型奨学金を創設し、無料学習支援を実現させたのも、私自身のこうした経験があるからです。
 大学卒業して最初に入ったのはNHKです。入社時の自己紹介では「世の中には理不尽な差別や貧困があることを、公共放送を通して多くの人に知ってもらいたい」と抱負を述べました。その後、障害者の問題を扱った番組を手がけたりしていたのですが、思うところがあって数年でテレビ朝日に転職しました。
 テレビ朝日では討論番組「朝まで生テレビ」のディレクターなどをやっていたのですが、20代半ばのある日、本屋で石井紘基さん(政治家。民主党などで衆議院議員、総務政務次官として活動)の『つながればパワー 政治改革への私の直言』という本に出会いました。当時はまだ石井さんは政治家になる前でしたが、「市民と市民が手をつなげば、世の中を変えることができる」という政治改革への思いが語られていて、私は感激して石井さんに手紙を書いたんです。「あなたのような方こそ政治家になって世の中を変えてほしい」というシンプルな手紙です。そうしたら「会いましょう」と返事が来て、会ったらいきなり「選挙に出るから手伝って欲しい」。びっくりしましたけど、「はい、やります。あなたを国会議員にしてみせます」と返事しました。
 それでテレ朝をやめて、石井さんの家の近くに引っ越して1年間、朝から晩まで選挙活動に没頭しました。ですが1990年の総選挙では僅差で落選、石井さんを国会に送ることはできませんでした。
 私は石井さんに「次の選挙では必ず勝つようがんばりますから引き続きよろしくお願いします」と言いました。そうしたら「次はいつになるか分からないのだから、それより弁護士になりなさい。そして、世の中のいろんなことを自分で実感して、世の中の理不尽と戦い、それから君自身が政治家になりなさい」と言われたんです。
 そのとき、「司法試験も君ならすぐ受かるよ」と言われたんですが、だまされました。必死でめちゃくちゃ勉強したけど落ちましたよ。落ちて落ちて、3回目にやっと受かりました。その司法試験の勉強中に出会ったのが伊藤塾の伊藤真先生です。私は大学では教育哲学を専攻していて、法律の勉強はまったくといっていいほどしていませんでした。司法試験を受けることになって、初めて法律に向き合ったんです。
 伊藤先生のおかげで、憲法から始めたのがよかった。憲法って、こんなに美しいものやったんだって気づいたんです。とくに13条の幸福追求権の美しいことといったら……。幸せは一人ひとり顔が違うように、人によって違うものだ。あんパンもらえれば幸せという子もおるけれど、それより絵を描きたいと言う子もおる。だから全員にあんパンを配ればいいというものではない。国が勝手に決めたことを押しつけることでなく、一人ひとりの幸せを追求する権利を保障すること。それが政治家の役割だと、司法試験で憲法に出会って学びました。それが今につながっています。

国会議員時代に実践したこと

 その後、石井さんは93年の選挙で日本新党から立候補して当選、国会議員になり、私も弁護士になりました。お互いほっとしたのですが、ご存じのように、石井さんは2002年10月25日、自宅前で右翼に刺殺されます。
 石井さんは国会で政府支出の無駄遣いに厳しく切り込む正義派で、殺害された数日後には国会で「世の中がひっくり返るような爆弾質問」をする予定でした。その質問状などの書類は事件現場からなくなっており、いまだ真相は闇の中です。
 その石井さんの遺志を受け継ぐ意味もあって、翌年民主党から立候補し、衆議院議員になりました。私はもともと「ふるさと明石をやさしい街にする」という目標を持っていましたから、本当は市長を目指すはずでした。ですが、そのときは勝算がなかったので、ならば国会議員になって、市長になったらやるべきことを準備しようと思ったわけです。
 国会議員としては7本の議員立法を作りました。司法試験の勉強中に「こんなん金持ちに優しい法律やないか。おかしい」と思うことがいっぱいあったからです。今ある法律に従順に従うだけでなく、いつか変えてやろうと思っていたんですね。
 私が書いた法律のひとつに「高齢者虐待防止法」があります。当時、リフォーム詐欺とかオレオレ詐欺とか、高齢者がだまされる事件がたくさんありました。そこで高齢者虐待防止法の条文に「経済的虐待」という概念を入れたんです。
 また「犯罪被害者等基本法」では、国や地方自治体が犯罪被害者やその家族等に対する支援に精通した弁護士を紹介すると定めました。弁護士ならだれでもいいというのでなく、その問題にくわしい本気で取り組んでくれる弁護士でなければいけないという思いを込めて、「精通」の2文字を入れたのです。
 法律は百パーセント完璧なものでなく、時代とともによりよいものに変えていくべきもの。人が法律に合わせるのでなく、人に合わせて変えていくという発想が大事だと、司法試験で学んだことを議員時代に実践したのです。

