2011年3月11日、福島第一原子力発電所は巨大な地震にともなう津波に襲われ、全電源を喪失して甚大な被害をもたらしました。このような大惨事を引き起こした国や東京電力の責任を問うさまざまな裁判は、今なお続いています。福島原発事故はなぜ防ぐことができなかったのか? そして国と東京電力は裁かれないでいいのか? 弁護士として原発訴訟に深く関わってこられた古川元晴さんに、改めて事故の原因と責任を検証していただきました。[2023年8月19日@渋谷本校]
「危険社会」における事業者の注意義務
本日の講演の題目は「福島原発、裁かれないでいいのか」です。これは2015年に出版した私の本の題名そのものです。まさに福島原発事故は「裁かれないでいいのか」ということで、改めて事故の原因と、事業者である東京電力(東電)および規制当局である国の責任を検証していきたいと思います。
本質的な論点は、次の通りです。
まず、法的には、原発業務にはどのような安全上の義務が課されていたのか? それから、事故前に政府の地震調査研究の専門機関(地震調査研究推進本部)が公表していた津波の予測に基づき、事故を予見することが可能だったのか? そして、その予見に対応する義務は認められるのか? 認められるとしたら、どのような回避措置をとる義務があったのか? さらに、その措置をとっていれば事故は回避できる可能性があったのか? このように、内容的にはシンプルな事柄だと私は思っています。
まず、原発事業に課されていた安全上の義務、これはどういうものであったのか。その根拠法と過失理論、実際の安全審査はどうなっていたのかということを見ていきます。
刑事訴訟と民事訴訟が提起されていますが、ともに共通するのは、根拠になるのが「過失」に関する法だということです。過失とは「課されている注意を怠ること」で、「注意義務違反」ということになります。
過失が成立するための要件は、1.事故が起きることを事前に予見できること(予見可能性)、2.予見する義務があること(予見義務)、3.その予見に応じた措置を講じていれば事故は回避できた可能性があること(回避可能性)、4.その回避措置を講じる義務があること(回避義務)の4つ。しかしその内容は、時代とともに変化しています。
まず「旧過失論」。これは「具体的予見可能性説」といわれているもので、過去に起きたことがある既往の確実な危険のみを過失の対象としています。過失処罰の根拠を、行為者の主観的な心理状態、不注意などに求める考え方です。高度産業化社会が到来する前の理論であるとされています。
次に産業構造が高度化していく過渡期の理論として出てきたのが、「新過失論」です。新過失論では、過失処罰の根拠を規範違反(守るべき法的ルールの違反)に求めています。過失理論は、事故後の行為者の処罰を中心にする考え方から、事故防止により国民の生命と身体の安全を守ることを中心にする考え方へと転換していくことになります。
その次は「新々過失論」。これは「普通より高度な注意義務が課される業務については合理的危険――未だ起きたことがないので不確実であるが、起きることが否定できない合理的・科学的根拠のある危険――まで予見する義務がある」とした考え方です。これは1960年代、藤木英雄・東大教授(当時)が提唱した「危惧感説」と同じ理論です。高度産業化社会は危険社会といわれています。新過失論では規範違反がなければ「許された危険」として処罰されないことになりますが、高度な技術が導入された危険社会において「許されざる危険」に対応するための理論が新々過失論、すなわち「危惧感説」ということになります。
この「危惧感説」を採用した裁判例は幾つもありますが、例えば森永ドライミルク中毒事件判決、カネミ油症事件判決、熊本水俣病事件判決、クロロキン薬害訴訟東京高裁判決の4例があります。これらの裁判例では、「危惧感説」という言葉は使われていませんが、いずれも「危惧感説」の考え方を採用しています。
4つの裁判例では、これらの事業者には、普通より高度な注意義務が課されていることを認めています。なおかつ、予測すべき危険は、未だ起きたことがない危険であっても、その可能性が否定できない合理的な根拠があれば回避措置を講じるべきであると判示しています。原発業務はこれらの4つの事例と比較しても、さらに特段に高い危険性を有している業務であることは明らかです。したがって原発業務こそ「危惧感説」が採用されるべきであると私は考えています。
東電は「長期評価」に対応しなかった
実際に原発業務に課されていた国の安全審査にも、実は「危惧感説」と同じ考え方による審査基準が設けられています。安全審査の根拠法は、原子炉等規制法(炉規法。原子炉の設置の許可を定めたもの)と、電気事業法(電業法。工事計画の認可、使用前検査、技術基準適合命令などを定めたもの)です。炉規法に関する解釈として、伊方最高裁判決という有名な判決がありますが、この判決では国の安全審査は、過酷事故が「万が一にも起こらないようにするため」存在している旨を判示しています。
ところが、実際には国は、既に起きた確実な津波しか規制対象としていなかったのです。
福島第一原発は、津波地震にともなって発生した大津波に襲われ全電源を喪失しました。福島原発事故が起きる前の津波予測としては、北海道南西沖地震(1993年)を契機に災害対策を所管する7省庁が自治体に通知した「7省庁手引き」というものがあります。これは過去に起きたことがある既往の最大津波だけではなく、地震地帯構造論等の現在の知見に基づいて、起きる可能性に合理的な根拠のある地震にも対応すべきと指摘しています。
これに対して、2002年2月に当時の社団法人土木学会の津波評価部会が「津波評価技術」を公表しています。電気事業連合会(電事連)が「7省庁手引き」への対策として、津波評価部会を設置したわけです。ところがここでは、「技術開発のためには確実な津波に基づく必要がある」として、既に起きたことがある地震のみを選定しています。
問題は、国も事業者も、この「津波評価技術」によって対策を講じていることです。つまり、すでに起きたことのある地震・津波にしか対応していない。それなのに、国も事業者もあたかも「7省庁手引き」に適切に対応したものであるかのようにみなして、これに基づく運用をはじめたのです。
また2002年7月には、国の機関・地震調査研究推進本部(推進本部)が「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」を公表しています。この「長期評価」では、プレートテクトニクス論(地震の発生原因に関する理論)を科学的根拠として、三陸沖から房総沖にかけて日本海溝寄りの領域のどこでも巨大な津波地震が発生する可能性があると予測しています。この予測に基づく津波について、2008年、東京電力は子会社の東電設計に、「長期評価」が予測する津波地震が福島原発に襲来した場合の水位計算を委託し、最高水位15.7mという計算結果を得ていました。このような津波が福島原発に襲来すれば、建屋の地下に設置されている電源機器が被水して全電源喪失に至ることは明らかでした。実際、予測された津波の水位は、福島原発に襲来した津波の最高水位とおおむね一致しています。したがって、「長期評価」の予測に対応した適切な措置を講じていれば、事故は未然に防止できたのです。しかし、その後、国も事業者もこの予測を無視し続けていました。
このような事故前の東電の対応について、事故後、「国会事故調報告書」は「認識していながら対策を怠った津波リスク」として、「可能性が否定できない危険な自然現象は、リスクマネジメントの対象として経営で扱われなくてはいけない」と厳しく指摘しています。
福島原発事故の裁判例とその問題点
福島原発事故は以上のような経緯の下に起きた甚大な事故であり、裁判において国や東電の責任は絶対に否定できないと考えられます。ところが実際には、国と東電の責任を認める判決と認めない判決とに分かれています。
まず、東電幹部らの刑事責任を問う刑事裁判では、検察は、過去に起きた確実な危険に対応すれば足りるとする説「具体的予見可能性説」を採用して不起訴としています。一方、検察審査会は、原発業務には普通より高度の注意義務が課されているという「危惧感説」を採用し、検察の不起訴処分を不当として起訴相当としました。しかし起訴後、一審・東京地裁は「原発の社会的有用性を考慮して課されている安全義務を判断すべき」として無罪。二審・東京高裁も一審判決は相当であるとして控訴を棄却しています。
それから、国の被災者に対する賠償責任を問う裁判。これは国家賠償法という法律に基づく損害賠償の問題です。一審・地裁判決は、「危惧感説」を採用して過失を認めたものと、「具体的予見可能性説」に基づいて過失を否定したものがあります。二審・高裁判決では、4件のうち3件までが国の責任を認めています。