ふるさと明石をやさしい街に 三重苦からの出発

 その後、2011年に明石市長になるわけですが、それまでの間に「市長になったときにはやるべきこと」を必死に勉強し、考えていました。政治がすべきことは市民・国民の生活をよくする、皆が笑って暮らせる世の中を作ることです。人々の命に責任を負っているわけですから失敗は許されません。
 よく誤解されるのですが、私はものすごく慎重派です。石橋を叩いて叩いて、もう一回叩いて渡るタイプ。なので市政に関しても時間をかけて慎重に準備して、詰め将棋で言えば先を読み切って一手目を打ったときにはもう終了している、そういう政策を打ってきた自負はあります。
 では、私が市長になって明石はどうなったか。自慢話に聞こえたら申し訳ありませんが、ほんとうにやさしい元気な街に変わりました。
 数字でお話ししましょう。2011年、明石は三重苦でした。一つめは人口減少です。二つ目は財政赤字。三つめは経済の衰退。駅前は幽霊ビル化していました。
 そこで、市長になった瞬間からお金の使い方を変えました。まず子どもに使う。明石市の人口は当時約30万、全体の予算額は2000億。そのうち子どもに使っていたのは125億。全国平均の予算でした。それを私の任期最終年度には297億にした。2.4倍に増やしたんです。だから子ども世代の人口が増えました。
 子ども政策に関わる職員は、当初2000人中30人、これも全国平均的な数でした。それを最終年には138人にした。4倍以上に増やしたことで、すべての家庭を訪問できる体制ができました。子ども医療費や第2子以降の保育費などの「5つの無償化」をはじめ、子ども政策に金と人を半端なく投入したのです。
 その結果どうなったか。人口は就任3年目からV字回復し、10年連続で増加しました。その増加割合は、同規模の中核都市60のうちトップです。兵庫県で人口が増えているのは明石市だけ。明石市の今の地価は、私が市長になった時の約2倍に上がりました。
 以前、明石市は関西で住みたい自治体ランキングの圏外でした。それがどんどん上昇して、今はついに3位です。

市民から預かった税金をどう使うか

 人気の街になった明石では、人口が増え、街は賑わい、税収も増えました。市民のためにお金を使った結果、市民の財布のひもがゆるんで消費が活発になり、駅周辺の商店街は過去最高の利益を更新し続けています。コロナ禍の中、JR駅ビルのショッピングモールで黒字だったのは、西日本で唯一、明石市だけでした。
 財政も、完全に黒字化しました。就任時にはかつて175億円あった貯金額が70億に減っていた。さらに隠れ借金が100億あった。それを全部払いきって、おまけに貯金を50億円増やしたのです。
 子ども、高齢者、障害者に対してトップレベルの施策をやりつつ、150億の金を作ったわけです。明石市といえば子ども政策のイメージがありますが、高齢者に対してもバス料金、診断費用、予防接種の無料化など、積極的な支援を行っています。高齢者の金を子どもに回しているわけではありません。
 本当は、日本では金なんか余ってるんです。日本の国民負担率は5割近くあるのに、その金を国民のために使っていない。ひどい国です。市役所職員や市長は市民から預かったお金で雇われているのですから、せめて明石市では必死で市民に尽くして、汗かいて知恵を出して、付加価値をつけて市民に戻そうと思った。自慢話になりますが、市民からは「明石市にだったらもっと税金払いたくなる」と言われました。
 もちろん、無駄な金はばっさばっさと切りました。就任当初、下水道事業の計画が600本あったけど、判は押しませんでした。市営住宅もいっぱいあったからもう作らんでいいと思って、計画を白紙撤回しました。その結果、金が生まれた。無駄なことに市長が判を押さなければ、金なんか一瞬でできる。簡単な話なんです。
 そのかわり公共事業を切ったとたん、殺害予告が来ました。その後も12年間殺す殺すと言われ続け、最後の年には140通を超える殺害予告が来た。それでも、誰かに嫌われ憎まれても必要なことをするのが政治家なんです。

アンテナを張って、市民の声を聞く

 こうして明石市は大きく変わりました。とくに子ども施策は全国的に注目され、広がりました。数年前まで、「明石は市長が変わり者やったからできただけや、他の自治体でそんなのできるわけない」と言われました。でも最近はみな真似しています。
 私は言いたい。変わり者でなくてもできる。やらん理由のために金がないと言うてただけやろ、と。ほんとうに政治というのは、「やろうと決めたらできる」ことばっかりです。できないと思い込んでいるだけ。
 明石市の政策はすべて泉さんの発案ですか? と言われますが、私はほかの政策をパクっているだけ。あとは市民の声を聞いているだけです。
 たとえばおむつの宅配。これを最初にやったのは滋賀県の東近江市です。ただし、ただ届けるだけでなく、子育て経験のある人が毎月行って相談に乗ったら絶対助かると思って始めたのが「おむつ定期便」でした。他でやっていることをバージョンアップしたのです。離婚後に支払われるべき子どもの養育費が滞っている場合、市が立て替える支援事業。これはヨーロッパを真似して韓国が始めていました。その制度設計をそのまま韓国から直輸入しました。
 給食費の無償化もソウル市が始めていました。女子トイレに無償で生理用品を置いたのは、ニュージーランドの真似です。「各種審議会に障害のある人を1割以上入れること」という、全国初の条例も手本はルワンダ憲法です。ルワンダは2003年に新しい憲法を作ったときに、障害者の声を反映させること、意思決定権に参加させることなどを明記していました。
 すべて自分でゼロから考える必要はないんです。
 コロナの感染が広がったとき、国は対策に関して完全にフリーズしました。中央官庁の役人は「過去問」ばかりやっているからです。過去問にコロナは出てこない。自分で考える癖がついていないので、なんの方針も出せませんでした。
 あのとき、私は毎日毎日商店街を訪ね歩き、何に困っているか、聞いて回りました。「客が来なくてテナント料が払えない。パートさんに休んでもらっているので、一人親家庭では子どもが腹を空かしているようだ」。私はそれを聞いてすぐ市役所に戻って、幹部を集めて言いました。「市でテナント料支援をする。一人親家庭にも現金支給する」と。
 政治は何をすべきか。答えは市民の顔に、街に書いてあります。

優しさと賢さとほんの少しの強さ

 私には座右の銘があります。20歳のころ、チャップリンの『ライムライト』を見て、自分流に考えた言葉が、「人生に必要なのは、優しさと賢さとほんの少しの強さ」。これを壁に張って、今でも毎日のように反芻しています。
 一つ目の「優しさ」とはなにか。想像力のことです。たとえば自分の頬をつねってみる。私は痛いですが、あなたは痛くないですよね。だれかが足を踏まれていて痛いと感じていても、私は痛くない。これは絶望的に悲しいことです。「あなたの気持ちは分かる、人の痛みが分かる」なんて噓に決まってる。分かるわけがない。ただ、想像することはできます。分からないからこそ、痛がっている人に聞いて想像すること、寄り添うこと。それが政治であり行政だと思うのです。
 市役所は「市民目線で」とよく言われますが、「そんなの無理や」という話を職員にいつもしていました。だって役所の人間は公務員で、がんばろうが怠けようが、食っていけるからです。だから市民は公務員バッシングするんです。
 ちなみに私は、公務員バッシングには反対です。公は尊い。自助、共助、公助と言われますが、私は公助派です。「官から民へ」なんて思ったこともない。それより公務員はちゃんと胸の張れる仕事をすべきだと言いたいんです。
 人は一人で生きられるものではない。誰だって人の助けを借り、迷惑をかけて生きていくんです。そのために社会がある。税金がいる。みんなで持ち寄った金で、助け合って生きていく。それが公です。公が役割を果たしてはじめて、人間社会は成り立つ。だからこそ、その公を担う人間は美しくあるべきだと思っています。
 私は毎年、新しく入って来た市職員に「3つのありがとう」を言っていました。
 一つ。民間でなく、わざわざ公務員を選んでくれてありがとう。公務員は美しく尊い仕事です。それに自分の人生をかけようと決めたあなたの選択は間違っていない。私はそれを応援します。
 二つ目。市町村という基礎自治体を選んでくれてありがとう。国は防衛とか外交とか大きい仕事をする。都道府県は中間管理職的な調整役。それに比べて市町村の公務員は、言葉で言われなくても笑顔を見られる。怒られることもクレームをつけられることもあるけれど、感謝もされる。いい仕事です。
 三つ目は、明石市を選んでくれてありがとう。明石市では全国初という施策をばんばんやりました。これは公務員にはいやがられる。なぜなら役人は前例主義、横並び主義だから。初めてのことはやりたがらないのが公務員というもの。けれど市民のために必要なことは、前例がなかろうがやる。それが公です。