仙台高裁判決(原審・福島地裁)は、予見義務・予見可能性については、原発の危険性を直視し、普通より高度な注意義務が課されていることを認めました。回避義務・回避可能性については、国の反論、津波対策としてのドライサイトについての反論(建屋の水密化等の回避措置は必要ないとする)、および局所的防潮堤の反論(2008年の津波計算結果の不確実性を考慮せず、その計算結果どおりに北側と南側の2カ所の部分的な防潮堤を設置すれば足りるとする)といった国の反論をいずれも排斥しています。建屋の水密化に関しては、浜岡原発などでは既に水密化措置がとられているという客観的事実があり、国の反論が成り立たないことは明らかです。
また、東京高裁判決(原審・千葉地裁)と高松高裁判決(原審・松山地裁)も、仙台高裁判決とおおむね同様の理由で国の責任を認めています。
問題は、もうひとつの東京高裁判決(原審・前橋地裁)です。予見義務・予見可能性について、「具体的予見可能性説」を採用し、国の責任を否定しています。回避義務・回避可能性についても、国のドライサイトについての反論と局所的防潮堤の反論を認めています。
国の責任を否定した最高裁統一判決
最高裁はこうした4件の高裁判決を審理対象として、2002年6月17日、統一判断を示しました(最高裁統一判決)。判決は、裁判官4人のうち3人の多数意見で、国の責任を認めた3件を不当とし、国の責任を否定した1件を相当としています。
予見義務・予見可能性については、推進本部の「長期評価」が予測する津波地震が福島原発に襲来した場合の2008年の水位計算結果に合理性があると認めています。この水位計算結果は、福島県沖でも巨大な津波が発生する可能性があるとした推進本部の「長期評価」に基づくものです。ですから、最高裁は「長期評価」の合理性を黙示的に認めた上で、この水位計算結果には合理性があるとしたのですが、問題は仙台高裁判決が排斥した国の局所的防潮堤の反論をそのとおり認めたことです。津波という自然現象についての水位計算結果の不確実性を無視するものであって、合理性のない判断というべきです。
回避義務・回避可能性については、「防潮堤以外の措置をとるべきとの知見がなかった」として否定しています。しかし、原審である仙台高裁では、浜岡原発などで水密化の措置が講じられていた事実を認定しています。その上で、事故の回避可能性を認めているわけです。民事訴訟法321条1項にあるように、上告審である最高裁は、原審である仙台高裁が認定した事実に拘束されます。にもかかわらず、最高裁はその事実を否定して、「防潮堤以外の措置をとるべきとの知見がなかった」としているのです。つまり最高裁が民事訴訟法違反をおかすという信じ難いことをしているわけで、そこまで無理をして国の責任を否定する結論を導きたかったと疑われても仕方がないと考えざるを得ません。
回避義務・回避可能性における本当の論点が防潮堤ではないことは、菅野博之裁判官(多数意見の裁判官の一人)の補足意見で明らかになっています。
菅野裁判官は、防潮堤が完成するまでの間における一時停止の措置の必要性について「検討することになろう」と述べています。防潮堤が完成するまでの何年もの間、回避措置が講じられない状態を放置することを容認できるはずがありません。そうすると、回避義務・回避可能性の本当の論点は、防潮堤完成までの間にどのような措置を講じるべき義務があったのかということになります。最高裁統一判決における多数意見は、「防潮堤以外の措置をとるべきとの知見がなかった」と述べているのですから、残る唯一の措置は原子炉の稼働を止めるしかない。これが当たり前の結論になるわけです。
裁判官4人のうちの1人、三浦守裁判官は反対意見として「危惧感説」を採用し、予見義務と回避可能性を認めています。この反対意見は、法律審である最高裁として論及すべき法律および事実上のすべての論点に適切に論及しています。これに対して、多数意見は最高裁に対する国民の信頼を大きく損ない、「国の責任を否定する」という結論ありきの独断的な判断ではないかという疑問を持たれかねないもので、最高裁のあり方の検証が必要だろうと私は考えています。
基本的な視点から裁判例を検証する
このように裁判例を見ていくと、刑事責任・民事責任を問わず、予見義務・予見可能性における論点は、原発の危険性と社会的有用性のいずれを重視するかという点に絞られています。回避義務・回避可能性における論点は、防潮堤が完成するまでの期間、何らの回避措置をとらずに放置することを認めるか認めないかに集約されます。こうした裁判例を踏まえ、基本的な視点から検証します。
まず「条理常識とは何か」という視点です。過去の最高裁判例では「条理(物事の道理)」によって法律を解釈することを認めています。また、「常識」によって予見可能性を判断することも認めています。つまり過去の最高裁判例からも、「条理常識」は法律解釈や事実認定のあり方などの基本的な視点となっていることを認めたものだと理解できるわけです。