法律も社会も、自分自身の明日も変えられる!

 さて、座右の銘に話を戻します。二つ目の「賢さ」は勉強ができるということではありません。本質を見る力、時代を見る力です。難しい話ではない。自分の目、耳、脳を信じればいいのです。ほんとうは見えているのに、多くの人が見えないと思い込んでいることが多すぎます。
 たとえば日本には金がないという。噓です。国に金がないわけではなく、国民、とくに子育て世代に金がないのです。何でかといえば、国がちゃんと金を使っていないから。明石市は増税することもなく、子ども予算を2.4倍に増やしました。高齢者、障害者施策も全国トップレベル。インフラ整備もちゃんとやりました。何でできるかといえば、本当に必要なところに金をかけて、しなくていいことをしなかったから。それだけです。
 国は、やれ計画書出せとか、報告書作れとか言ってきます。そんな国のメンツのための意味のない仕事はしなくていい。市役所の職員は市民のために働けばよろしい。国の官僚はじゃましないでほしいと思います。
 明石市の職員数は兵庫県内で、人口比で一番少ない。完全少数精鋭主義です。そこに全国から希望者が応募してくる。民間からも優秀な人がどんどん集まってきます。胸を張って誇り高き仕事をするために。無駄な仕事を省いたから、人数が少なくても仕事はできるし、残業も半分に減りました。思い込みで漫然とやるのでなく、優先順位を決めてやれば、金も人も余る。明石市はそれをやってきました。
 そして最後、三つめの「ほんの少しの強さ」。これ、私大好きなんです。人は誰でもそんなに強くない。けれど、あきらめずにがんばり続ける。それを私は「ほんの少しの強さ」と呼びたいと思います。
 たとえば市役所でも、上司が分かってくれない、同僚も共感してくれないとこぼす職員がいる。当たり前です。そんなにすぐ分かってくれるわけがない。そこであきらめずにやり方を変えたり、時間をおいたりしながら、市民のためと思うことはやりぬく気持ちを持ち続ける。それを私は「ほんの少しの強さ」だと思い、自分にも職員にも課してきたわけです。

 これまでお話ししてきた私の経験から、政治も、法律、社会も変えられるということをご理解いただけたかと思います。
 そして最後に申し上げたいのは、一番変えられるのは自分自身の明日だということです。私はめちゃくちゃポジティブシンキングなので、毎朝起きると「あ、今日も生きてる。朝ごはん何を食べるか、昼は何をするか、自分で決められる。自己決定権を持ってる。幸せやなあ」と考えます。
 自分の人生を変えることで、まわりの共感、理解、協力が得られ、その結果社会が変わる、世の中を変えることができる。お話を聞いてくださったすべての皆さんに、応援のエールを送ります。

いずみ・ふさほ 弁護士、元衆議院議員、前明石市長。1963年兵庫県明石市生まれ。82年明石西高校を卒業し、東京大学に入学。東大駒場寮の委員長として自治会活動に奔走。87年東京大学教育学部卒業後、NHK入局。その後、石井紘基氏(後に衆議院議員)の秘書を経て、司法試験に合格。97年から弁護士として明石市内を中心に活動。2003年、衆議院議員となり、犯罪被害者基本法などの制定に携わる。11年明石市長に就任。全国市長会社会文教委員長も務めた。社会福祉士でもある。柔道3段、手話検定2級、明石タコ検定初代達人。『社会の変え方 日本の政治をあきらめていたすべての人へ』(ライツ社)など著書多数。

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