そこで福島原発事故に関する裁判例を検証します。推進本部の「長期評価」の予見義務については、地裁判決、高裁判決、最高裁統一判決でも判断が分かれています。「危惧感説」を採用すれば予見義務が認められ、「具体的予見可能性説」を採用すれば予見義務は否定される。両説のいずれを採用するかは、原発の危険性を直視するか、原発の経済的利益を重視するか、この違いによることは明らかです。判断が分かれた理由について、いずれの理由が「条理常識」にかなうか、みなさんも考えてみていただきたいと思います。
それから「法は何のためにあるか」という視点です。具体的な法律には目的規定が置かれている場合が多く、目的にかなった解釈運用をしなくてはいけません。
原子炉規制に関する法については、一般法は、刑法、民法。特別法は、炉規法、電業法です。一般法、特別法において、原発業務を規制する法律の目的は、条文や判例によると「公共の安全、すなわち人々の生命、身体、財産等の基本的人権を守るために事故を未然に防止すること」とされています。
そうすると、原発の経済的利益を重視して、事故防止のための安全基準および注意義務を緩和することは、原発業務を規制する法律の目的にかなうのでしょうか。安全基準をゆるめれば、事故が起こる確率は高くなるのはわかっていたことです。にもかかわらず、「原発の経済的利益を重視して安全基準を緩和する」ことを認める裁判例があることについても、みなさんに考えていただきたいと思います。
最後に「法の理念としての正義とは何か」という基本的な視点です。内閣法制局においては、佐藤達夫・元法制局長官が『法制執務提要』という法制局勤務者の必携文献を編集されていて、「内閣法制局が立案する法令は、法の理念である『社会正義』に合致した内容のものであるべきである」と記しています。そして、社会正義といわれるものの具体的な内容は何かについては、「我が国の実定法の頂点をなす日本国憲法の規定を手がかりとして、その理念とする社会正義の内容を探っていくというのが、ひとつの現実的な行き方として考えられよう」と記しています。
では、弁護士の正義論とは何か。弁護士法の第1条には、「弁護士は基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」と書かれています。この弁護士法でいう社会正義とは、内閣法制局の正義論と同義と解するのが相当だろうと思います。検察官、裁判官の正義論もまた、職務規定などを見ると、社会正義の実現をめざしていると理解するのが相当であろうと思われます。
法の理念としての正義とは何か
私は、正義論というものには、真実性、普遍性、進歩発展性、実現性という4つの要素が必要であると考えています。ところが、福島原発事故に関する裁判例を検証すると、4つのいずれにも反し、正義にかなっているとはいえない裁判例があります。考えなくてはいけないのは、福島原発事故の責任について、「具体的予見可能性説」を採用した裁判例と、「危惧感説」を採用した裁判例と、いずれが正義にかなっているか、ということです。
法律家を志すみなさんには、「法の理念としての正義とは何か」といった基本的な視点を確立していただきたいと思います。そして、高度の注意義務を体系化した「危惧感説」を積極的に活用し、社会の健全な発展に貢献していただきたいと願っています。
私は現在、80歳という高齢です。しかし、おかげさまで元気で、元双葉町長の井戸川克隆さんが国と東京電力を訴えた「井戸川裁判」の原告弁護団を結成して8年目になります。福島原発事故という人災が「無罪で終わっていいはずはない」という信念でやってきました。「危惧感説」を中心に、徹底的に事故の原因と責任を裁判で解明したいと頑張っています。今、法律家をめざしているみなさんも、社会正義の実現のために大いに挑戦していかれることを期待しております。
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ふるかわ・もとはる 弁護士、古川元晴法律事務所・主宰。1965年東京大学法学部卒業。1967年検事任官。法務省刑事局参事官、内閣法制局参事官、法務省刑事局刑事課長、同総務課長、最高裁司法研修所上席教官、京都地検検事正などを歴任し、2001年4月退官。その後、公証人を経て2011年6月から弁護士。2012年8月「法の支配」実務研究会設立。2015年2月『福島原発、裁かれないでいいのか』(船山泰範氏との共著、朝日新書)出版。2016年4月「井戸川裁判」原告弁護団結成。